いびつな心
ん、と小さな声をあげて瞼が上がる。光の差す緑の瞳に、ウィロウはハナであることを確認し、自身が抱きかかえるような形になっているその小さな体に呼びかける。くる、とまだ状況を理解していない様子のハナがウィロウを瞳に映すと嬉しさ半分、驚き半分と言った感じで飛び跳ねた。
「わあ!!!」
「っぐ」
勢いよくウィロウの顎にぶつかったハナは、頭のてっぺんを抑えて痛みに唸る。ウィロウは言葉も出ないような強烈な痛みに涙をにじませながら、紛らわせるために地面をどんどんと叩いた。ハナにはそこまでのダメージはなかったらしく、痛みに悶えているウィロウに慌てて近づくと、背中をさすって心配そうに覗き込む。
「ウィー! ご、ごめんなさい、こんなことになると思わなかったの!!」
「い、いいよ…気にしないで。急に話しかけた私が悪いんだから」
「ああ、赤くなってる…! 本当にごめんなさい、痛みを和らげる薬草を摘んでくるから!」
「あ、待って! ハナ!」
言葉が届く前に、ハナはビュンッと風のように森の奥まで走り抜けて行ってしまった。残されたウィロウは、まだじんじんと鈍く痛む顎をさすりながら、眠ったままのレイラを見る。
「ごめん、レイラ…」
純白の髪に手を伸ばす。
「私は…考えがいつも足りないのに、不完全なまま行動してる。だから誰かを傷つけたり、後から自分を恨みたくなるんだ。前もそうだった。私が海祇詩であった頃から、そうだったんだよ。
私は考えなしなのにそれが最善策だと信じて動く。そして後から間違っていると気がついて、私はいいことをした、この人には悪であっても、他の人にとってはこれは善なんだって、自分を肯定して、そうよかったんだと自分を洗脳している。そうじゃないと、私の人生には間違いとか、数えきれないくらいの罪がたくさんあって、恥ずかしすぎて死んでしまいそうだったから。
私はこの体で生きていることが辛い。私が消えてくれると信じていたから、あの暗い世界に一歩足を踏み込んだのに。レイラは、どう思う? 今までの私が全部偽物だったとして、それでも私を愛してくれる? 守ってくれる? 私はウィロウじゃなくて、海祇詩なのに。この体で生きるべき生命をどこかに行かせて、のうのうと暖かい家庭で暮らすことを甘受している詩は、罪人なんだよ、レイラ。
それでも、貴女は…」
その後に続く言葉はなんだったのだろうか。ウィロウは目覚める気配のないレイラから目を離すと、緑と青しか見えない景色に目を細めながら、さらりとしたレイラの髪を梳く。引っかかることなくするっと通り過ぎた髪の感触に微笑みながら、ウィロウはため息をついた。
「ウィー」
「っ! …あ、ハナ」
「どうしたの? …そんなに痛い?」
「え? そんなことないよ! ほら、元気元気!」
にこりと笑った笑顔を、ハナがグイーっと引っ張る。
「は、ハナ?」
「そんな苦しい笑顔、やめて」
「…あはは、隠せてないかな」
「記憶は見てる。ウィーの以前がどんなであったかもわかってる。だから、強がらないで」
「強がってなんか…」
「自殺は、この世界でもあること」
「ハナ? 突然何を…」
「生きることが苦しいと誰もが感じる。でもそれが慢性的なものでない人がほとんど。それらは呟くだけでその問題を頭から無くしたり、誰かに話したり、人に死ねと言ったりする」
「…それは、経験談?」
「うん。私じゃなくて、リノの」
「リノはどうしたの?」
「リノは生まれてきた僕や、兄弟に向かって死ねと叫んだ。知能が低いほとんどは、僕も含めて、何を言っているかわからなかった。1番最初に生まれた子は、リノを撫でた。2番目はおろおろとして、3番目と4番目は死んだ。5番目からは何が起こっているのかわからなくて、泣き出す子も、呆然とする子もいた。リノはしばらくして正気を取り戻したのか、3番目と4番目にごめんと言ってその血肉と魔力を吸収した。僕には、リノが元気になったように見えた。
…いや、それは兄弟を吸収したことで体が楽になったのかもしれないけど。でも、僕は誰かに悩みを打ち明けたからだと思う。リノの悩みは、生きられないと悟ったことだ。子供を増やしても育てることもできず、片割れは死にかけ、これ以上血筋を残せないとわかってしまった苦しみ。死ねと僕らにいうことで、自分を保って入られたんだと思う」
ハナはリノの感情を自分の意見も踏まえて淡々と語る。ハナの顔は、これまでに見たことがないくらい悲しそうで、泣いてしまいそうだった。ハナはウィロウの手を握る。じんわりとした暖かさと、プニプニの肉球の柔らかさが伝わってきて、ウィロウは黙ってそれを握り返した。
「私は、今すぐにでも消えてしまいたい。レイラに縋って、ハナやリノを巻き込んで。まだ私は、自分を正当化しようとしている…そうじゃないと、どうにかなってしまいそう。詩が残してきた義理の家族にだってとてつもない迷惑をかけただろうし、戻って謝りたい。全部全部けりを付けて、なかったことにしたいの。ウィロウも、海祇詩も、どの世界にもいて欲しくない。消えて欲しいの、だって、そうじゃなくちゃ…」
「ウィーは、本当にそう決心したの?」
「え…?」
「僕ならウィロウを消せるよ。その魂を食べて、噛み砕いて、自我も心も存在もなかったことにできるよ」
握られた手に力が入る。
「…そうじゃなくちゃ、申し訳がつかないと思ってた。謝っても間違いは消せないから」
「どうしたいの、ウィー」
「でも、違うんだね」
「…」
「なかったことにするのは卑怯だ。自分だけがハッピーエンド。それじゃ私は納得できない」
「生きようよ、生きていよう、ウィー」
ハナは泣いていた。雫が手の甲に落ちる。
「うん…!」
彼女は一度死んだ。それは海祇詩として。彼女はもう一度生きていくことになった。
それがどんなに辛くても、苦しくても、生きていれば、それだけ何かが帰ってくると信じて。