005 電話
兄の紅哉が自室を去って、悠緋は一人で寝転がっていた。
考えているのは、紗桐のことだった。
あの、可憐な少女。
紗桐を好きだと――好きというほど積極的な感情は持っていないとしても、少なくとも気に入っているという人は、沢山いるだろう。クラスの連中や、同じ学年、もしかしたら上級生にもいるかもしれない。
紗桐は、人気だ。
だからこそ、早めに行動するというのは、考えとしては理解できるが――
「でも、電話は恥ずかしいよなあ……」
と、どうにも躊躇してしまう。
したいのは山々だが。
「けど、このままじゃ話が進まない――よし」
呟いて、悠緋は起き上がる。そして、ローテーブルの上に放置されていた携帯端末を手に取る。
紗桐の電話番号は既に持っていた。高校祭のリーダー役になって、いつでも連絡できるようにと交換していたのだ。こんなところでも、引き受けた恩恵が得られている。
端末を操作して、電話帳を開く。東條紗桐。見つけた。
これで、悠緋と紗桐を繋げるにはあとワンプッシュで事足りる。
だが、それがなかなか出来ない。
「……ってか、そもそも予定計画してないじゃん」
具体的に何をすればいいのだろう。
女の子を自分から積極的に誘ったことなんて、皆無だ。
「こういう場合どうすればいいんだろう……って、オレ、独り言言いすぎだな。傍から見れば異常者まではいかずとも十分変な人のような気がする」
しかし、傍から見ている人などいないから無用な心配だった。
とはいえ自分ひとりでぶつぶつ喋るのもどうかと思い、口をつぐむことにする。
悠緋は、端末の画面を睨みつけるように凝視していた。どうやって、紗桐を誘うか――今は、そこだけに意識が集中している。
「……うん」
と。
悠緋は、ついに、思い切ってボタンを押した。
紗桐との、通話ボタン。
耳に当てた携帯端末から、呼び出しの電子音が聞こえる。今、どこかで呼応する携帯端末があるんだろうなあ、技術は進んだんだなあ、などとどうでもいいことを考えているとき。
『もしもし?』
「あ……紗桐さん。オレだけど」
『どうしたの? 悠緋君』
繋がった。
悠緋は、緊張して混乱してしまわないように、落ち着こうとする。
『どうしたの? 何か話したいことでもあるの?』
「う……うん、そうだよ。話したいこととか、色々」
完璧には落ち着いていられなかった。
電話とはいえ、好きな人との会話である。直接あって話すのともまた違った感じがする。
『勉強教えて欲しいとか?』
「いや、流石にそれは電話越しじゃ無理だろ……」
だが、紗桐の手にかかれば出来てしまいそうである。
「それに、オレもう課題終わらせたから」
『……珍しいね。何かあったの? 嬉しいことか、もしくは不幸なこととか」
「紗桐さんは少しオレを軽く見すぎている気がする」
普段の行いが悪いんじゃないの、と悪戯っぽく言う紗桐。
ちなみに悪戯っぽくというのは、電話越しの感じと悠緋の受け取ったイメージだ。
もし冷徹に言い放っていたのだとしたら恐ろしい。
『だって、普段は学校着いてから授業中にやったりしてるじゃん。それに比べたら、大きな進歩だと思うよ……続けられたら、だけど』
「うるさいなあ……ちゃんとやるって」
まるで兄貴みたいなことを言うな、と悠緋は続けた。
頭がいいとそうなるのだろうか……だとしたらあんまりなりたくないな、と思った。
紗桐は悠緋の後につけた言葉に反応した。
『悠緋君のお兄さんって……大学生よね? 凄い優秀だって、風の噂で聞いたわよ』
今時、風の噂を聞く女子高生がいるのだろうか。
そんな、どうでもいいことを考えてしまった。
「あの兄貴が優秀、ねえ。確かに頭がいいといえば、いいんだろうけど。一緒に暮らしてると、あんまり思えないな」
『……ねえ悠緋君。頭がいいって、どういう基準で思っているか、考えたことある?』
「頭の良さ?」
『うん。あたしはね、頭がいいってことは、勉強が好き、ってことなんだと思う』
と、半ば唐突に、紗桐が話し始める。
『勉強、っていったら誤解が生まれるかな……うーん、簡単に言えば、自分の好きなこと、興味のある事柄、かな。それに対して真摯に向かい合えることが、頭の良さ――か、それに通じるものだと思うの』
「……なるほど。学校で成績が良くても馬鹿っぽい奴って、ざらにいるしな」
『そういうこと。逆に、学校で成績が酷くても、何かに向かい合えていたら、それは頭が良い……というか、良い、と思う。それの究極系が天才なんじゃないかとも、思う』
「そういう意味だったら、紗桐さんも天才の部類に入るんじゃないのかな」
『そう……かな? 頭が良いとは思うけど、そこまで過大評価は出来ないな、自分のことを』
「でも、頭が良いとは自覚してるんだ」
『そりゃそうよ。成績だってかなりレベル高いところにいるんだから。これで謙虚に振舞っていたら、むしろ反感を買いそうよ。だからといって、驕るのも嫌だけど』
そういう、自覚が出来るところ――自分を見つめられるところも、紗桐の良さなのだろう、と悠緋は思った。
自覚……大人らしさ。
「自分の好きなこと……ねえ」
『悠緋君はないの?』
「どうだろう……思えばオレ、勉強もあまり真面目には取り組んでなかったし、かといってスポーツに打ち込んでいるわけでも、芸術活動に没頭しているわけでもなかったからな、今まで。何して時間を潰してきたのか、咄嗟には思い浮かばない」
『そっか……まあ、発展途上、ってことじゃないかな』
「だといいんだけどな」
『ともかく』
ぴしゃり、と。そんな効果音を伴っていそうな感じで、紗桐が言った。
『あたしが言いたいのは、勉強を好きになってほしい、っていうこと。勉強までいかなくてもいい、知識を得ることの面白さを知ったら、絶対に勉強するようになるから』
そう、断言された。
「そう……か。そうかもしれないな」
『うん。きっとそうだよ。……ごめんね、分かりにくいたとえ話で』
「そんなことないって。すごく参考になったし」
『だったら良かった』
これも紗桐なりの、励まし方なのだろうか。
そう思えば、この説教じみて聞こえた話も、悠緋の心に染み入る。
『……それに、悠緋君は、きっと天才だよ』
「天才? オレが?」
ぼそりと囁いた紗桐の言葉に、悠緋が問い返す。
紗桐の言った天才とは、さっきの話で出てたような種類を指しているのだろう。
「だってオレ、まだ向かい合えるものも見つけてないし……」
『それは、さっきも言ったとおり発展途上なだけじゃないかな。大器晩成、って言葉もあるくらいだし、今から探せば、きっと何かあるよ』
「だといいけどさ」
どういう意味で紗桐がそんな言葉を言ったのか悠緋には不明瞭だったが、とにかく、紗桐は自分のことを少なからず嫌いではない、ということが分かって(あるいはそう独断しただけかもしれないが)嬉しく思った。
『まあ、気にしないで。それより、悠緋君が何で電話してきたかの本題だよ。随分長いこと逸らしちゃったけど』
「逸らしてたっていうより触れてさえなかったけどな……まあいいや。えっと……その」
ついにきた。
実は、さっきまでの会話の中でも、いつ触れられるかどきどきしながら話していたのだ。
中々口が動こうとしない。中空でとどまって、どんな形も紡ぎ出せないままにいる。
「…………」
『…………』
だが、いつまでも沈黙を続けるわけにはいかない。
――覚悟を、決めないと。
「今度、その、二人で遊園地に行こう」
『えっ……?』
「いや、今日も二人で話してたじゃん、お化け屋敷行きたいって。だから、今度暇があったときにでも」
しどろもどろになりながら、言葉を発す。うまく言えている自信はない。
『本当に?』
「……そりゃ、嘘では言わないよ」
その答えは。
『……いつでも、喜んで!』
「――よか、った」
放課後にも言ってくれたような、気持ちのいい返事。
悠緋の胸中にも安堵が広がる。
「その、まだ予定とかは決められていないんだけど」
と、直後に悠緋は申し訳なさげに言った。
そう。
悠緋は、結局、予定も立てないまま、電話をしたのだった。
そういった予定は、二人で決めることじゃないか、と思ったから。
『そんなの、大丈夫だよ。すぐ行けるわけじゃないんだし』
紗桐も大して気にした様子もないようだった。
それから、二言三言、やり取りを交わして、悠緋は電話を切った。じゃあまた明日、ばいばい、と言って。
携帯端末を閉じる。それをテーブルの上に置いて、自分は寝転がった。電話をかける前と同じように。
「や――った!」
両腕を掲げた。
内容的には放課後に話したこととさして変わるわけではないが、約束をきちんと取り付けたのは悠緋にとってかなりの幸福だった。
自分から行動して。
自分で、結果を得た――
紗桐との話ではないが、真剣に向かい合ったものが殆ど無い悠緋にすれば、そういった達成感は味わう機会は滅多に無かった。
「緊張した……」
とにかく、今はそれである。
嬉しさよりも、緊張からの開放が真っ先だった。
それくらい、悠緋にとっては劇的なことだったのだ。
「――っし」
もう一度、悠緋はガッツポーズをした。
悠緋が頑張る回でした。