012 魔術とは
空が広い。
あの部屋から出て、屋外に連れられてきた悠緋が感じた第一印象は、それだった。
見慣れた景色ではない。西洋風の高い建物もあったり、低い建物もある。高層ビルのようなものは見られなかった。知っているようで、知らない。そんな風景だ。
悠緋は目を泳がすのを中断して、目の前を歩いていく男を追った。
二人がいるのは、あの部屋があった建物の屋上――から、伸びていた通路のようなところだ。道幅は人三人くらいが並んで立てるくらいで、手すりは設置されていない。
地上からどれくらい離れているかも分からない高さ。一度見て身がすくんで、それから絶対見ないようにしようと悠緋は決めていた。地上との距離感が分からないのはそれもあるからなのだが。
風が強い。悠緋は注意深く歩を進めないと落ちそうになる。しかし男は意に介する様子もない。
「どこまでいくんだ?」
男は何も語らず、振り向きもせず、不安定な足場を進んでいく。風だけが吹く沈黙の現状に耐えられなくなった悠緋が、切り出した。男の注意をこちらに向けさせないと、そのまま置いて行かれるか、悠緋自身がバランスを崩して落ちていってしまいそうだったからだ。
その目論見が成功したのか、それとも全く関係なくなのか、男が振り向いた。
「まあ、ここらへんでいいか」
「何がだ」
「話をするのに適当な場所、だ」
こんなとこでかよ、と悠緋は心の中で突っ込んだ。
広い空に、広い町。それを見渡せそうなその場所で。
「さて、何から話せばいいのか……」男は迷ったように頭を掻いたが、すぐに悠緋に向き直った。「まずは自己紹介からいったほうがいいか?」
「……ご自由に」
どうせ悠緋に主導権はない。大人しく彼に任せる。
「俺の名前は、漣山茶花。さんずいに連なる、山のお茶の花、だ」
「漣」
呟く。
「そうだ。覚えてくれておいたら会話が進めやすいだろう。今は俺の好きなものとか嫌いなものとか、そういう話はどうでもいいだろうからすっ飛ばすぞ」
「……うん」
自分から自己紹介すると言っておいて、飛ばすか。
悠緋自身も興味がない話題だったから、彼の言うとおり、どうでもいい話なんだけど。
「そうだな……まずは、お前がどうなっていたのかから、かな」
「その前に、オレは自己紹介しなくていいのか」
「構わん。亜城悠緋」
どうして自分の名を知っているのかは追求しなかった。聞いてもどうせ無駄だ。
「話を戻そう。お前がどういう状態だったか、だ」言葉が途切れたが、すぐに喋り始める。「お前は、あの工場――いや、今じゃ工場跡、か――あそこに、倒れているところを発見された。俺たちの仲間によってな」
「オレは、あのまま倒れていたのか……」
「お前の言うあのまま、が俺には分からんが、まあ想像の通りだろう。あいつが去ってから、数十分も経ってなかったからな。……お前は、全身に火傷と擦過傷を負い、体の内側も炎で焼かれていたのか肺も火傷状態だった。それに、骨折も数カ所。有り体に言えば、重傷だ」
悠緋は自分の体を見下ろした。今は、痛みはない。見える辺りでは、傷跡らしい傷跡もない。
だが、それがかえっておかしく感じる。
「オレは、あの時からどれだけ眠っていたんだ」
「どれだけ? 大した日数でもない、確か……四日間だ。それがどうかしたのか」
漣の疑問に生返事を返し、じっくりと自分の体を見つめる。
傷が、ない。
「……たった四日間で、そんな重傷が治るものなのか? 全身の火傷が、骨折が? それに肺も痛くない」
「それは、……後々詳しく話すが、お前の特異体質みたいなものだ。傷の治りが異常に早いのは」
「でも、オレがベッドから降りようとした時は、力が入らなかった」
「あれはまた別だ。あれは筋肉痛。それと何日も筋肉を動かしていなかったせい。怪我とは違う」
「そう……か」
納得はした。
だが、自分の特異体質というものが気になった。
「次だ。そうだな……お前には、一般人のお前には、理解しがたい話だと思うが、聞く覚悟はあるか?」
漣の言葉は、先ほどまでと何かが違うように思えた。それは言葉の裏に隠された小さな違いなのだろうが、悠緋はそれに気付いた。
覚悟。
「そんなもの……あってもなくても、今更同じだ。オレがただならぬ自体に陥っていることくらい、自分でも分かっている」
「……それでこそ、紅哉の血族だ」
漣は小さく呟いて、
「なら話そう――それは、魔術について、だ」
「魔術?」
それは、あの男――ネアも言っていた単語だ。あの時は馬鹿にしたが、今となってはその存在を認めるしかない。
「それは、万物を操る人間の知識の集大成――だ」
その超常的な力をもってしないと、説明できない事柄が多すぎた。
「火水風地……自然の四大元素と呼ばれるそれらを扱うのが魔術だ。中には特殊な属性をもつ例外もいるが。とにかくその魔術というものは、万物を己の思うがままに操る技術。最古から研究された学問のひとつ。……そんなところだ」
万物を支配する。
技術であり、知識である。
流石に面食らう。
真面目にそういう話をされると。
「現実味がない、か? だとするなら、現実を見せてやる」
漣が右袖をまくる。左手で、腰に提げられていた分厚い本のようなものを掴んだ。悠緋は思わず身構える。
「いくぞ」
びり、と空気が震えた気がした。
左手の、辞書よりも分厚くノートなんかよりも大きな本が、ひとりでに開いた。その紙面から、淡い光のようなものが漏れ出す。
右手を、ひらりと。無造作に振るう。
気付けば、その空間に小さな水球が浮かんでいた。
「水の魔術。その初歩の初歩だ」
水球は、ゆっくりと移動して、悠緋の前まで流れてきた。表情をこわばらせ、悠緋はそれを見つめる。
漣が本を閉じた。同時に、水球が周りに水を弾けさせ、破裂する。眼前でその光景を見た悠緋は、うわっ、と小さく悲鳴を漏らして後ずさった。
「驚かすなよ!」
「信じる気になったか」
悠緋の非難は見事にスルーされた。
おい、と悠緋は続けようとしたが、漣は遮るように、
「あの時お前が見た惨状も、魔術によるものだ」
と続けた。
あの時――悠緋が全てを失った、あの夜。自分を取り囲んだ白緑の炎。それに紅哉の真紅の炎。
「両方とも、か?」
その言葉が何を表しているのかをすぐに理解して、両方ともだ、と漣は返す。
「……ネアはな。人間じゃない」
「人間じゃ、ない?」
きっとこいつは、話の流れをぶったぎるのが大好きな奴だ――そんな風に悠緋は感じたが、口には出さなかった。軽口を言えるような間柄ではない。
「魔族、といってな。俺たちとは別の世界から流れ込んできた奴らの一人だ。それで……」
「待て、待ってくれ」
聞き捨てならない言葉に、悠緋は会話を中断させた。
「別の世界? って、どういうことだ」
「そのままの意味だが? ……まさかお前は、自分のいる社会、自分のいる世界がたった一つ、自分にとっての唯一無二の存在だとでも思っていたのか?」
そう問われ、悠緋は言葉につまる。図星だった――というよりは、そんなこと、考えもしなかった。
気付いたら、そんなことを当たり前だと思っている自分がいた。
「この世界は、何重にも積み重なった並行世界だ。精霊や妖精が住む世界だって、別の人類が住む世界だって、人間以外の生き物が覇権を握る世界だって――魔術を使う魔族や魔物たちが跳梁跋扈する世界だって、存在する」
「……もし仮に、そうだとして。なんでその魔族とやらはこの世界に来るんだ」
「知らん。魔族に聞け」
「……じゃあ、どうやって来てるんだよ」
「簡単だ。時空を越えて、さ」
「時空を超えて…………」
話についていけなくなってきた。
そんなファンタジーやSFのような出来事が、本当にあるのか。
「難しいことじゃない。魔術によれば、な」
「そんなことまで出来るのか」
「そういうもの、だからな」
正に、次元が違う。
「で、話をもとに戻すが。ネアはそういった、時空を越えて来た魔族の一人だ。奴は強かった。俺たちとの戦いも長い。特に、紅哉は」
「兄貴が?」
「紅哉とネアは、ずっと戦い続けてきた。あの時の戦いだって、数十回目、数百回目の戦闘だったはずだ」
……ある一つの事実に気付いた。
それだけの間、回数、戦っていたということは、両者の実力が均衡していたからではないか。それなのに何故あの日に限って、紅哉は負けてしまったのだろうか。
気付いてしまった。
オレたちが居たからだ、ということに。
きっと紅哉は悠緋たちを庇いながら戦ったのだろう。だからシュミハザの攻撃に集中することができなかった。そうではないのか。
「……責任を感じる必要なら、ないぞ」
自然と俯いてしまっていた顔を上げた。漣は、少しだけ眉に皺を寄せ悠緋を見ていた。
「そんなこと、」
「自分がいたから紅哉は負けた。確かにそうかもしれないな。――だがそれは、お前が好きでそうしたことじゃないだろう。ネアがそう仕組んだことであって」
「……でも」
「でも、は通じねえ。誰が何と言おうとだ」
強く断言する漣。
悠緋は、その言葉を黙って聞くしかなかった。
――まるで心を見透かされているかのようだ。
「なんで奴が今回に限ってそのような手段に出たのかは知らない。また行方が分からないから、向こうが出向いてくるまでは会えないだろうがな」
もっとも、奴がまだ楯突く気があるのならの話だが。
と、漣は呟いた。
「……なあ」
「なんだ」
「一つだけ、教えて欲しいことがある」
「言ってみろよ」
悠緋は問う。自分にとっての、最大の謎を。
「俺の兄貴は――亜城紅哉は、一体何者なんだ?」