第二話 停滞
黒峠さんがこのコンビニのパートに入って一ヶ月が経った。
彼女は昼勤として働いているので、当然のことながら彼女に仕事を教えるのも同じ昼勤のパートさん達だ。
しかし、夜勤である僕はちょうど彼女のシフトの前の時間帯で働いているので、引継という形で彼女と関わることになる。
正直言えば、僕はまだ心に引っかかっていた。
何が? もちろん黒峠さんのあの言葉だ。
『私さ、あんたみたいなの嫌いなんだよね。目的も無くブラブラしている男』
確かに黒峠さんから見れば僕はそう見えるのかもしれない。だけど僕は決してそうではないと主張したかった。決して目的も無くブラブラしている男ではないと言いたかった。
そもそもだ、彼女は昨今の就職活動、それも既卒者のそれがどれほど困難なものかを知っているのだろうか。
新卒で就職できなければチャンスは一気に少なくなり、就職できたとしても所謂ブラックと呼ばれる過酷な環境での労働を強いられる可能性が高い。
黒峠さんの時代のように、何もしなくても就職できた頃とは違うのだ。
だがそれを主張すれば間違いなく口論になる。僕はそれを避けたかった。そう、僕はあえて引き下がったのだ。
決して、後ろめたかったからではない。
「向井くん、レジ点検終わったよ」
黒峠さんの言葉で我に返る。
彼女は仕事中は僕への嫌悪感など無かったかのように、僕の言葉を素直に聞いてくれる。
だが仕事以外の雑談を振った場合は徹底的に無視されて、僕と話すことは無いと言わんばかりに舌打ちする。小さな声で、『話しかけんなよ』と呟いていたのも聞こえてしまった。
どうやら本当に僕のようなフリーターが嫌いらしい。だが、そうだとすると一つ疑問がある。
なぜ彼女は、コンビニのパートなんて仕事を選んだのだろうか。それこそフリーターが多く働いているであろう仕事を。
……しかし、まだ知り合って日が浅い黒峠さんの心の中などわかるはずもなかったので、退勤時間を迎えた僕はさっさと帰ることにした。
「お疲れさまです……」
帰りの挨拶がものの見事に流されたのを確認し、眠気眼をこすりながら自転車に乗った。
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「お〜す、お疲れ〜」
「お疲れ〜」
大学の友人達と遭遇した俺は、もはや定型句ともなっているやりとりの挨拶を交わした。
暦は七月になり、友人達は皆黒いスーツに身を包み、これから身に降りかかるであろう試練に向かうための防護服を纏っているように見えた。
まあ、俺としては同時に試練を受けざるを得ない囚人のようにも見えたわけだが。
就活の解禁が八月になったとされているが、実際は「面談会」という名目でそれより前に就活生との面接を開始している企業も多いようだ。おかげで友人達は、季節外れの防護服を纏わざるを得なくなり、その顔には汗が浮かんでいる。
哀れだ。実に哀れ。
服従するために必死になる姿を、哀れと言わずになんと言うのだろうか。
「どうだよお前ら、就活は?」
「いやあ、さすがにまだ本決まりの所はないな。ただ実質内定みたいなところは一つある」
「いいなあ、俺なんて一つもないぜ? ていうかこの格好、暑くてしょうがねえよ」
「だよな。だけどこれからはこれが基本になるからなあ」
全く、そんなにスーツを着るのがいやなら就活などしなければいい。そしてスーツなど着ることも出来ない底辺のバイトにでも墜ちればいい。
だがこいつらには、スーツを着て就活をすることしか選択肢はない。能力の無い人間には他人に従い、使われるしか道は無いのだ。
俺は違う。俺は人を使う立場だ。決して、こいつらのようにはならない。
「そういえば郡山。お前は院試対策は進んでいるのか?」
「まあな、このままいけば院への進学は決まりみたいなものだな」
「いいなあ、郡山は。俺も院に行きたいよ」
お前みたいな低脳が院に行けるわけないだろうが。そんな頭も、金も無いくせに。
「ところで、お前って院に行って何したいの?」
友人の一人が、そんなことを聞く。折角だから教えておいてやるか。
「ああ、大したことじゃないんだけどな。俺は現代の企業って、もっとグローバルな視点が必要だと思うんだ。だから、ここの大学院で経営について勉強して、それから海外に行こうと思う」
「……ん? うん、それで?」
「え?」
「海外に行ってどうするんだよ?」
海外に行ってどうするか? 何を聞いているんだこいつは。
「そりゃあ……経営について勉強するんだよ。それでいずれは、自分で会社興そうかなって考えている」
「……ああ、うん、わかった。郡山も結構でかい夢を持っているんだな」
ふん、こいつも少しは俺のすごさがわかったようだな。
「いやいや、大したことはないよ。お前らも就活頑張れよ」
「ありがとう、それじゃまたな」
「おう」
お前らがまともに就職できるとは思わないけどな。
それをあえて言葉に出さずに、友人達と別れた。
俺はあいつらとは違う。俺はもっと凄い人間だ。
それなのに、あいつらやバイト先のヨキさんのような落ちこぼれに対しても心優しく接してあげられる俺は人間が出来ていると思う。
特にヨキさんだ。あの人のようにいい歳こいてコンビニでバイトなんてしているフリーターには絶対にならない。あの人はせいぜい反面教師として利用させてもらう。
そう、俺に利用されるのだから、あの人も本望だろう……
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「な? 言った通りだろ?」
「ああ、郡山って自分に酔っているところあったけど、まさかあそこまでとはな」
「『海外に行って経営について勉強したいです』だってよ! 何にも考えてねえんだなあいつ」
「それにいくら院に行くにしても、あの茶髪はないよな」
「本当だな。あいつ何もしていないくせに自分に酔って他人を見下しているんだよな。まあ……」
「うん?」
「だから扱いやすいし、見てて面白いんだけどな」
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最近、なんか専門に行くのがダルくなってきた。
黒板の前で同じ内容の言葉を何回も繰り返して話す、ケバケバしい女性講師を見ながら、私はそう思ってしまった。
高校生の時、なんか大学に行くために勉強するのも、就職活動するのもダルかった私は、なんとなくファッションの仕事をするのはかっこいいかなと思い、服飾の専門学校に行くことを決意した。それが失敗だった。
思っていたのと、違った。
別にデザインセンスもないし、アパレルショップで服を売る仕事につければいいやと思った私は、ファッションアドバイザーになるための学科を選択した。
なんというか、私はもっと服飾専門は華やかなところだと思っていたのだ。ファッション選びのセンスはあるし、流行の服を安く手に入れられて楽しく勉強できると思っていたのだ。だが実際は、この学科でも服飾造形の授業はあったし、不器用だった私はウザい講師に何度も怒られてテンションが下がった。さらに、広報や商品展開、消費者のニーズがどうたらとかの面倒な勉強が多く、元々勉強が苦手で専門に入った私の後悔は大きかった。
そんなの知らなくてもいいでしょ。服を買うお客なんて自分しか見ていないんだから。皆からチヤホヤされる自分しか見ていないんだから。
しかも授業ではショートスピーチなどという、前に出て自分の考えや意見などを発表する面倒なイベントがあった。これが私にはきつかった。
別にこれからのファッション業界の行方なんて興味ないし、イケてる服を選ぶセンスさえあればアパレルの販売員なんて勤まると思っていた私は、そこで大きく躓き、みんなの前に恥を掻くことになった。これがさらに私のテンションを下げる要因となった。
あー、ダルい。ていうか、何で私だけがこんなに苦労しなきゃならないだろう。
大学行った友達は毎日楽しそうだった。イケメンと何人も知り合ったみたいだし、何より時間があるのだ。大学は自由に時間割が組める。だから一日まるまる休みという日も作れる。だからその日に友達を遊んだりバイトしたりも出来るのだ。
だけど私は違う。学校の授業は朝早いし、何よりダルい。それに授業が終わったらすぐにバイトに行かないといけない。
別にバイトなんてしたくないけど、バイトしないと服を買うお金もない。そうなったら、流行に置いていかれる。ダサいと思われる。
本当に理不尽だ。何で私ばっかりこんな目に遭わないといけないんだ。
そう思っていると、高校卒業直前に別れた元カレのことを思い出して、さらにムカついた。
なんて言っていたっけなアイツ。確か、『お前人生なめすぎ』とか言っていたかな?
ふざけんな。私だって人生については考えている。だからこうして専門で苦労して勉強しているんだ。そうだ、私は皆とは違う。ちゃんと頑張っている人間だ。
間違っても、バイト先のフリーター男みたいな冴えない人生は送っていない。
あのヨキって男は本当に冴えない。私より一回り年上なのに全然大人びてないし、なんか弱気だし、そもそもいい歳してフリーターだ。ああいうのを負け組って言うのだろう。
だけどおおっぴらに見下すと私の評判が落ちるので、表面的には仲良くしてやっている。私は本音と建て前を使い分けられる大人なのだ。
だけどそれも疲れる。この前なんかあいつのオゴリとはいえ、食事に付き合わされたし。しかも『島津さんは未成年だからアルコールは無しにしようか』とか言い出した。空気読めよ。今時そんなこと守っているやつがいるかっつーの。
そんなんだから就職できないんだ。いや、かつては正社員だったらしいが、別に大した違いはない。
あいつのことを見下すことでいくらか溜飲が下がった私ではあったが、相変わらず講師のつまらない話は続いている。
あーあ、本当にダルい。
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僕は今日もハローワークで四十分ほど求人を探した後、いかにも気に入った求人が無かったかのような態度を職員に見せながら、そこを出た。
……本当は求人票の詳細すら真面目に見ていないのに。
僕は就活をしている。いや、自分にそう言い聞かせている。それはわかっている。
だけど僕は未だ恐れていた。就職した先で恫喝されることを。いやそれ以前に面接で僕の経歴を指摘されることを恐れていた。だからこそ一歩が踏み出せないのだ。僕の軟弱な心のせいで。
そしてこの恐れは、今の僕の生活も関係していた。今、僕はコンビニのアルバイトとしてまがりなりにも働いている。そしてそこでもある程度頼りにされる立場にはなっている。
そう、今の僕がどん底でないことが、僕の足を止める原因の一つなのだ。
僕はもう実家を出て一人暮らしをしている。その状況でも貯金はある程度は貯まった。だから当面は生活出来てしまうのだ。その「生活出来る」という事実が僕をぬるま湯に留めさせる誘惑となっていた。
「別にこのままでもいいんじゃないか」という誘惑だ。
もちろんそんなわけはない。今はまだ体力があるから夜勤も出来るが、歳を取ればそれも不可能になるだろう。そしてそれはそう遠い未来ではない。今のこの状況は永遠に続くものではない。それはわかっている。
だけど僕はバイトを辞めてまで就活しようとはしなかった。なぜか? それは僕の今の居場所を捨ててまで飛び出した場所が、地獄であることを恐れているのだ。
なまじ居心地がいいため、僕はそのぬるま湯を手放すことを恐れていた。そんな自分に大きな嫌悪感を抱きながらも、僕はハローワークに戻ろうとはしなかった。
翌日の夕方。
僕はバイトはなかったが、発注作業のためにバイト先に行くことにした。
「お疲れ」
「あ、ヨキさんお疲れさまっす」
「ああ、郡山くん。どうしたの?」
事務所には郡山くんが椅子に座って電話を操作していた。
郡山くんは今日シフトに入っていたが、彼は夜勤なので勤務はもっと後の時間のはずだ。どうしたのだろう。
「いや、暇だったんでカナエちゃんに面白いソシャゲ教えようと思って」
「そうなんですよ〜。シローくんが紹介してくれたゲームめちゃくちゃ面白くって」
郡山くんの隣には島津さんもいた。まだシフト前なので彼と一緒にゲームを楽しんでいる。
「あ、ヨキさんもやりません? 友達紹介すると、レアアイテムがゲットできるんですよ。是非やってほしいっす」
「うーん、僕はちょっと遠慮しておくよ」
「そうすか、残念です」
郡山くんは僕の返答を聞くと素直にゲームに戻った。こうやって度を過ぎた教養をしてこないところが彼のいいところだ。
「そういえば郡山くん、暇だって言っていたけど勉強は大丈夫なの?」
「何言ってるんですかヨキさん。余裕ですよ。それとも俺が信用できませんか?」
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど……」
郡山くんは少し眉を寄せてしまう。ちょっと余計なお世話だったかな。反省しないと。
「それよりヨキさんは今日どっか行ってたんですか〜?」
島津さんが話題を変えてくれた。これは感謝だな。
「あ、ああ。今日はハローワークに行ってたよ」
「へ〜、ヨキさんはやっぱり精力的に活動しているんですね。見習わないと」
「いや、そんなことないよ」
本当にそんなことはない。僕は二人を騙している。僕を応援してくれている二人を騙している。そのことに罪悪感を感じる正義感を持ちつつも、就活に踏み切る勇気は僕の心には無かった。
「島津さんは今日も学校?」
「はい。今日は広報の勉強いっぱいしちゃいました」
「広報? そういうこともやるの?」
「そうですよ。やっぱりそういうの知らないと流行とか追えませんからね」
……二人とも、将来に向かって努力している。ちゃんとした夢を持っている。
なのに僕は何だ? 恐れているだけで何もしていないじゃないか。
変わらないと。取り返しがつかなくなる前に変わらないと。
そんな時、事務所の扉が開き。今シフトに入っている店員が入ってくる。
「あの、仕事もしていないのに事務所にいられると邪魔なんだけど」
昼勤のパートで、夕方までのシフトである黒峠さんだ。
「す、すみません」
僕は一言謝り、黒峠さんに道を譲るようにして郡山くんと島津さんの間に入る。
「全く、ブラブラしているだけじゃあきたらず仕事も邪魔するの? そんなんだからフリーターなのよ」
……言い返せない。
黒峠さんの言うとおり、僕はフリーターだ。そしてそれは、僕が精神的に成長していないということに十分な説得力を持たせる。
フリーターだからお前はダメ。ダメだからお前はフリーター。
その罵倒に立ち向かうだけの武器を、僕は持っていなかった。
「ちょっと、言い過ぎじゃないっすか?」
だけどそれは僕の話だ。郡山くんは違う。
郡山くんは、大学生である彼は、黒峠さんに立ち向かえる。
「なによあんた?」
「言い過ぎって言ったんすよ。ヨキさんは発注の仕事をしにここに来たんだし、フリーターであることを咎める権利はあんたに無いでしょ」
郡山くんの言葉を噛みしめる。
僕は内心で、黒峠さんを否定してほしかった。彼女の一方的な攻撃を防ぎたかった。
だけどそれは出来なかった。彼女は正論という最強の矛を持っていたから。
でも今は郡山くんがいる。僕を守ってくれる。
「そうですよ。黒峠さんは言い過ぎです」
島津さんも郡山くんに加勢した。
嬉しい。とても嬉しい。彼らが僕の仲間であることがとても嬉しい。
二人がいれば、僕は彼女に立ち向かえる――
「あんたら、何か気持ち悪いね」
だがそんな僕の思いは、さらなる攻撃で打ち砕かれた。
第二話 完