001 兄貴
「……あ、兄貴」
「おはよー……」
リビングのドアを開けて、一人の青年が出てくる。起きて数分後の、寝ぼけ眼にぼさぼさの頭。だらしなさの権化みたいな格好に、キッチンに立っている少年は嘆息を吐いた。
「起きてすぐにしてもだらしがなさすぎるだろ」
「そんなことないって」
「あるんだよ。鏡見て来い」
「今日の飯、何?」
「なんでもいいだろ、さっさと顔洗ってこい。ついでに鏡も見て来い」
五歳も年下の弟にたしなめられ、兄は小さくはーい……と返事をしてすぐに部屋を出て行く。
弟はキッチンに向き直り、温めていたフライパンにバターを落とす。
「……ったく」
平日の、穏やかな朝。
冷房をつけていないリビングは、暑くもなく涼しくもない。開け放たれた窓から清涼な空気が流れ込み、室内の温度を下げている。
季節は夏。夏休みに入る少し前だ。今日はまだ涼しい。
弟の少年はてきぱきと調理を進める。朝食作りは慣れたものだ。卵をフライパンに割って均してから蓋をして、かたわらのボウルに入った野菜をちぎって皿に盛る。
大きな欠伸を一つ。
早起きは慣れているが、それでも朝は気だるいものだ。
亜城悠緋。
この少年の名前だ。
体型は中肉中背。髪は黒。長く伸びた前髪をピンで上げて留めている。身長は百七十を少し越えるくらいだ。
顔は普通だ。強いて言えば、猫を連想させる吊り目が特徴的なくらいだ。
服装は学校指定のカッターシャツに黒のスラックス。
フライパンの蓋をはずして中の目玉焼きを箸で等分して、皿に移す。目玉焼きに塩コショウをふりかける。
「あいつもたまには手伝ってくれてもいい気がするけどな……」
悠緋がぼやいた。あいつ、とは当然だが兄のことだ。
目玉焼きとサラダ、二人分で四つの皿を器用に持って机に移動させる。そこへ、再びドアが開く音。
「おーおー、ご苦労様」
「相変わらず殴りたくなるような言動だな」
「ゲンドウさんを殴ってはいけません」
「誰もエヴァの話なんか持ち出してねぇよ、殴りたいのは兄貴で殴らせたいのはオレだ」
悠緋の兄――名前は、紅哉。
紅哉は言われたとおり顔を洗って、髪を整えたようだ。
悠緋と同色の黒髪は、弟とほぼ同じ髪型。前髪を今垂らしているかいないか程度の違いだ。顔のつくりも、雰囲気が良く似ている。身長は悠緋よりも頭一つ分高い。二人が並べば、誰が見ても兄弟と気付くだろう。
紅哉はキッチンに向かう。悠緋と紅哉がすれ違った。
悠緋はテーブルに皿を並べ、座る。それから紅哉が茶碗一杯によそったご飯を二つと箸を持ってテーブルにつく。茶碗と箸を悠緋の前に差し出した。
「弟の手伝いをする兄って素敵だと思わん?」
「出来れば運ぶ以前の過程を手伝っていただきたかった」
作れよ、何か。
悠緋は心の中で突っ込んだ。
「ま、それはともかく」
パン、と手を打って紅哉が笑顔で悠緋を見る。
「……いただきます」
「いただきます!」
溜息交じりの悠緋と、言うなり目玉焼きに箸を伸ばす紅哉。悠緋も箸を動かす。
「元気が無いな、失恋か?」
「兄貴に失望してんだよ」
紅哉は体格がいい。細く見えるが、服の内側は良く鍛えられた筋肉に包まれている。食べる量もそれに比例するかのように、よく食べる。
「うん、やっぱり悠緋の目玉焼きは美味いな。塩の加減が丁度いい」
「誰かさんが飯を作ろうとしないからな」
紅哉は地元の大学の二回生だ。悠緋の聞くかぎりでは、男女ともから人気があり、評判もいいらしい。家でのだらしなさを間近に見ている悠緋からしたら意外に思ってしまう。
女性からもモテる。
確かに、男の悠緋から見ても兄は格好いい。高身長で体格もいい。顔も、整っている。特に、表情。悪戯小僧のような小気味良い笑顔と、それでいて優しい雰囲気が、多くの人に受けるのだろう。
この兄は、体育会系のサークルには一つも入っていないのに何故か体格がいい。帰宅部の悠緋は兄ほど体格はよくないから、うらやましい限りだ。
悠緋も、口では紅哉に皮肉を言ってはいるが、本心からではない。
素晴らしい兄を、誇りに思っている。
「おかわり」
「自分で行ってこい、ニート予備軍」
……本心からも、少し混じっているかもしれない。
紅哉は、苦笑いを浮かべながら、席を立った。悠緋は黙々と口元へご飯を運んでいた。
亜城悠緋、亜城紅哉。
二人は、二人だけの家族である。
母親は、悠緋を生んで間もなく他界したそうだ。
父親は存命だが、紅哉が十五歳、悠緋が十歳のときに、世界へと旅立った。その詳細は、紅哉も知らないらしい。とにかく、今は世界のどこかをほっつき歩いているらしい。その父親が唯一父親らしいところといえば、月に一度、生活費を送ってくるところくらいだろう。二人が暮らすには十分すぎるほどの金額を、毎月。
だが、だからといって、悠緋はその男のことを父親と思っているわけではない。自分達の前に姿を見せず、お金を渡しているだけの人物を、父親とはとても言えない。
父親らしいだけで――父親とは呼べない。
悠緋は両親ともの顔を覚えてない。母親はともかく、父親だった男のことも、だ。意図的に忘れようとさえしている。
「…………」
「どうした、箸が止まっているぞ」
紅哉が二杯目の山盛り茶碗とともに席に着く。
悠緋にとって、唯一の肉親。誇らしい兄。
「……なんでもないよ、兄貴」
にわかに急いで食事を進める。ぼんやりとしているうちに、家を出ないといけない時間が迫ってきていたのだ。やがて全ての皿を空け、立ち上がった。
「じゃ、オレ、学校行くから。せめて皿は洗っといてね」
「わかってるよ」
皿を台所に置いて、ソファに置いていたリュックを持って部屋を出る。
紅哉は今日は講義がそれほどないらしく、大学へ行くのも遅めだ。
玄関を開けると、歓迎するように、苛むように、夏真っ盛りの熱気が襲ってくる。流石に外に出ると暑い。
目前に迫った夏休みが遠い。
「――ぐっ!」
突如。悠緋が体を折り、地面に膝を付く。
「あ、たまがっ……!」
鈍器で殴られるような激痛が、何度も、何度も、悠緋を襲う。そのたびに意識が遠のき、倒れそうになる。
数日前からあった、謎の頭痛。
それが、再発していた。
「……つぅぅ」
呻くだけしか出来ない。全身から汗が噴き出る。
「――おい、大丈夫か!?」
背後からかかるのは、兄の声。
紅哉が悠緋の横から様子を窺う。
「何があった?」
「何でも、ねぇよ……」
すぅ、と、痛みが遠のいていく。漸く楽になって、顔を上げた。右腕を掲げ額の汗を拭う。
「大丈夫かよ」
「多分……」
不思議なことに、この頭痛は痛みが後に引かない。頭痛が治まると共に、まるでさっきまでのことがなかったかのように、痛みがなくなっている。
不気味な話だが、後に引くよりはいい。
「確か、前もあったよな。病院行ったほうがいいんじゃないか」
「だから、大丈夫だって」
念を押して、悠緋は立ち上がる。紅哉はそれを支えていた。
「ところで兄貴は何で外出てきたんだよ」
「コンビニでも行こうと思ったらお前が倒れてたんだよ」
「……ふーん」
悠緋は紅哉を見つめる。紅哉の言い方に、微妙な違和感を感じたからだ。だがそれも気のせいだと思い、とりあえず流しておくことにする。
それに紅哉の格好も変だった。服装はさっきのまま、財布も、ポケットに入れているにしては膨らみが無い。
「……まいいや、じゃあオレ学校行ってくるから」
「大丈夫か?」
しつこく繰り返す紅哉に、大丈夫だって、と溜息とともに返した。
「なんかあったら連絡するんだぞ」
「子供じゃないんだから」
適当にあしらって、悠緋は玄関の前に留めてある自転車を起こし、道路に出た。
「じゃ」
「……おう」
自転車に乗って、ペダルを漕ぐ。結構遅刻気味だった。
自分もこんな兄貴が欲しかったかもしれない。
でもいたら鬱陶しいだろうなあ。
というわけで第一話でした。