ウィンチェスト・オラルドの契約
ウィンチェスト・オラルド伯爵は今年で二十九歳になる。
青い髪を結い上げ、切れ長の瞳で周囲を見渡せば、それだけで人々を跪かせることが出来るほどの迫力美人だ。
女伯爵として家を継いで既に二年。
貴族としての土台はそれなりに築いてきたが、やはり女性ということで権力中枢には関わらせてもらえていない。自分の家を守っていればそれでいいという扱いだった。
ウィンチェストも権力を欲しているわけではないのでその扱いに不満はなかった。
彼女が求めるものは唯一つ。
彼女が恐れるものは唯一つ。
それは『死』だった。
幼い頃、オラルド伯爵家の嫡子として命を狙われ続けてきたウィンチェストは、何よりも死を恐れていた。
親族は女に爵位を継がせてたまるものかという考えで刺客を放ったのだろうが、好んで爵位を継いだ訳ではないウィンチェストにとってはいい迷惑だ。
だが何度も命を狙われるうちに、死というものを身近に、隣人のように感じてしまったウィンチェストは、それを何よりも恐れるようになった。
返り討ちにした刺客の死体を何度も何度も目にしてきた。
命がこぼれ落ちて、無くなっていく瞬間を何度も体験してきた。
死にたくないと命乞いをする者。
役目を果たせない責任として自決する者。
自分が死んだことを信じられないまま尽きていく者。
さまざまな死を目撃した。
その体験は、ウィンチェストに恐怖を刻み込んだのだ。
死とは怖くて寒いもの。
信じたくないほどの虚無に取り憑かれながら、それでも逃れえないもの。
だから彼女は逃げ出したかった。
立場からではない。
刺客からでもない。
『死』という運命から逃げ出したかった。
その運命を拒絶できるのなら、何を犠牲にしても構わなかった。
金も、人も、立場も。
自分の命以外なら、自分の運命すらも犠牲にして構わなかった。
だから、彼女は悪魔に魅入られた。
死への拒絶。
生への渇望。
否。
生への欲望が悪魔を呼び寄せたのだ。
「貴女の望みを叶えましょう。この手を取れば、貴女は不老不死を手に入れられます」
黒い翼を持った悪魔は、聞き惚れてしまうような声で、歌うように告げてきた。
「手に入れるわ。その為なら何でも差し出す」
そしてウィンチェストはその手を取った。
たった一つの願いを叶えるために。
「儀式の準備は順調に整っていますよ、ウィズ」
ウィンチェストの屋敷、その地下室で、彼女と契約した悪魔ダルセリオは言った。彼が立っている地下室の床には、赤い血で魔法陣が描かれている。その周りを囲んでいるのは、数多くの棺だった。
ちょうど、子供が入るぐらいの大きさだ。
棺の中は空っぽだ。
今のところは。
「ええ、ディオン。こちらも順調よ。仕込みを終えたお菓子は子供達に配っている。特に怪しまれていない。まあ、わたくしらしくないという批判は少なからずあるけれど、それでも表向きは慈善活動ですからね。妨害されることもありませんわ」
ウィンチェストはにこやかに答える。
ダルセリオは彼の真名であり、契約者であるウィンチェストであろうと、その名前を呼ばせることはない。なのでウィンチェストは彼をディオンと呼んでいる。
同じようにダルセリオもウィンチェストをウィズと呼んでいるが、これは単純に呼びやすいからそうしているだけであり、深い意味はない。
「この儀式が完成すれば、わたくしは死の運命から逃れられるのですね?」
他の人間が見ればおぞましいと表現しそうな、血の色で描かれた魔法陣をうっとりと眺めながら、ウィンチェストは問いかける。
彼女にはそのおぞましさこそが希望の道標のように見えているのかもしれない。
「ええ、その通りですよ、ウィズ。不老不死は人間が求める永遠の夢であり、欲望の果て。貴女はもうすぐそこに届く」
「うふふ。楽しみね。ああ、本当に待ち遠しい。早くやってきてくれないかしら。早くわたくしの為にこの棺に入ってくれないかしら。わたくしにその命を捧げてくれないかしら。その為にこんな回りくどい事をしているのだから、早く結果が見たいですわ」
「焦らないことです。急いては事をし損じる、と言いますしね。それにこの街には僕の他にも悪魔がいますから。彼らを刺激しないように気を付けなければなりません」
結果を急ぐウィンチェストを窘めるダルセリオ。彼は慎重に事を運ぶ性格なので、契約者が焦った態度を見せるとすぐに宥めようとする。
「他にも? この街は悪魔で溢れているのかしら」
「溢れている、という程ではありませんが、少なくもありません。この街は混沌の門となりうる歪みを抱えていますからね。そこに住む人間は歪みを抱え、その歪みは欲望を増幅させ、その欲望に悪魔が惹き寄せられる。同じ場所に悪魔が集まった時、そこには我々が守らなければならないマナーが存在します。仲間同士の衝突を避けるために」
「なるほどね。悪魔同士も色々と大変、というわけね」
「ええ。彼らにも契約者が存在し、その望みを叶えるために動いています。お互いの利害が衝突しない限り、我々はお互いに干渉してはならない決まりになっています」
それが悪魔同士の法であり、それを破った者は魔王に処罰されることになっている。
以前、マリアが赤い光を見たというのは間違いなくウィンチェストの屋敷だった。
しかしそれを調べようとするマリアをレティーが制止したのは、契約には関係ないという事情も嘘ではなかったが、それ以上にこの法が存在したからだ。
あれ以上の干渉は法を犯すことになる。
何をしているのかをマリアが知れば、それは契約に矛盾しないという事で干渉を許されるが、あの段階ではそれをすることが出来なかったのだ。
今の段階ではまだ、ウィンチェストは誰にも危害を加えていない。
マリアとレティーが彼女に干渉できるのは、犠牲者が出てからだ。
レティーはそれを知っていてマリアに黙っている。
悪魔としての法を守る為というのもあるが、それ以上にそれを知ったときのマリアの顔を見てみたいという好奇心もあったりする。
マリアに惹かれていると自覚していても、それは慈しみたいという意味ではない。
苦しむ顔すら、苦悩すら愛おしいと思うからこそ、レティーはマリアを追い詰める。
悪魔と人間の契約関係は、必然的にそういう歪みを抱えることになる。
「ではわたくしは部屋に戻りますね。後のことはお任せしても?」
「ええ。お任せ下さい」
「ではおやすみなさい、ディオン」
「よい夢を、ウィズ」
棺に囲まれた地下室から出て行ったウィンチェストを見送ってから、ダルセリオは口元を吊り上げる。
儀式はもうすぐ完成する。
生贄の仕込みは万全であり、彼女の願いはすぐに叶う。
不老不死。
一瞬の輝きの中で散る儚さこそが人間の素晴らしさだとダルセリオは考えているが、それを否定するのが人間だということも理解している。
だからこそダルセリオはここにいる。
「まさかレティーがここに来るとは思いませんでしたけどね」
この街で感じたレドラウス・ペンドラゴンの気配。
人間を弄ぶことはあっても、人間と契約することは滅多になかった彼が、久方ぶりに契約を結んだ相手。
シスター・マリアはダルセリオにとっても興味深い相手だった。
レティーの意志でこの儀式に干渉することは許されないが、マリアの意志で干渉することは法に反しない。
ならば自分たちは衝突するのかもしれない。
「レティーが来るというのなら、それ相応の準備をしなければいけませんね」
儀式の準備だけではなく、邪魔が入った場合の仕込みも万全にしておく。
予感ではなく確信。
悪魔は悪魔の法を守る。
個体数の少ない悪魔同士の消耗を避けるために。
しかし、だからといって悪魔同士の闘争を求めていないわけではないのだ。
戦いたい。
ぶつかり合いたい。
そして、殺し合いたい。
ルールがそれを許すのなら、それこそが福音であり、最大の娯楽なのだ。
「待っていますよ、レティー」
石壁に遮られて見えない月に願うように、ダルセリオは遠く離れたレティーに呼びかけるのだった。