もち米を準拠として対称に
ふと顔を上げると炊きたての米粒のような形のふっくらした白いなにかが俺を見下ろしていた。
目も鼻も口も無い。当然耳も髪も無い。
「驚きましたか」
「驚きました」
「それはよかった」
米粒は自慢気に胸を反らす。
米粒は緑色の和服を着ていた。草色の地に濃緑の帯を締めている。あまり高価そうには見えない。普段着なのかもしれない。
しかし米粒には手も足も無いのにどうやって着ているのだろう。否、そもそもどうやって着たのだろう。
「何しろ人に驚いてもらわないと困りますからねえ。驚いてくれて冥利に尽きます」
米粒にも色々あるらしい。
「そうだ、ここで出会ったのも何かの縁、」
「出会ったと云うよりはそちらが勝手に出て来て勝手に驚かしたのでは」
「細かいことは気にしなさるな。さあ、この巾着を遣りましょう。開けてご覧なさい」
赤い紐を引いて椿色の袋を開くと、中から出て来たのは米粒だった。
「本体か」
「阿呆。これはもち米です。しかもただの米では無い、霊験あらたかな米粒なのですぞ。いいですか、もし助けを乞いたい時はこの米を混ぜて炊いた赤飯を残さず食べると何時でも何処でも我らが参上するという訳です」
しかし米粒が来ても。
という疑念が通じたのか米粒はむっとした雰囲気を纏い出した。
「君、疑ってますね。私を何だと心得ますか。私が山頂を叩けば山一面に緑が芽吹くのですよ。私が田を見捨てれば米は一粒も取れなくなるのですよ。それとも今年、貴方が住む県の米の取れ高を国内ワースト1位にして欲しいのですか」
もういい、もういい。
「充分に信じました。有り難い物を頂戴し誠に心より感謝しております」
「うむ。それでは君が呼ぶまでしばしの別れだ。また会おう」
あ、来るのはこの米なんだ、と少しだけ気が抜けた。
そして30年後。
私は妻に浮気され離婚し、養育権を取られ独り身、おまけに不景気の煽りをもろに食らってリストラ、日がなパチンコと競馬に明け暮れ、今もドアの向こうでヤクザ紛いの取り立て屋がどんちゃん騒ぎを繰り広げている。
ノックの音をBGMに私は考える。
このもち米は今使うべきか。
恐らく一度きりしか無いチャンス、この先もっと悪いことが起きるかもしれない。その時まで使わないほうがいいのではないか。
だがこの危機を乗り越えなければこの先が来るかどうかも危ういのだ。
私は考える。
そもそも米粒は未だ生きているのか。というより、もう約束など忘れているかもしれない。30年以上も昔のことだ、しかも神の気まぐれで偶然起こったこと。覚えているとは思えない。
一か八か炊いてみるか。……いや、しかし。……いや、……
もち米を使うチャンスは今までに何度もあった。大学入試に失敗した時、就活に失敗した時。妻に浮気された時、妻に離婚を切り出された時、養育権を取られた時、会社をリストラされた時、借金が嵩みだした時、数え出したらキリがない。
その時にどうして使わなかったかといえばただ一つ、「勿体無い」からだ。
今まで取っておいたのに本当に今使ってもいいのか。
とっときのワインはもう飲んでもいいのか。
私は考える。
そもそも、私が様々な不遇の目に合ってきたのは神にもち米を貰ったからではないか。呼び出せばどうにかして貰えるという甘えが不遇の目を招いているのではないのか。そもそもの原因は米粒で、もち米なのではないか。さすればあの神は吉兆の神でなく、凶兆を招く神だったのではないか。全ての歯車はあの時、米粒が私を驚かせた時から狂っていたのではないか。
私は考える。考える。考える。考える。考える。部屋は暗くなる。ノックの音は止まない。巾着は落ちた椿の色。もち米はもう見えない。