悪魔との日常
それから毎日は刺激的に、怒濤のように流れていった……というようなことはなく、ごくごく普通に流れていくのだった。
マリアは教会の仕事などほとんどせず、毎日のように街中を出歩いては困って人を助けて回っている。
朝のお祈りや権力者への根回しなど、教会本来の仕事をやっているよりもよほど聖職者らしいとレティーは呆れてしまうのだった。
聖職者らしくないのにそう見えてしまうという矛盾を孕んでいて、それが少しだけ面白いと感じてしまう。
悪魔は矛盾を好む。
相容れない事象の中で発生する摩擦や葛藤、人間の抱える苦悩を愛でる為だ。
マリアの在り方もそういうもので、それは本来レティーの琴線に触れてご機嫌になってしまうような状態なのだが……
「かゆい……かゆいかゆいかゆいかゆいかゆい……」
じんましんでそれどころではなかった。
体中を掻きむしりながら呻いている姿は、とても公爵級悪魔には見えない。翼を隠している現状では人間に見えているので、傍から見るともの凄い美青年が体中を掻きむしりながら呻いているというもったいない姿になってしまっている。
すれ違う女性達からはその美貌から足を止められて、その行動から溜め息をつかれているという繰り返しだ。その状態も屈辱にプラスされていた。
世界規模では偉大なる悪行に手を染めていると理解しているのだが、やはり個人レベルでは善行に手を貸している状態になってしまう。
自らの魔力が人助けに消費されている。
その事実がレティーを苛んでいた。
全身じんましんという形で。
「レティー、大丈夫?」
前を歩いているマリアは、そんなレティーを振り返る。
「大丈夫に見えるのならマリアは一度眼球を抉り取って新調した方がいい」
「そこまで嫌ならついてこなければいいじゃない。契約した以上、離れていても魔力は使えるんでしょ? 別に無理についてこなくてもいいし」
確かにレティーが傍にいる方が魔力の調子がいい事は確かだ。だがマリアが使用する魔力はあくまでもささやかな量と規模であって、レティーが傍にいなければ困るというほどではない。帰りたいのなら止めるつもりもないのだ。
「いや。目を離した隙に浮気をされては不愉快だからな。監視も兼ねてついていくことにする」
「浮気って……別にまだ結婚したわけでも恋人同士になった訳でもないはずなんだけど……」
「婚約はしたようなものだろう?」
「まあそれもそうか……」
しかしじんましんを我慢してまで浮気を気にする男というのも器が小さすぎるように思えてくる。こんなしょぼい器の持ち主が将来の旦那になるのかと思うと溜め息をつきたくなってくる。
「……今何か失礼なことを考えていなかったか?」
「気のせい気のせい」
正確には失礼なことではなく正当な評価に対する将来の懸念だったのだが、それを正直に言うほどマリアも酷ではない。
「でも魔力って便利だね。神聖言語みたいに面倒な手順もいらないし、本当に思った通りの力が使える」
「元々は人間を堕落させるための力だからな。大変だったら意味がない」
「意味がないって?」
「人間は面倒な方法よりも楽な方法に傾倒するだろう?」
「そりゃそうだ。ということはあたしも今は堕落の真っ最中ってことか~」
「まさしくその通りだな」
……と、言いたいところだが、魔力使い放題の癖に一向に魂が穢れる気配がないマリアだった。
むしろ輝きを増している。生き生きと輝いて、花のように咲き誇っている。
魔力を使えば魔性に引き摺られる。いつかどうしようもないところにまで堕落して、引き返せない場所で絶望する。
本来、魔力を借り受ける使役契約とはそういうものだった。
しかしレティーには確信がある。
マリアは決して穢されないと。
彼女はその誇りを汚されないと。
「……その輝きの原動力が他の男との約束というのが気に食わないところではあるのだが」
「ん? 何か言った?」
「何も言っていない」
「そう」
今度は広場の方に足を運んでみる。
「あれ?」
「どうした?」
「うん。ちょっと珍しいものを見たなって思って」
「珍しいもの?」
「ほら、あれ……」
マリアが指さした先には、広場の中心で馬車一杯のお菓子を配っている人たちがいた。
大人も子供も分け隔て無く、袋に詰められたクッキーを配っている。
「貴族の慈善活動のようだな。そんなに珍しいのか? 俺もよく見かけるぞ、ああいうのは」
「そりゃあ貴族も教会も選挙が近づいたら都で似たようなことはやるけどさ」
「そうそう。人気取りとか名前を売るためにやっているのを見かけるぞ」
「でもここはサリナだよ。教会なんて名ばかりのものだし、近々選挙があるわけでもない。この時期は何もない筈だし。あのお菓子も人件費も、決して安くない。それなのにあんな事をする理由があたしには分からない」
「……普通に、正真正銘の慈善活動ということではないのか? 俺には理解できない行動だが」
「……だといいんだけど」
マリアは何か引っかかるようで、お菓子を配り続けている彼らをじっと見ていた。
睨んでいる風にも見えてしまう。
するとお菓子の袋を籠一杯に受け取った少年が、マリアに気付いて近づいてきた。
「ティム?」
「マリアねーちゃん!」
ティムはマリアに近づいてきて、嬉しそうに笑った。
「見てくれよ! 今オラルド伯爵が慈善活動とか言ってみんなにお菓子配ってるんだ! 本当は一人一個なんだけど、おいらの家には動けない仲間が何人もいるんだって頼んだらこんなにくれたよ! これでみんなに食べさせてやれる」
「あ、ああ……よかったね……」
マリアは曖昧に微笑むことしかできない。クッキーなんて高級なお菓子を食べるのは初めてであろうティムは、待ちきれないと言いたげに袋を開けようとした。
「待った待った。開けるのはみんなの所に持って帰ってからにしようよ」
「うっ! そうだけど一個ぐらいはさ~。マリアねーちゃんにもお裾分けしたいし」
「い、いや、あたしはいいから」
「そうなの? すっげーおいしそうだよ」
「いいから。それはみんなに持って帰ってあげなよ。あたしも欲しくなったらもらいに行くからさ」
「うん。わかった」
じゃあねと言ってティムは廃墟に駆けていった。一刻も早く食べさせてあげたいのだろう。
「……途中でつまみ食いしなきゃいいけど」
そんなティムを呆れ交じりに見送ってから、マリアはそう呟いた。
「………………」
そしてレティーはティムではなくティムが持っていたクッキーに関心があるようで、配っている人たちに視線を移している。
「ん? 欲しいの? 欲しいならもらってきてあげるけど」
「……いや。甘いものは好きではない」
「あっそ」
なら何で見てるんだと突っ込みたくなったのだが、すぐに視線を逸らしたのでマリアもそれ以上追及しないことにした。
「うーん。オラルド伯爵かぁ。あんな慈善活動に精を出すタイプには見えなかったんだけどなぁ。何か心境の変化でもあったのかな」
マリアの知っているオラルド伯爵は、我が儘な女伯爵だった。男を圧倒するほどの女帝、というか美人なのだが、その迫力に負けず劣らずの我儘っぷりであり、周りの人間はすべからく自分に尽くすために存在していると信じて疑わない女だった。
間違っても誰かの為に高級菓子を無償提供するような女ではない。
それが一体何がどうなってああなったのか。
オラルド伯爵は子供たちの頭を撫でながらにこにこしている。
ああやっていると本当に優しいお姉さんにしか見えないから怖い。
マリアはオラルド伯爵の本性を知っているだけに、余計怖く感じるのかもしれない。
「あったのは心境の変化ではなく環境の変化なのかもな」
レティーが言う。
「どゆこと?」
「自分で考えろ。俺はあの女がああいう事をしている理由に心当たりがある。だがそれをマリアに教えてやる理由は今のところない」
「む」
「俺はマリアに好かれる努力をすると言ったが、無条件に甘やかしてやるつもりもない。それはマリアも望んでいないだろう?」
「そりゃね。分かった。自分で考える」
「胸を揉ませてくれたら教えてやるぞ」
「自分で考える」
「ちょっとでいいから」
「自分で考えます」
「ほんのちょっとだけ。先っぽだけだから!」
「違う表現になってるから!」
「ちっ!」
「……本気で舌打ちしないでよ」
本気で舌打ちするレティーに本気でため息をつくマリア。何だかんだでうまくやっている二人だった。
「まあオラルド伯爵のことは追々考えるとしましょう。今のところ特に害があるわけでもなさそうだし、放置したところで問題はなさそう」
「………………」
「じゃあ帰ろう」
「ああ。帰っていちゃいちゃしよう」
「しないから」
「……お前、本当に俺の嫁になるつもりがあるのか?」
「将来的にはね。でもそれとこれとは話が別。嫁入り前に爛れた関係になっても萎えるでしょ?」
「萎える言うな」
「今のところは別にレティーに惚れてるわけでもないしねぇ」
「傷つくことを言うな」
「いちゃいちゃしたかったが頑張って惚れさせてみな」
「攻略本が欲しいぞ。なんだこの難攻不落っぷり」
「それぐらいで攻略本とかしょぼいこと言ってんじゃないわよ」
あと攻略本で落とせるほどちょろい女のつもりはない、とも続けた。
二人がらぶらぶいちゃいちゃ出来る日はまだまだ遠い未来になりそうだ。
夜になるとマリアとレティーは翼を生やして夜の空を思う存分駆け抜けていた。
「すごーい! 空飛ぶって気持ちいいなっ!」
マリアは興奮しっぱなしで、どんどんスピードを上げていく。
空を飛ぶことがこんなに嬉しいことだとは知らなかった。レティーとの契約で一番嬉しかったのは、人助けの為に魔力を使える事ではなく、空を飛ぶことができるようになった事かもしれない。本末転倒な話だが、マリアも人間である以上自分の欲望に忠実であり、常日頃から他人の為だけに生きるほど聖人君子ではないという事だ。
今だけは自分の為だけに魔力を使っている。
悪魔の力で自分の欲望を満たしている。
そのことに対する罪悪感はない。
自分の為に契約したのだ。
だから自分が楽しむためにこの力を使う権利も同時に存在する。
「あはははは! もっと速く! もっと風を切るように!」
マリアは翼をうまく操作しながらより速く、より効率よく飛べる方法を模索していた。そのうち空中戦もこなせるようになるかもしれない。
「といっても空戦なんてそれこそ悪魔相手でなければ役に立たないスキルだけどな」
マリアの後をついて飛びながらそんな風にぼやくレティー。
しかしどこか嬉しそうでもある。
マリアが人助けの為に、つまり善行を積むために自分の力を使うと聞いたときには冗談ではないと思っていたが、こうやって自分の娯楽の為にその力を使う姿を見るとどこかほっとするのだ。
自分の為に生きている人間の姿を見ると安心する。
自分の欲望を叶えるために堕ちていく人間を見るのが悪魔にとって最大の娯楽だからだ。
マリアはいつか堕ちるだろうか。
それとも、誇りも輝きも失わないまま、清濁併せ持った魂へと昇華するのだろうか。
レティーはそれを見届けたい。
それを見届けるために、マリアを手に入れるのだ。
「およ?」
先行しているマリアが空中で停止し、ある一点を見つめていた。
「どうした?」
「うん。あれってなんだろう? 光ってるように見えるんだけど」
マリアは地上で紅い光を放っている場所を指さした。
「ん? ああ、あれは魔力光だな」
「魔力って……悪魔がいるってこと?」
「ああ。紅い魔力光は高位悪魔の証。俺以外の悪魔が何かをやっているらしいな」
「って、やばいじゃん! 止めないと!」
「何故だ?」
「何故って……」
反射的に止めようとしたマリアを、今度はレティーが引き留める。放っておくと一人で現場に向かいそうだったので咄嗟に捕まえたのだ。
「離してよ!」
「断る」
「このっ!」
自由な方の右手でレティーを殴ろうとしたのだが、それは叶わなかった。
「きゃっ!?」
レティーが意図的にマリアへと流している魔力をカットし、マリアが魔力を使えない状態にしたのだ。マリアの空中飛行を可能にしていた翼は消えて、地上へ落下しそうになる。
そこをレティーが素早く抱え上げ、お姫様抱っこをする形で阻止した。
「何すんのよ!」
お姫さま抱っこされたまま暴れ出したマリアを落とさないように気を付けながらレティーはその場を離れようとする。
「マリア。俺とお前の契約は『困っている人々を助けること』だろう?」
「そうよ」
「その為に俺の力を使う。そうだな?」
「そうよ」
「ならばこれは契約外だ。俺の力を貸すわけにはいかない」
「なんで!?」
「あそこにいるのが高位悪魔だからだ」
「仲間を庇おうっていうの?」
「そうではない。そもそも悪魔に仲間意識など存在しない。俺がマリアを止めるのは別の理由だ」
「……教えなさいよ。その理由を」
「悪魔と契約をしたからと言って、それがそのまま他人に害を与えるものとは限らないということだ。俺とマリアの契約のように」
「………………」
そう言われれば何も言えない。自分を引き合いに出された以上、それを否定することは自分を否定することになるからだ。
「悪魔と契約を果たす人間というのは、大抵の場合自分に利益を求める。つまり他人に害を為すことよりも自分の利益を追求する。あそこにいる悪魔と契約者が何をしようとしているか、それは俺にも分からない。だが積極的に他者へ害そうとしているとは限らないだろう」
「で、でも……。その悪魔は契約者を堕とそうとしているんじゃないの? 少なくともその契約者は酷い目に遭うんじゃないの?」
「遭うだろうな。どんな形であれ、悪魔の力を求めた者は代償を払わなければならない。それが契約だ」
「だったら助けたい。それはあたしのやりたいことだ。あたしとレティーの契約に反する事じゃない」
「それはどうかな」
「え?」
「言っただろう。悪魔と契約するのは自分の為だ。代償を払ってもいいと納得した上で契約を交わす。最終的に酷い目に遭わされたとしても、それは自業自得だ。マリアが助ける義理はない。いや、余計な手出しをするのはマナー違反だと言えるだろうな」
「………………」
「分かったか? 俺がマリアを行かせない理由」
「分かったけど……」
「ならば放っておけ。今のところ他者に害するような空気は感じ取れない」
「むー……」
マリアはむくれながらも納得したようだ。
自分の意志で悪魔と契約してその力を使っているのなら、確かに余計な手出しはマナー違反だと納得させられたからだ。
マリアはその夜、レティーに抱えられたまま教会に戻ることになった。
次の日。
子供達の様子を確認した後、再びあの広場へ行くと、今日もオラルド伯爵が子供達にお菓子を配っていた。
今日はフルーツのタルトを配っているようだ。美味しそうな匂いが離れた場所にも届いてくる。
「うーん。やっぱり謎だわ」
その様子をマリアが訝しげに眺めている。
「謎とは?」
その横に立っているのはレティー。彼はストーカーの如くマリアの側から離れない。
「オラルド伯爵の慈善活動よ。はっきり言ってこれはおかしい」
「……いけ好かない貴族がたまたま善行を積んでいるだけのことでそこまで怪しまなくてもいいだろう」
「うん。あたしもそう思いたいけどね。でもオラルド伯爵と慈善活動って、あたしの中ではどうしても一致しないのよね。水と油どころか、油と炎って感じで」
「それはある意味もの凄く相性がいいのでは?」
「裏返せば大災害ってぐらいにね」
「………………」
妙な例えをするマリアだった。
だが言いたいことは何となく分かる。
「つまり、裏があるかもしれないということか?」
「あんまり言いたくないけどね。ちょっと調べてみる必要があるかもしれない」
「そうか。まあ、好きにしろ」
「ん? もしかして何か感付いてる?」
マリアの行動を楽しむように答えたレティーに不審を感じる。しかしレティーはにやにやと笑うだけだった。
「何をやっているのかは見当がつく。人間の欲望、その心理を見透かすのは悪魔の専売特許だからな」
「そうなの? じゃあ教えてよ」
「断る」
「………………」
即答されてレティーを睨みつけるマリア。
「そんな顔をしても無駄だ」
「じぃ……」
「無駄だと言っているだろうが」
「うるる~……」
上目遣いでお願いするような態度を取るマリアに、若干揺らぎそうになってしまうレティーだった。キャラがぶれているにもかかわらずそのギャップに萌えてしまいそうだ。
「似合わない真似をしても無駄だ。そもそもこれは契約外だぞ」
「むー」
「知りたければ自分で調べろ」
「分かったわよ! 調べればいいんでしょ!」
ぷんすかと癇癪を起こしたマリアはそのまま立ち去ってしまう。
その後をレティーが追いかけた。
そんな後ろ姿をどこか楽しむように。
マリアが次に足を運んだのはロードレック侯爵の屋敷だった。
サリナはロードレック侯爵が治めている街であり、彼の屋敷はそのままサリナの政治中枢になっている。サリナの街の意志決定は全てここで行われている。
もちろんマリアは屋敷の中に足を踏み入れられるような立場ではない。
寂れた教会のいちシスターでしかないマリアは、実質何の権限も持っていないからだ。
教会関係者でこの屋敷へ入れるのは司祭クラスからだろう。そしてサリナのランティス教会には現在司祭が存在しない。中央協会からの後ろ盾がほとんど存在しない為、名ばかりの教会となってしまっている。
では何故ここへ来たのか。
それはある人物に会うためだった。
門番に取り次ぎを頼んでから、マリアは待つことにした。
その五分後、目的の人物は出てきてくれた。
「マリアじゃないか。どうしたんだ?」
出てきたのはイリアード・セラフィス。
サリナ警備隊の隊長を務める男だ。歳の頃は二十代後半くらいだろう。
セラフィス伯爵家の次男で、家を継ぐ権利を持たない為、こうして警備隊に入隊して出世を果たした。貴族らしい高貴さは持ち合わせていないが、同時に貴族ならではの選民意識も持っていないので、マリアとしては色々と話しやすい知り合いでもある。
揉め事関係で関わることの多いイリアードとマリアは、実は結構長い付き合いだったりする。
赤い髪を後ろでくくっており、尻尾のようにぴんと立っている。マリアはその尻尾を引っ張りたくていつもうずうずしているのは内緒だ。
「ちょっとイリヤに訊きたいことがあってね。時間ある?」
「訊きたいことっていうのはオラルド伯爵のことか?」
「正解。さすがに鋭いね」
「まあな。街でもかなり噂になっている。らしくないといえばらしくないことやってるからな」
マリアと同じ紫色の瞳を伏せながらイリヤは続ける。
「おかしいと感じているのは俺も同じだ。今更庶民の人気を必要とするほどの案件を抱えているわけでもないしな。オラルド伯爵は政治中枢に関わってはいるが、今の立場で満足しているようにも見える。上に行きたいという出世欲とは無縁だ。逆に面倒事を抱えるのを嫌っている風に見える」
「じゃあ政治関係の動きじゃないって事だね」
「それは間違いない。だからこそあの行動の真意が分からないんだがな」
「やっぱりイリヤにも謎なわけか」
「ああ。まあ害があるわけではないから放っておいても問題はなさそうだしな。オラルド伯爵がああやってくれる分には子供達の餓死者も減るだろうし」
「うん。お菓子だから栄養は偏りそうだけど、飢え死にする子供は減るだろうね」
「悪いな。大した情報を与えてやれなくて」
「気にしないでいいよ。それはあたしも覚悟してた。ただ単に違う立場から気付いたことはないかどうか知りたかっただけだから」
「そう言ってもらえると気が楽になるが。ところで……」
イリアードは怪訝そうな視線をマリアに向けてきた。
「?」
「後ろにいる男は一体誰だ? まさか新しい司祭ってわけでもないだろ」
「司祭……ね……」
悪魔なんですと言うことも出来ず、マリアは噴き出しそうになるのを堪える。レティーに司祭。なんと似合わない言葉だろう。
「うちの居候みたいなもの。ちょっと訳ありでね。あんまり気にしないでもらえると助かる」
「ほほう。マリアもついにお年頃かな?」
にやにやと二人を見比べるイリアード。どうやらほどよく誤解してくれたらしい。
ランティス教会は男女の愛については肯定的で、神に仕える者は一生独身を通さなければならないという決まりはない。
守るべき者、つまり愛する者がいれば人は強くなれる。
そういう教義を広めているのだ。
なので聖職者でありながら妻帯者という人もかなり多い。
「想像にお任せするよ。将来的にはそういう関係になるかもしれないしね。今のところはただの居候」
「そうかそうか。物好きな相手もいるものだな」
「物好き言うな」
「いやいや。『ブラック・マリア』を妻にしようなんていう物好きはそうそういるものではないだろう」
「……酷い物言いだ」
「マリアにぶちのめされた男達に同じ事を訊いたら間違いなく同じ答えを返してくると思うぞ」
「………………」
腹立たしいが否定も出来ないので不機嫌そうに黙り込んでしまうマリア。その様子をレティーは笑いを堪えながら眺めていた。
「と、まあからかうのはそれぐらいにして。用件はそれだけか?」
「まあね。ちょっと気になったから」
「そうか」
「他に何かおかしなことはない?」
「特にないな」
「そっか。じゃあそろそろ帰ることにするよ」
「おう。彼氏と仲良くやれよ」
「だから彼氏じゃないってば」
「将来的には分からないんだろう」
「まあそりゃそうだけど」
からかわれるのは避けたいマリアがそそくさと話を切り上げようとする。
「オラルド伯爵のこと、何か分かったら教えてよ。やっぱり何か引っかかるんだ」
「分かった。その時は教えてやるよ」
イリアードもマリアの戦闘能力は信用している。問題を解決する際にマリアの助力が得られるのなら イリアードにとっても悪い話ではないのだ。
その約束を交わしてからマリアはイリアードと別れた。
その後は廃墟に立ち寄ってティム達の様子を確認した。
「ティムはまだ帰ってないんだね」
「うん。お仕事頑張ってるみたい。最近は貴族様から配られたお菓子を持って帰ってくれるからみんな喜んでるよ」
「そっか」
体調の回復したセレナから話を聞きながら、マリアは子供達の様子を観察した。
特に変わった様子はない。食べたことで体調が悪くなったとか、そういうこともない。ただの慈善活動とはやはり思えないのだが、害のある行動でもなさそうだと分かって安心した。
ティムは仕事が終わったらいつもはすぐに帰ってくるのだが、最近はオラルド伯爵の配っているお菓子を貰ってくるのでいつもより少し遅いらしい。
「セレナもお菓子食べた?」
「うん。すごく美味しかった」
「よかったね」
「うん。出来ればまた食べたいな」
「じゃあ今度あたしが持ってきてあげよう」
「ほんと!? でもマリアお姉ちゃんってお菓子作り得意だったっけ?」
「得意どころかやったこともない」
「……そんなことを堂々と言われても」
胸を張って言い切るマリアに苦笑いしてしまうセレナ。
セレナの方は作ることが出来なくとも魔法で出してしまえばノープロブレムと考えているので気楽な口約束である。
「あ、そうだ。黒鹿亭のマスターには話をつけておいたから。来週から出てきて欲しいってさ」
「うん! マリアお姉ちゃんありがとう! 私頑張るから」
以前紹介した仕事について詳しい話を進めておく。体調も回復してきたし、来週からは問題なく働くことが出来るだろう。あとはセクハラに耐える精神力があるかどうかだ。
まあセレナなら大丈夫だと思うが、やはり心配はしてしまう。
「ただいまー! 今日もお菓子配ってたから貰ってきたぞ!」
そんなやり取りをしている内にティムが戻って来た。両手にお菓子を抱えてほくほく顔だ。どうやら今日も貰ってきたらしい。
「わーい!」
「いっぱいあるね!」
子供達がティムに群がる。セレナも飛びつきたくてうずうずしているようだ。
「行ってきなよ。欲しいんでしょ?」
マリアと話している最中だったので遠慮していたのだが、我慢できなくなって走ってしまう。
「あ、マリアねーちゃん来てたんだ」
ティムがマリアに気付いて、手に持っていたお菓子を一つ手渡してくる。
「ねーちゃんも食えよ。美味しいんだぞ!」
「あたしはいいよ。実は甘いものってそこまで好きじゃないから」
「なにーっ!?」
自分が食べれば子供達の分が一つ減ってしまうので遠慮したのだが、それを聞いたティムは信じられないものを目にしてしまったと言いたげに身体ごとのけ反った。
膝をついて床を眺めながらぶるぶると震えている。
「ティム……?」
マリアが声をかけるが、ティムはぶるぶると震え続けている。
「う……」
「う?」
「嘘だ……」
「いや本当に甘いものは苦手なんだけど……」
どうして嘘をついていると思われたのだろう。
お酒大好きなマリアは、スイーツよりもつまみを好む。食べられないほどではないが、甘いものが苦手だというのは嘘ではない。
「お、女の子が甘いもの苦手なんて悪夢以外の何物でもないよ……」
「えー……それはさすがに偏見だと思うなぁ……」
間違いなく偏見だった。
自分以外にも甘いものが苦手な女の子は存在する。
甘いものが大好きな女の子が多数を占めている現実があるというだけで、少数派も存在するのだ。
しかしティムにはそれが受け入れられないらしい。恐るべきショタ少年の思い込みである。
「まあどっちでもいいけど。とにかくあたしは遠慮しておくよ。ティム達で食べてしまいな」
「うん……」
ティムは渋々引き下がる。籠には戻さずに自分で食べることにしたようだ。いつもは自分が我慢している側なのだろう。
そして自分が我慢した分をマリアに譲ってくれようとした心意気だけは素直に嬉しいと思うのだった。
子供達はあっという間にお菓子を食べてしまい、籠の中身は空っぽになってしまった。みんな満足そうな表情である。
「鳥……」
そんな中、セレナが呟いた。
「セレナ?」
窓の外を眺めながら、セレナは空を眺めている。
「綺麗な……鳥……」
どうやら鳥の姿を見つけたらしい。
「鳥がいるの?」
「うん」
「………………」
綺麗な鳥を一緒に眺めたかったのだが、マリアが気付いたときには見えなくなっていた。
「どんな鳥だったの?」
「虹色の鳥だった」
「虹色?」
はて。そんな鳥がいただろうかとマリアは首を傾げるが、セレナが嘘をつくとも思えないので存在はしたのだろう。