第4章《生命の躍動(エラン・ヴィタール)》
しかし、実際に戦闘を展開し戦術指揮を取っていると、これらの原則とは別種の挫折を覚えることになる。
我が方の【偵察】は敵方すべてを観測しているわけではなく、我が方から敵の【戦略予備】の存在を確認することが出来ない。
はたして我々の攻勢は敵の防御を打ち破ることができるのだろうかと、戦術指揮官は底なし沼に金貨を捨てているような感覚に襲われる。
これは鎧を着込んだ騎士に対して、金槌を打ち付けるかのようなものである。
たしかに我々の攻撃は防御され効果のないように見えるが、それは相手の表情と、打撃に対しての損傷が目視できないためにすぎない。
なのだから、戦術指揮官はここで妥協して戦力を撤退するべきではない。
ジョミニも【自己自身と妥協することなく】と記し、またクラウゼヴィッツも戦争には精神的要素があることを多分に記している。
またフランスの軍人、フェルディナント・フォッシュ(1851年10月2日-1929年3月20日)も『戦争の原則(Des principes de la guerre)』において触れている。
精神的に劣れば不安や恐怖が湧き上がり、これは指揮においても反映され投げやりであったり、消極的な戦闘行動といった形で現れる。
一方で、精神的優位に立つことができれば、心理的優越感をもってして敵に対する攻撃を有利な視点から考え出し実施することができる。
戦術指揮においてこの精神的優位において生み出される心理的優越感により、戦術指揮官は精神に【ゆとり】を持つことが出来、このリソースを戦術指揮に費やすことができるのである。
死に物狂いで戦うこともまた重要ではあるが、戦場においては俯瞰的視点によって精神に【ゆとり】を持ち、決して【勝利点】と【目標】を亡失してはならない。
また、こうした精神的側面、人間同士の齟齬などをクラウゼヴィッツは『戦争論』において【磨耗】と呼んでいる。
これらは【報告、連絡、相談】といった基本的な情報伝達が行われなかった場合や、指揮官同士の不和、指揮官の精神的劣位による思考停止、あるいは進撃停止などが上げられる。
戦術指揮官であっても人間である以上、こうした状況に完全に陥らないようにすることはできないが、しかし、こうなった場合の回復は困難を極める。
一人の戦術指揮官が【自失】に陥った場合、それを回復させるために他の戦術指揮官、あるいは参謀などが補佐をしなくてはならない。
それは前線においてバランスが崩壊しかけている中で、後方の戦術指揮官の統制能力を回復させるという、極めて難解な作業である。
しかし、これを怠ると精神的劣位に陥った戦術指揮官の前線は他の前線と比べて拮抗状態に陥り、まったくの遊兵と化してしまうだろう。
そうならないためにも、戦術指揮官は常に心の中に【エラン・ヴィタール】を秘めて欲しい。
アンリ・ベルクソン(1859年10月18日-1941年1月4日)の哲学用語であるこれは、言わば【上昇・前進志向】【勝利への意思】である。
勝敗という結果の内、敗北を好き好んで受け入れるなど、したくはないだろう。
であるならば勝利する為に前進し、機動することを止めてはならない。
停止させるならばそれは意味のある停止でなくてはならず、遊兵の存在は存在する数だけ錘となって貴君の足を引っ張るであろう。
指揮官である貴君が最初に敗北を享受した瞬間、それは前線における戦闘に敗北したという事実に変化するのである。