人助けとじんましん
「レドラウス・ペンドラゴン?」
「そうだ。それが俺の真名だ」
契約が終了すると悪魔は自分の名前をマリアに告げた。
「契約する以上は真名を告げるのが相手への礼儀だからな」
ということらしい。
しかし、
「とは言っても、悪魔の真名はみだりに口にするものではない。人前では呼んでくれるな」
「だったら教えなきゃいいじゃん」
と、そんなやり取りがあった。
「まあいいや。でも悪魔悪魔って人前で呼ぶのも問題がある気がするし、ニックネームぐらいは考えないとね。他の悪魔から呼ばれてる名前とかある?」
「レティーと呼ばれている」
「んじゃそのまんま採用。レティーで決定ね」
「自分で考える気は全くないようだな」
「んじゃあ『れっちゃん』でどうよ?」
「……レティーでお願いします」
「りょーかい」
不毛なやり取りだった。
二人は今、サリナの街外れにあるランティス教会にいる。
レティーを召喚したのは教会の地下室であり、今は地上に出てきているのだが、表に出てから色々と驚かされることがあった。
まずは教会の規模だ。
中堅どころの規模を誇るこの教会は、司祭やシスター、それに信徒などでそれなりに賑わっていてもいいはずなのに、ここにいる人間はマリア一人だった。
「ああ、この教会に司祭とかはいないよ」
「お前一人ということか?」
「お前じゃなくてマリアね。レティーって呼ぶんだからあたしのことも名前で呼びなさい。不公平だから」
「それもそうだな。ではマリアと呼ばせてもらおう」
「そうしてちょうだい」
「それで、どうしてマリア一人なのだ? 不自然ではないか?」
「そりゃそうだけどね。まあ仕方がないよ。こんな場所で聖職者をやりたい物好きなんているわけないし」
「そうなのか?」
「ここは退廃の街サリナだよ。神の教えを説くだけ無駄。誰もがみんな神様なんて信じていないし、縋ってもいない。自分の力で生き延びて、自分の悪意で誰かを陥れる。そんな事が繰り返されている。ここはランティス教会の勢力がほとんど及ばない場所なんだよ。一応、教会だけはこうやって建てられているけど、司祭はいくらやってきたところで誰一人長続きはしない。シスターも同様。逃げ出すか、殺されるか、堕とされるか」
「……凄まじいな」
「結局、残ったのはあたし一人だけよ。これから先も、誰かが派遣されることはないでしょうね。中央協会からの支援も連絡も途絶えているし」
「なるほど。だから神を信じていないのか。信じる価値のないものとして諦めてしまったのだな」
「いや。最初から信じていないから」
「………………」
だからなんでこんな奴をシスターにしたんだ教会の奴らは! と激しく突っ込みを入れたくなるレティーだった。
「まあそんな場所だからランティスの加護も薄いし、教会の地下で悪魔召喚が成立しちゃったりするんだけどね」
「世も末だな」
「言えてる。というかこの街が色々と終わってる」
「そんな終わっている街を守りたいと、そこで生きる人々を救いたいと思っているマリアの方こそある意味で終わっている気がするが」
「……かもしれないね」
マリアは早速外出の準備を始めていた。
外出の準備といっても、麻袋に食糧を詰めているだけだったりするのだが。どうやら誰かに食べ物を差し入れに行くつもりらしい。
しかし食べ物は袋の半分も入っていない。
その量にマリアは不満そうだった。
「ええと……食べ物出てこい! なんちゃって」
冗談交じりにマリアは両手を掲げて魔力を使ってみると、驚いたことに食べ物がごろごろと出てきてしまった。
「わおっ!」
種も仕掛けもない。
あるのは魔力の消費だけだ。
焼きたてのパンやチーズ、お菓子などが出てきていた。
「すごいね~」
「………………」
初めての魔力行使が食べ物の出現ということに微妙な感情を抱いてしまったレティーだが、彼女のやることにいちいち文句を付けていてはこの先精神が保たないと判断して黙り込むことにした。
「思った通りに願いが叶うってことかな?」
「その通りだ。悪魔の力は願いの成就。つまり願った通りに力が発現する。たとえば空を飛びたいと願ったら、空を飛ぶための翼も生える」
「ほほう。ちょっと試してみたくなった」
マリアは好奇心からさっそく試してみることにした。
空を飛びたい、その為の翼が欲しいと願ってみる。
「わーっ! ホントに生えた!」
するとレティーと同じ漆黒の翼が背中に生えた。
「すごいすごーい!」
ばっさばっさと空を飛ぼうとするマリアを、レティーが慌てて止めに入る。
「阿呆! さっさと降りろ! シスターが黒い翼を生やして空を飛んでいる姿を他の人間に見られたらマズいだろうがっ!」
「おおそう言えば!」
「……まったく。なんで悪魔の俺が人間の聖職者に常識を説かなければならないんだ」
盛大な溜め息をつきながらぼやくレティー。その気持ちはよく分かる。
マリアはシスターとしては奔放過ぎ、人間としては逸脱し過ぎていた。
「っていうかレティーも翼を仕舞いなさいよ。その姿を誰かに見られたらマズいんだから」
「言われなくても分かっている」
そう言ってレティーは瞬時に翼を消失させた。
「あ、消えた」
「見えないようにしただけだがな。これで問題はあるまい」
「ないけど。あ、あたしも消さないと。もったいないなあ。ちょっと空を飛んでみたかったのに」
空を飛ぶというのは人間にとってそこまでの憧れを抱かせるものなのか、マリアは名残惜しそうに翼を消してしまう。
「そんなに飛びたいのなら夜にこっそり飛べばいいだろう。高度を上げて飛び回れば人間の目には捕らえられない」
「あ、それナイス。さっそく今夜やってみよう!」
「………………」
人助けをしたいのか、それとも空を飛びたいのか。
果たして今の彼女の優先順位はどちらが上なのだろうか。
……考えてはいけない問題のような気がする。
そんなやり取りを経て、マリアとレティーは貧民街へとやってきていた。
「あ、マリアねーちゃんだ!」
ボロ雑巾のような服を着た十歳ぐらいの少年がマリアのもとへと駆け寄ってきた。
茶髪はところどころ汚れており、全体的にみずほらしい。手足も胴体もがりがりで、明らかに栄養が足りていない。
この街ではよく見かける子供の姿だった。
それでも一つだけ特別な部分を挙げるとすれば、琥珀色の瞳だろう。
荒んでいるわけでもなく、諦めている訳でもない。
それは頑張る者の瞳だ。
こんなゴミ溜めみたいな場所で、負け犬みたいな暮らしを続けていて、それでも未来を信じている健全な子供の瞳だった。
「………………」
それがレティーには新鮮だった。
レティーはこんな場所を何度も見てきた。
こんな場所で生きる子供も、死んでいく子供も、何度も何度も目にしてきた。
それこそ飽きてしまうほどに、何度も見てきた。
ここは地獄のひとつであり、子供たちは絶望で人生を終わらせる。
世界に光は存在せず、世界に神は実在せず、世界に生存を許されない。
そんなことを悟った子供たちが生きるべき道は限られる。
すべてを諦めて生きた死体となるか。
すべてを見限って他者から奪いながら生き延びるか。
だが目の前にいる子供はそうではなかった。
どちらでもなかった。
諦めていないし、死体同然でもない。
見限ってもいなければ、他者から何かを奪ってやるというような荒んだ様子でもない。
実に健全で、生き生きとしていて、輝いている。
その在り方が不思議でたまらなかった。
どうしてこの子供はこの状況でここまでの健全さを維持しているのだろう。
「おー。ティムも元気そうだね」
ティムと呼ばれたその少年をなでなでしながら、マリアは快活に笑っていた。
「元気だぞ! 明日は仕事が入ってるからちょうどよかった!」
「そっか。仕事は続きそう?」
「もちろんだぞ! マリアねーちゃんが紹介してくれたんだから簡単にやめたりなんかしないよ!」
「どうしても無理だと判断したらちゃんと言うんだよ。無理をして身体を壊したら意味がないからね」
「大丈夫だって! マリアねーちゃんは心配性なんだからっ! こりゃあ絶対いいお嫁さんになれるよな! おいらがいつかもらってやるから安心していいぞ!」
「………………」
その言葉にレティーが複雑な表情になる。
もちろん『いつか嫁にもらってやる』発言に嫉妬したわけではない。
こんな物騒な女を嫁にもらってやろうなんていう奇特な趣味に感心してしまったのだ。
尊敬してしまったと言っても過言ではないかもしれない。
そして恐るべきショタモテ属性である。
「っ!」
そんなレティーの考えが分かったのだろう。マリアはしれっとその足を踏みつけてからにっこりと返答していた。
「あたしを嫁にもらうにはまずあたしより強くならないとね。あたしは自分よりも弱い男に惚れるつもりはないからね~」
「……ねーちゃん。それっておいらに鼻歌交じりで筋肉ダルマを十人倒せるようになれってこと?」
「そうとも言う」
「ハードル高いよ!」
確かにハードルが高かった。
というかこの女そんなことまでやっていたのかと再びため息をつくレティーだった。
「おーっす。みんなお待ちかね食料のお時間だよ!」
ティムについていく形で今にも崩れそうな廃墟に足を踏み入れたマリアは、そこで待っていた八人の子供たちに持ってきていた麻袋を置いた。
「待ってましたー!」
「マリアねーちゃん!」
「いつもありがとう! マリアお姉ちゃん!」
子供たちは袋に駆け寄って食料を取り出していく。
決してがっつかずに、子供たち全員に行き渡るようにしながら。
「………………」
レティーにとってはこの光景も意外だった。
こういう場面ではそれぞれに奪い合いが生じてしまう。
それがレティーの知っている光景だ。
子供だからこそ抑制が効かず、殺し合いをしてでも、殴り合いを平然に行いながら少ない食料を奪い合う。
しかし目の前にあるのは、元気な子供たちがそれぞれに食料を分け合い、動けない子供のところへはその食料を持って行ってやり、それぞれに助け合う光景だった。
助け合って、支え合って、生きている。
何もできない子供たちが。
何もできない筈なのに。
「マリアねーちゃん。薬とか持ってないかな? 昨日からセレナの熱が上がってるんだ。食べ物も受け付けてくれないからこのままじゃ衰弱死しちまううよ」
ティムが元気なさそうにそう告げる。
元気なさそうではあるが、どこか諦めた声でもあった。
きっと何度も味わってきた絶望なのだろう。
手のひらから零れ落ちる命を、何度も何度も看取ってきたのだろう。
この廃屋の中で命を落とした子供の数は、決して少なくはないはずだ。
それでも希望を捨てたくないから、駄目元でマリアに訊いてみたのだろう。
「……薬は持っていないけど、一応診せて」
「分かった」
ティムとマリアは二階へと移動した。
二階にはティムと同じように、いや、ティム以上に痩せ細った少女がぼろぼろの服を敷いただけの床に寝かされていた。
ベッドやシーツなどという上等なものはもちろん存在しない。
ここは底辺の世界なのだ。
底辺の生活しか望めない。
空を眺めることもできないまま、その命を散らそうとしている少女がそこにはいた。
「……マリア……お姉ちゃん……」
死にかけの少女セレナは弱々しい声でマリアの名前を呼んだ。
マリアはそんなセレナの頭をそっと撫でながら、元気づけるように笑いかけた。
「大丈夫か? って、大丈夫じゃないよね。苦しいよね」
「うん……苦しい……わたし、このまま死んじゃうのかな……? クラインやリーゼみたいに……」
同じように死んでいった友達の名前を、かつてこの場所にいた仲間の名前を呟きながら、セレナは涙を流した。
死にたくない、生きていたい、このまま終わりたくない。
そんな願いが涙となって零れ落ちる。
「もしも元気になれたら何がしたい?」
「……働きたい。働いて、みんなの力になりたいよ。マリアお姉ちゃんみたいに、誰かを助けてあげたい」
弱々しくも、その意志だけはしっかりとしている。
みんなで助け合って、支え合って。
自分もその歯車の一つとして、役立ちたいと思っている。
今は病気になって迷惑をかける事しか出来ないけれど、元気になる事が出来たらお返しがしたい。
力になりたい。
役に立てる、誰かを支えられる自分になりたい。
「うん。その心意気はとても大切だね。実は紹介できそうな仕事もある」
「……ほんと?」
「ほんと。でもちょっと嫌なこともある仕事だ」
「嫌なことって……?」
「酒場のマスターがウエイトレスを探していてね。よく働いてくれる女の子がいいって言っていた。あたしの紹介なら間違いなく雇ってもらえる。でも、酒場っていうのは荒くれ男が結構集まるから、当然、セクハラみたいなのは日常茶飯事だ。尻を撫でられたり太ももを撫でられたり、胸を揉まれたり」
「………………」
「……さすがに胸を揉まれることはないんじゃ」
ティムが呆れたようにツッコミを入れた。
「あ、そうか。最近そんな経験があったからつい出てしまった。そうだよね、酒場のさりげないセクハラに胸を揉むのはないよね。というか普通にありえないよね。男として最低の行いだよね」
マリアはこれ見よがしに聞こえよがしに言葉を叩き付ける。
具体的には壁際で控えているレティーに向かって。
「………………」
そんな耳に痛いセリフを聞いても、レティーは揺らがなかった。
胸を揉んで何が悪いと開き直ってさえいる。
実に悪魔らしい最低ぶりだった。
「まあ、そんな感じでいろいろと嫌なこともあるかもしれない。それでもいいって言うんならセレナが元気になったらそこを紹介してあげる」
「もちろんだよ……む、胸を揉まれたって我慢するもん」
「その意気だ。ひっぱたいたら駄目だぞ。客が減る。セレナは可愛いから客寄せなんだ。胸はともかく尻や太ももぐらいは大目に見てやらないとね。あ、もちろんどこかに連れ込まれそうになったらひっぱたいていいからね。そこはさすがに労働条件外だ。マスターにもそこは言い含めてある。それで怒られたらあたしがマスターをブッ飛ばしてやるから安心していい」
「頼もしいね……」
「まずは元気にならないとね」
「うん。わかった。頑張って元気になる」
「そうそう。まずは頑張ってご飯を食べないと」
「頑張る……」
マリアはセレナの胸に手を当ててからそう言った。
断じて揉んでいる訳ではない。
回復を促す魔法をかけたのだ。
願い通りに魔法は発動する。
すぐに回復したのでは不自然過ぎるし、神聖言語にもそこまで劇的な回復を促してくれる呪文は存在しない。
まずは食べ物がのどを通るようにしてから、徐々に回復していくように生命力の流れを整えたのだ。
「ありがとう、マリアお姉ちゃん。だいぶ楽になったよ」
「それはよかった。じゃあ元気になったらお仕事開始だから覚悟しておくように」
「うん」
くしゃくしゃとセレナの頭をもう一度撫でてから、マリアは立ち上がった。
「ティム。袋の中の材料から消化にいいものを作ってあげて。それぐらいなら喉を通るはずだから。薬は用意できなかったけど、セレナはあれで大丈夫。元気になるよ」
「ほんと!?」
「ほんと」
表情を輝かせたティムはすぐに一階へと降りて準備を始めていた。
一秒でも早くセレナに食事を摂らせてあげたいのだろう。
セレナの他には特に体調を崩した子供はおらず、和気藹々としていた。食べ物も十分に行き渡っており、廃墟の中は活気で満ち溢れていた。
「何か他に問題は起きていない?」
「うん。大丈夫だよ。この前まで暴れまくっていたシグ達も、ねーちゃんに半殺しされてからは大人しいもんだし」
「そっかそっか。また迷惑かけられたらいつでも言うんだよ。今度は半殺しじゃ絶対に済ませないから。ああ、でも全殺しは不味いから、八分殺しぐらいにしておこうかな」
「……ねーちゃん。一応は聖職者なんだからあんまり殺す殺す連呼しない方がいいよ」
「それに関しては俺も同意見だな」
ぼそりとレティーが同意した。
その台詞にティムがレティーに視線を向ける。
「……さっきから気になってたんだけど、あの人誰? ねーちゃんの彼氏?」
不満そうに睨みつけているあたり、実に可愛らしくて微笑ましい。ヤキモチを妬く子供というのはどこかそういうほのぼのとしたものを感じさせる。
本人にとっては真剣なだけに、尚更そう感じてしまうのかもしれない。
「彼氏じゃない。でも一生寄り添う相棒みたいなものだ」
「………………」
その言葉にティムが少なからずショックを受けたようで、しょんぼりと肩を落としてしまった。
「いや、だから彼氏じゃないよ。契約上、一生を共に過ごすことは確定しているけど、恋愛感情は皆無だから」
「そうなの? 契約ってなに?」
「そこは秘密」
まさか聖職者の身で悪魔と契約しましたとは言えず、マリアは言葉を濁した。
「じゃあおいらがねーちゃんを嫁にもらえる可能性はまだあるんだな!」
ティムにとっては秘密よりもそっちの方が重要だったらしい。
深く追求されることはなかった。
「いい男になれば可能性はある、かも? だがもれなくアレがついてくることは確定している」
アレと言いながらレティーを指さすマリア。
「……俺はマリアの付属品扱いか?」
アレだの付属品だのの扱いをされたレティーは、当然のごとく不満顔だった。
「えー……アレはいらないよぉ」
「だよね~」
「………………」
蹴りの一発でも喰らわせてやりたい反応だった。
もちろんそんな事をすればマリアから三倍返しどころか百倍返しで連続蹴りを喰らわされそうなのでやらないが。
将来ティムがどんなにいい男になったとしても、マリアがティムにまかり間違って靡いてしまったとしても、絶対に妨害してやると心に誓うのだった。
なんともしょぼい誓いである。
少なくとも公爵級悪魔が心に炎を宿らせながら誓う内容ではない。
それから廃墟を後にしたマリアは、貧民街を歩き回りながら困っている人がいないかを見て回った。
パトロールのようなものらしい。
そこでマリアは足の弱ったお爺さんを助け、
腰を痛めたお婆さんを助け、
喧嘩をしている若者二人を両成敗で殴り飛ばし、
泣いている子供に飴を与えて慰めてやり、
重い荷物を苦戦しながら運んでいる少女を手伝ったりした。
「………………」
つまり善行を積み重ねているのだ。
いいことを、人助けを行っているのだ。
その度に消費されるレティーの魔力は、本体にじんましんとなってフィードバックするのだった。
身体中を掻きむしりながら悪夢のような表情で呻くレティーは、真っ赤になった身体とは逆に、顔面だけは真っ青になっていた。
「……ほんっとうに人助けにだけ使っているのだな」
ちなみに喧嘩両成敗の時には魔力使用は一切無かった。
マリアは自らの身体能力のみで屈強な男二人をぶっ飛ばしたのだった。恐るべき腕力であり、戦闘能力である。
「そう言えば……」
その際に気になる言葉を聞いたのだった。
「何?」
「ブラック・マリアと言っていたな、あいつら」
「ああ。あたしの通り名だね。主にああいうちんぴら達に呼ばれてる名前だけど」
「黒き聖母、ね。なかなか今のお前にぴったりじゃないか」
「あはは。確かにね。でもそう呼ばれ出したのはもう何年も前からだよ」
「そうか。何年も前から腹の中は真っ黒だったのだな」
「何か言った?」
「空耳じゃないか?」
「………………」
頬を膨らませながら黙り込むマリアの姿はちょっと可愛かった。腹の中は真っ黒だという意見はその可愛さを目にしても変わらなかったりするのだが。
「しかし、理解できないこともある」
「ん?」
「子供達のことだ」
「どゆこと?」
「あの教会にはマリアしか住んでいないのだろう? つまり部屋は余っているはずだ。十人足らずの子供ぐらい、孤児院代わりに住まわせてやればいいのではないか? あんないつ崩れるか分からない廃墟に住まわせておくよりはずっとマシだろう」
「………………」
マリアは立ち止まってから黙り込んだ。
「……マリア?」
「まあ、そうするのが一番いいって分かってるんだけどさ……」
「?」
「でも、それじゃあ意味がないんだよ」
「意味がないって、何故だ?」
「あたしはあの子達を助けたいと思っている。でも、やりすぎたらいけないとも思っている」
「………………」
「あたしはいつでもどこでもあの子達を助けてあげられる訳じゃない。いつまでも助けになれる訳じゃない。だからあの子達は自分の力で生きていかなくちゃいけないんだ。教会だって、今は司祭もシスターも閑古鳥だけど、いつ新しい人がやってくるか分からない。そうなるとあたしの力じゃ守ってあげられない事態に陥ってしまうかもしれない。それは困る」
「昔、何かあったのか?」
何か事情があることを察したレティーは説明の続きを促す。
マリアは忌々しげに吐き捨てるように、その続きを説明してくれた。
「よくある話だよ。聖職者の皮を被った幼児愛好家とか」
「………………」
「一番酷かったのは子供を売りに出すこと。奴隷でも、中身の切り売りでも、どちらでも利用できるからね」
「………………」
「シスターが子供達を虐待したこともあった。この街は、悪意ある人間が集まるように出来ているのかもしれない。聖職者でも、それは変わらない」
レティーが言うまでもなく、マリアはそれを実行したことがあるのだろう。
教会は孤児院の役割を果たすことも出来る。そうやって目に留まった子供達を助けようとして、もっと酷い目に遭わせてしまったのだろう。
その過去が、マリアを苛んでいる。
「もちろん立場なんて関係なく、そんな腐った行いをした奴は司祭だろうがシスターだろうが鉄拳制裁を食らわせたよ。まあ、その所為であの教会には他の聖職者が寄りつかなくなったっていうのも理由の一つではあるんだけど」
「というか、それが理由の大半なのでは……」
茶化せる雰囲気でもなかったのだが、言わずにはいられなかった。
「虐待を受けたっていう事実は消えない。一生、消えない。大人になっても心の中に深い歪みを残してしまう」
そうやって助けられなかった子供達を、マリアは何人も見てきた。
助けたくても、助かる意志のない子供達を何人も見せ付けられてきた。
「あたしが連れてこなければ、教会になんて住まわせなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。そんな風に自分を責めたこともあったけど、それも違う。あたしがそこで自分を責めるのは違う。結果に対して責任を負うのは、あくまでも選んだ本人なんだ。だから、自分の生き方は自分で選ばなくちゃいけない。自分の力で生き延びなくちゃいけない。それがどんなに苦しくても、辛くても」
「そうだな。選んだ自分が責任を取る。それはどこの世界でも変わらない」
「うん。だから、あたしに出来るのはちょっとだけ。ほんの少し、背中を押してあげて、困ってる人を手助けしてあげることだけ。みんなを助けたいって思っているけど、それで助けられた相手が駄目になったら意味がないんだ。その辺りの加減が難しくって、いつも迷ってばかりなんだけどね」
「そうか」
悪魔の手法に、とことんまで対象を甘やかすというものがある。
甘やかして、願いを叶え続けて、叶わない願いなどない状態にしてしまって。
気が付いたら自分で何一つ考えられない、何一つ成し遂げることの出来ない、その悪魔がいなければ呼吸一つ行うことが出来ない状態にしてしまう。
毎日少しずつ頑張るのが人間の正しい姿だとすれば、それは最悪の姿、最悪の完成形と言えるだろう。
悪魔の成果だ。
不幸のどん底に落とすことで成果を得るのではなく、幸せの絶頂に堕とすことでそれ以上の成果を得る。
ある意味において幸福と不幸は等価値であり、突き詰めてしまえばその絶対値は同じなのかもしれない。
悪魔であるレティーはその事をよく知っているが、人間はその事を分かっていない。
分かっていないまま、堕ちてしまう人間が数多くいる。
だがマリアは知っている。
実体験として、知っているのかもしれない。
しかし、だからこそレティーは考える。
幸福も不幸も等価値であり、基本的にはどちらでも変わらないという真実に至っておきながら、どうしてそこまで頑なに他者を救おうとするのか。
黒き聖母などと呼ばれながら、聖職者にあるまじき悪魔召喚まで行いながら、どうしてその魂は穢れないままなのか。
「何故だ?」
「え?」
「他人だろう? マリアにとっては、あの子供達も、他の人たちも、関係ない他人だ。その魂を穢してまで、俺と契約をしてまで助けようとするのは何故だ? まさか世界が平和でありますように、などと夢見がちなことを考えているわけではあるまい? そこまで夢見がちならそもそも俺を喚んだりはしていないはずだからな。現実を理解した上で、その現実と向き合った上で、それでも夢見がちな行動を続けるのは何故なんだ?」
「………………」
レティーの問いにマリアは沈黙してしまう。
教会への帰り道、色々な人とすれ違いながら。
マリアを恐れる人間も。
マリアに感謝する人間も。
様々な人たちとすれ違いながら、マリアは答えを返さなかった。
レティーも答を急いでいなかった。
簡単に答えてもらえることではないと分かっていたからだ。
太陽が沈んで夕日が頬を照らす頃、ようやくマリアは振り返った。背後にはマリアの住まうランティス教会がある。
マリア一人が取り残された場所が、そこにはあった。
「ちょっと屋根に登らない? そういう場所で話したい気分かも」
「構わん。折角だから連れて行ってやろう」
「え?」
レティーはマリアをお姫さま抱っこで抱え上げ、そのままジャンプのみで屋根上に着地した。
「あはは。すごいねぇ。悪魔ってすごいジャンプ力だね」
「凄いのはジャンプ力だけではない」
「ほほう」
「エロ方面もすごい」
「そっちは別にどうでもいいから」
「テクとかサイズとか耐久時間とか」
「いやだからどうでもいいってば」
そういう方面の堕落手法に長けているレティーはそれでも会話を続けようとしたのだが、マリアにとってはかなりどうでもいいことだったのでワンパンチで会話を終了させた。
ちなみにパンチがあたったのはレティーの喉だった。
顔面でも鳩尾でもなく声帯を潰す勢いで殴ったのだ。
どこまでも容赦のない契約者だった。
「よいしょっと」
シスター服のまま屋根に寝転んだマリアは、暮れゆく空を寂しそうに眺めていた。
沈みゆく太陽に、何かを思い出しているのかもしれない。
「正直に言うとさ。あたしは本心からみんなを助けたいって思ってるわけじゃないんだよね。みんなが幸せならあたしも幸せ、なんて思えるほど聖人じゃない。本当のあたしはもっと荒んでて、汚れてる」
「だろうな。マリアがそういうタイプではないことは見ていれば分かる」
汚れているかどうかはともかくとして、聖人でないことは見るまでもなく分かる。右の頬を殴られたからと言って左の頬を差し出すタイプではない。それは間違いない。
「だよね。悪魔ってそういう見る目は確かだろうし」
マリアはくすりと笑ってから空を見上げていた。
茜色に染まった空は、目に見える速さで夜の闇へと染まりつつある。
「あたしが本当に守りたいのは、みんなじゃなくて、約束なんだ」
「約束?」
「うん。昔、約束したんだ。みんなを守るって。守れる自分になるって。この街を守るって」
「………………」
「あたしも昔は酷い生活をしていた。ティム達と同じように、あの場所から始まって、絶望でその身を焼きながら生きていた。他人なんてどうでもよくって、奪うことでしか生きられなくて、そんな自分を恥ずかしいとも思わなかった。だって、そうしなければあの時は生き延びることが出来なかったから」
ティム達のように未来を信じることも出来ずに、ただ生き延びることだけを考えていた。
その頃を悔やむ気持ちは、はっきり言って無い。
自分が選んだ人生に後悔なんてしていない。
誰を傷つけても、誰を殺しても、それは自分の為だと言いきれる。
自分を優先するのが人間の正しい生き方なのだから。
「そんなあたしを助けてくれた人がいた。他者から奪うことでしか生きられなかったあたしを助けてくれて、導いてくれた人がいたんだ。五年前、どうしようもなく腐っていたあたしに、光を見せてくれた」
「それで改心したって訳か? なんだ。聞いてみれば単純な経緯だな」
「いや、混ぜっ返して悪いんだけど、改心したわけじゃない」
「………………」
この話の流れで改心した訳じゃないと言い切られるのも相当な捻くれ具合だと思った。悪魔よりも捻くれている聖職者だ。
「だってあたしは後悔なんてしていないし。それまでの自分の生き方が間違っていたとも思わない。それでもあの人に出会って、あの人に助けてもらえて、分かったんだ。そうじゃない生き方も出来るんだって。誰かから奪うんじゃなくて、誰かを助けるような生き方を選ぶことも出来る。あの人はずっとそうやって生きてきた。そうやってあたしのことを助けてくれた。それがとても嬉しかった。それこそ単純な話なんだけどさ、あの人みたいになりたいって思っちゃったんだよね。誰かを傷つけながら生きるんじゃなくて、誰かを助けながら生きられるようになりたいって。闇に寄り添いながら生きるよりも、光を信じて生きてみたいって。あたしも誰かにそんな風に思って貰いたいって。あたしにとってあの人が救いだったように、あたしも誰かにとっての救いになりたかった」
人生を変える出会いというのは、根本的な生き方や考え方を変えていくものでもある。
変わりたいと願ったならば、変わるべく行動できるように。
憧れた姿に、願った自分に、いつか届くように。
「そいつはどうなった? ここにはもういないのだろう?」
「うん。ここにはいないし、どこにもいない」
「死んだのか?」
「うん。下らないことに巻き込まれて死んじゃった。あの人はあたしみたいに腕っぷしが強かった訳じゃないからね。飢えた傭兵が食べ物を求めて教会に押し入って、そのまま殺された。ほんの少しの食べ物を奪われて、そしてあの人は命まで奪われた」
気楽そうに話していたマリアもその時だけは悔しそうに顔を歪めていた。
自分の人生に後悔はないと言っていたが、その時のことだけは悔やんでいるのかもしれない。
「あたしが買い出しに出た間、ほんの少し目を離した間の出来事だったんだ。あたしがいたら守れたかもしれない。あの人があたしを助けてくれたように、あの人を助けることが出来たかもしれない。でも……間に合わなかった……」
もう少しだけ早く戻っていれば。
そもそも買い出しになんて行かなければ。
そうすれば、あんな事にはならなかったのに。
「間に合ったのは、あの人の最後を看取ることだけだった。あの人の最期の言葉を聞き届けて、約束を交わすことだけだった……」
「それで十分じゃないのか? そもそも、そいつはそれ以上のことなど望んでいないだろう? 話を聞く限りでは」
「うん。でも、それ以上のことをしてあげたかったんだ。恩返しがしたかった。もう一度希望を信じさせてくれたあの人に。でも出来なかった」
「交わした約束とは、この街を守ることか?」
「うん。約束した。誰からも見捨てられたこの街を守るって。あたしの命が続く限り、守ってみせるって。困っている人がいたら助けてあげて、手を貸してあげるって。あの人があたしにそうしてくれたように、あたしも誰かに同じ事をしてあげるんだって約束したんだ」
「なるほど。だから『誰かを助けるため』ではなく『約束を守るため』なのだな」
「うん。あたしにとってはあの人との約束が全てだから。その約束を守り続けるために生きているようなものだから」
「………………」
「まあその為に悪魔と契約したなんてことをあの人が知ったら怒るかもしれないけどさ。でもあたしはあたしのやり方でやりたかったし。あの人みたいになりたいと思ってるけどあの人になりたい訳じゃないんだ」
「そうか……」
「うん。だからこれからもよろしくね、レティー」
「……気が変わった」
「え?」
「魂を貰うと言ったが、それはやめにする」
「やめるって……え? え? まさか今更契約解除とか言わないよね? というか言われても困るんだけど」
「それは大丈夫だ。言わない」
「ならいいや」
「代わりに嫁にする」
「はい?」
「悪魔の花嫁になってもらおうか、ブラック・マリア」
「……マジ?」
「マジだ」
「まあ魂捧げるのも嫁に貰われるのも大差ないから別にいいか」
もっと抵抗されるかと思ったが、意外とあっさりした反応だった。
「でも何で嫁発言? 『あたしに惚れると火傷するぞ』とか返した方がいい?」
「……返さなくていい。単にプライドの問題だ」
「意味が分からない」
「俺とお前は契約を果たした。つまり俺の力がお前のものであると同時に、お前の全ては俺のものだ。これはそういう契約だ。それは理解しているだろう?」
「理解してるよ」
「だからこそ面白くない。マリアの全ては俺のものだ。髪の毛一本から魂の欠片に至るまで全て。契約の代償に捧げられたものだ」
「うん……」
「それなのにマリアの心はそいつに囚われている。俺以外の男と交わした約束のために、誓いの為に生きている。俺にはそれが面白くない」
「……い、意外と独占欲が強いんだね」
「悪魔とはそういうものだ」
「そういうものなんだ……。っていうかあの人が男だなんてあたし言った覚えはないんだけど」
「そんなものはマリアの顔を見れば分かる」
「そ、そんな顔してた?」
「夢見る乙女の顔だった」
「……改めて言われると恥ずかしい表現だね、それ。でもまああの人はそういうのじゃないよ。単にあたしが憧れただけ。ああいう風になりたいって目標にしているだけだよ」
マリアは咄嗟に言葉を取り繕うのだが、レティーにはその繕いすらも不快だった。
「そんなことはどうでもいい。とにかくマリアの全てを俺のものにする。心も含めて。魂だけではなくその心も捧げて貰う。それがこの先力を貸してやる条件だ」
悪魔はマリアを睨みつけながら宣言した。
下手な答えを返そうものなら、今すぐにでも契約解除をされそうな勢いだった。
どうやらかなり自尊心を傷つけてしまったらしい。
「うーん……」
マリアは難しい表情で考え込む。
魂を捧げるのも嫁に貰われるのも正直どうだっていい。レティーと契約を交わしたときから、死後の魂もその身体も彼に委ねると決めたからだ。
だが、心はどうだろう。
心も含めてレティーに捧げろと言われた。
つまりレティーを愛せということだ。
「いいよ。じゃあ心も捧げる」
「あっさりだな」
「まあね。でもいきなり惚れろとか言われても無理だよ。だからレティーに惚れる努力をこれからしていく。これでどう?」
「まあ、その辺りが妥協点だな。いいだろう。この俺に惚れる努力をしてもらおうか。せいぜい頑張ることだ」
「……頑張るけどさ。でも頑張らないと惚れてもらえない自分に疑問を抱いたりしないわけ?」
やや呆れた視線を向けてくるマリア。ちょっぴり痛々しさも混じっているかもしれない。
「黙れ。俺はこれでもモテるんだ。マリアが努力さえすれば俺に惚れることは間違いない」
「……その発言がすでに好感度マイナスだよ」
「なんだと!?」
「あたしもレティーに惚れる努力はしてあげるから、レティーもあたしに惚れられる努力をした方がいいかもしれないね」
「なんと! この俺にそんなみみっちい努力をしろというのか!?」
「女の子を振り向かせる努力に対してみみっちいとか言うな馬鹿」
「くっ……」
忌々しげに歯軋りするレティー。
確かに芸術品のように美しい顔立ちをしているが、彼の場合中身が外見を裏切っている。
正確には中身をぶちまけることにより外見を台無しにしている。
「まあどうしても無理そうだったら惚れ薬とか洗脳とか、そういう魔法で虜にしちゃえばいいんじゃない? その時は抵抗しないし」
「女一人手に入れる為にそんな情けない真似が出来るかあっ!」
「あははは! その意気だけはちょっと見直したよ」
マリアは快活に笑いながら下に降りていった。
「くっ……。あいつと一緒だとどうにもペースを狂わされるな……」
凹まされたりヤキモチを焼かされたり、どうにも振り回されっぱなしの悪魔だった。
悪魔とシスターのカップルが成立するにはもう少し時間が掛かりそうだ。