恋という言葉を辞書で引いて御覧よ
「……作」
屋上で寝転がる幼馴染みの頬に触れる。
体温の低い幼馴染みからは、熱らしきものを見付けられずに、ひんやりとした冷たい頬の形を確かめるように指先に力を入れた。
「お前はアイツを突き放すのか?」
伏せられた睫毛に問い掛ければ、まるで呪いの解かれたお姫様のようにゆっくりと開かれる瞳。
青空のようなものでも、黄金色でも、エメラルドのような緑でもない、ただの黒目に俺が映る。
ハイライトの入らない、ただ黒を塗りつぶしたような黒目がそこにあった。
丸く撫でる頬には、熱が戻りつつあり、何故か幼馴染みは同じように手を伸ばす。
俺が指先で撫でているのとは違い、頬を包み込むように手の平を添える幼馴染み。
真っ直ぐに向けられた視線が痛い。
「オミくんはどうして欲しい?」
質問に質問で返すのは、幼馴染みの悪い癖だ。
何もかもを見透かしたような、自身の考えなんて一片も見せない、硝子玉のような瞳は、俺の答えを待っている。
「……お前らのことは、お前らが決めるべきだろ」
「うん。一理あるね」
俺の頬を撫で回していた体温の低い手の平が、指先に変わり感触を確かめるようにつつく。
緩やかに上げられた口角は、それ以降何かを語ることはない。
なら聞くなよ、とすら言わないのだ。
つついていた指先が、頬肉を掴み引っ張る。
くすくすと鼓膜を擽るような笑い声が屋上に響き、風に攫われて消えていく。
アイツがこの幼馴染みに惹かれるのは、当然のことであり、当たり前で、必然なのだろう。
真っ赤な目に痛い髪色を思い出し、目を閉じる。
「……オミくん」
キィ、と重たい階段の踊り場と屋上を分ける扉が開かれ、思い出した真っ赤な髪が大きく揺れる。
頬を撫で、頬を引っ張られる俺の姿を見て、垂れ気味だった眉が僅かに釣り上がり、眉間に小さな皺が生まれた。
「文ちゃんが、呼んでる」
普段は頭のネジが一、二本飛んでいるんじゃないかと思うくらいに、ニコニコしているのに、今ではその表情は強ばっている。
そう言えば、生徒会の仕事がどうの、と言っていたのを思い出し、重い腰を上げた。
その際に、流れるように指先が離れていく。
神経質そうに眼鏡を押し上げ、綺麗にヤスリを掛けられた爪で、コツコツと机を叩く文の姿を思い浮かべ、目の前の幼馴染みを見る。
しっかりと働く文とは真逆に、自堕落的に惰眠を貪るこの幼馴染みは、起き上がる気がないらしく、柔らかく目を細めていた。
行ってくる、そう告げて長い前髪を一瞬、掻き上げれば、擽ったそうな笑い声が耳に残る。
アイツと擦れ違う瞬間には、薄い桃色の唇を噛み締めていて、あーあ、と後頭部を掻くのだ。
上手くやってくれよ、そんな言葉は誰にも届くことはないのだけれど。
***
私とオミくんはイトコで幼馴染みだけれど、文ちゃんと作ちゃんは幼馴染みで、常に四人一緒だった。
バランスを完全に取って、四人で手を繋ぎあって、円になっているような関係。
ある意味ではぬるま湯に使った、甘えてるだけの関係なのかも知れない。
しかし、作ちゃんはそれを崩すことを何よりも嫌い、ぬるま湯で良いと、甘えていたいと言うのだ。
この関係を崩すことは、自分の四肢を失うことなのだ、と過去に語ったことがある。
感覚を確かめるように両足を揺らし、両手を握り締める作ちゃんに、私もオミくんも文ちゃんも黙ってしまった。
そうして、今、その関係にヒビを入れた私を、彼女は許してくれるのだろうか。
屋上の剥き出しになったコンクリートの上で、四肢を投げ出して横たわる作ちゃんは、静かに目を閉じている。
いつもは綺麗に結えられた髪が、コンクリートに広がって、風が吹く度に揺らされていた。
上履きでコンクリートを踏み付け、寝転がる作ちゃんに近付き、先程までオミくんがしゃがみ込んでいた場所に、同じようにしゃがみ込んでみる。
伏せられた長い睫毛は作り物のようで本物。
生きるお人形のように整った顔立ちは、正しくお人形のように表情の変化に乏しかった。
しかし、その中でも感情が読み取れ、何を考えているのか、何が言いたいのかが分かるのは、幼馴染みで四肢である特権だ。
いや、正しくはだった。
今となっては、作ちゃんの感情も考えも、何が言いたいのかも分からないのだから。
「……ボクは分かるよ。ただ、MIOちゃんが理解しようとしないだけ」
突然見開かれた目に驚いて、後ろへと体を倒してしまった。
尻餅を付いた私を、真っ黒な双眼が見つめる。
「っ……だって、こんなの、変だよ」
仰向けのままに視線だけを私に向ける作ちゃんは、静かに続く言葉を待っている。
やはり真っ黒な双眼からは何も読み取れない。
硝子玉みたいに、私の姿を反射している。
心の中が砂埃に塗れたように、ザリザリと音を立てて、まるでテレビの砂嵐のようなノイズを立てた。
今にも底の抜けそうなミシミシという音も聞こえてきそうで、耳を塞ぎたくなる。
真っ直ぐな視線は、その行為を許してはくれない。
「だって、女の子同士だよ」
「……」
「それぞれ、それぞれの、四肢、なんでしょ」
「…………」
「大切な、幼馴染み、で」
ずっと開かれていた目が、乾いたかのようにゆっくりと閉じられ、数秒間を挟んだ後、同じようにゆっくりと開かれる。
真っ直ぐに、真っ直ぐに、視線が私を貫いた。
「それが、美緒の言い訳かい?」
無表情に、無感情に放たれた言葉は、視線同様に私を貫いてしまった。
抑揚のない声のはずなのに、私のその考えを真っ向から否定するような、責めるような言葉。
普段の呼び方がなくなり、名前で呼ばれると、喉が締め付けられた気分になる。
零れ落ちた雫が、冷たいコンクリートを濡らす。
仰向けに寝転んだまま、起き上がる気がないとでもいうように伸ばされた手は、私の襟を掴み、引き寄せる。
その細い体のどこに、そんな力があるのかと問いたくなる勢いで、私の体は前のめりになり、作ちゃんの顔を覗き込む体制になった。
「アインシュタインは、こんな言葉を遺しているよ。人が恋に落ちるのは重力のせいではない」
襟に深い皺を生み出し、同じような深い皺を眉間に刻んだ作ちゃんは、静かにそう言う。
その声には僅かな抑揚があり、子供に読み聞かせをするような、柔らかなものだった。
「恋に落ちることは愚行じゃない、でもそれは重力には何の責任もない」
鼻と鼻がぶつかりそうな距離では、作ちゃんの真っ黒な瞳しか見れない。
こんな石を見たことがあるような気がする。
真っ黒で硝子質の……そうだ、黒曜石、そんな目。
私の目に溜まっていた液体が、重力に従って作ちゃんの白い頬に落ちていく。
半分に弾け、その頬の丸みに沿って流れていく雫を見て、更に液体が増えそうになる。
「美緒のそれは、重力のせいって言い訳と変わらない。だから、ほら、言ってごらん」
コンクリートに後頭部を付けたまま首を傾げて見せた作ちゃんは、私の襟から手を離す。
刻まれた襟の皺は戻らないが、作ちゃんの眉間の皺はいつの間にか消えている。
まるで迷子を導くような指先で、柔らかく私の頬を撫でる作ちゃんは、やはり無表情だった。
丸く頬を撫でられながら、コンクリートに剥き出しの膝を打ち付け、私は手を伸ばす。
震える指先が視界に映り込み、乾いた笑い声が漏れた。
「すき、だいすき……すきなの」
知ってる、弧を描いた目元と口元、吐き出された言葉に落ちていく雫が増えて大きくなる。
覆い被さるように抱き着いたその体は、少し冷たくて、小さな笑い声と共に抱き返された。