『お前など覚えていない』と言われた聖女ですが、私も全部忘れて差し上げますわ〜記憶を捧げて国を守っていた元社畜令嬢、王国ごと忘却して竜将軍と幸せになります〜【短編】
「お前のことなど、もう誰も覚えていない」
王太子ジェラルドの声が、大広間に冷たく響き渡りました。
シャンデリアの光の下、居並ぶ貴族たちの視線が私に突き刺さります。けれどその瞳のどれもが、まるで見知らぬ虫でも見るような――そう、正しく「見知らぬ者」を見る目でした。
「セラフィーナ・エインズワース。お前との婚約を破棄する。国を守ったのは新しい聖女レナだ。お前は何もしていない。何ひとつな」
ジェラルド殿下の傍らで、レナが儚げに目を伏せています。潤んだ瞳、震える肩。可憐で庇護欲をそそる、それは見事な演技ですこと。
私は静かに微笑みました。眉ひとつ動かさず。
(なるほど。私の功績が、まるごとこの子のものになっている、と)
魔物の氾濫を鎮めたのも。疫病を封じたのも。三年に及ぶ北方結界の維持も。すべて「レナがやったこと」になっている。
そして誰も、私を覚えていない。
(ええ、当然ですわ。だってそれが――仕様ですもの)
心の中で、私は乾いた笑いを漏らしました。
(記憶が消えるのは仕様だったと。ブラック企業も真っ青の労働環境ですわね。無給、無休、無感謝。おまけに功績の記憶ごと搾取される。前世で過労死した女が、異世界でも同じ目に遭うだなんて――どんな呪いですの?)
そう。私には秘密があります。
私、セラフィーナ・エインズワースは、前世で過労死した現代日本の危機管理コンサルタント・宮野聖の記憶を持つ転生者。
そしてこの国の要たる聖具――『忘却の泉』の、真の管理者。
捧げた記憶を対価に、絶大な加護を国土に与える泉。私は長年、自らの功績の記憶を泉に「捧げる」ことで、この王国を守り続けてきました。
だから誰も、私を覚えていない。
覚えられないよう、私が捧げてきたのですから。
「何か申し開きはあるか、セラフィーナ」
ジェラルド殿下が勝ち誇ったように顎を上げます。
私は裾をつまみ、完璧な淑女の礼をとりました。
「いいえ。何も」
「……ずいぶんと殊勝だな。ようやく己の無能を悟ったか」
「ふふ。ええ、そうかもしれませんわね。私は本当に、何も残していないのですから」
(覚えられないよう、私が捧げてきたのですもの。――さて。引き継ぎの手続きは、明日にでもいたしましょうか)
ただ一人。広間の隅で、老いた侍女がきつく唇を噛みしめていたことに、この時の私はまだ気づいていませんでした。
◇◆◇
断罪の熱狂に沸く広間で、ただ一人、動かぬ者がいました。
マレナ・ヒルデ。銀髪をきっちりと結い上げた、老練な侍女。
彼女は、震えていました。怒りで。
(なぜ、なぜ誰もお嬢様を庇わないのです……)
マレナ自身も、記憶の多くを奪われていました。セラフィーナが何を成したのか、具体的なことは何ひとつ思い出せない。魔物のことも、疫病のことも、靄がかかったように曖昧で。
それでも。
(この方をお慕いする気持ちだけは……どうしても、消えなかった)
胸元に手を当てる。そこには色褪せた一本のリボン。
いつ、誰にもらったのかも覚えていない。けれど捨てられなかった。何度片付けようとしても、手が拒んだ。
マレナは一歩、前に出ました。
「――恐れながら、殿下」
凛とした声に、広間がざわめきます。
「……なんだ、侍女風情が」
「わたくしめは、セラフィーナお嬢様に長年お仕えしてまいりました。理由は……申し訳ございませんが、思い出せませぬ。ですが、この方が国を軽んじたことなど、ただの一度もございません」
「口を挟むな。記憶もない者の世迷い言など聞く価値もない」
「ふふっ……」
レナが小さく笑ったのを、マレナは見逃しませんでした。
(今、笑いましたね……この女)
セラフィーナが、そっと侍女の肩に手を置きます。
「マレナ。もういいのですよ」
「お嬢様……! なりませぬ、このままでは、あなた様が……!」
「あなたが覚えていてくれた。それだけで、十分ですわ」
そう微笑む主人の横顔を見て、マレナは悟りました。
この方は、泣いていない。怒ってもいない。
まるで――とうに、すべてを知っていたかのように。
◇◆◇
――時は少し遡ります。
レナは、暗い回廊で息を潜めていました。
数ヶ月前のこと。彼女は偶然、教会長オズウェルとセラフィーナの会話を盗み聞きしたのです。
『泉に記憶を捧げれば、国に加護が与えられる』
その一言だけを、彼女は聞き取りました。
(なんて簡単なの。記憶を捧げるだけで聖女になれるなんて)
レナは唇を吊り上げました。
(あのとき盗み聞きした一言……それだけ分かれば十分よ。国中から崇められて、王太子妃の座まで手に入る。セラフィーナなんて、消えてしまえばいいのよ)
彼女は策を巡らせました。功績を少しずつ「自分のもの」として吹聴し、ジェラルドを籠絡し、断罪の場を仕立て上げる。
(功績を少しずつ自分のものにして、ジェラルド様を籠絡して……ふふ、すべて順調だったわ)
すべては、順調に運びました。
(あとは、あの女を追放するだけ。そうすれば聖女の座はわたしのもの。この国はわたしが守る聖女になるのよ)
レナは知りません。
泉の加護が、「捧げた記憶の量」に比例するのではないことを。
それが、「泉と契約を交わした管理者」にしか――ただ一人にしか、発動しないことを。
偽りの聖女服の裾を翻し、レナは笑いました。
自分が今、どれほど滑稽な崖の上に立っているかも知らずに。
(ええ、せいぜい笑っていなさいな)
そんなレナを、離れた場所からセラフィーナは静かに見つめていました。
(あなたは知らないのですから。泉の加護が『捧げた記憶の量』ではなく、『契約した管理者ただ一人』にしか宿らないことを)
◇◆◇
翌日。私は教会の最奥、『忘却の泉』の間に立っていました。
青白く輝く泉。その水面には、私が捧げてきた無数の記憶が、光の粒となって漂っています。
背後には、慌てて駆けつけた教会長オズウェル。そしてなぜか同席を許された、勝ち誇った顔のジェラルドとレナ。
「セラフィーナ。これは正式な処分だ。お前は追放され、聖女の任はレナが引き継ぐ」
ジェラルドの言葉に、私は淡々と応じました。
「かしこまりました。それでは、引き継ぎの手続きをいたしましょう」
「引き継ぎ、だと?」
「ええ。何事にも、正式な手順というものがございますでしょう?」
私は懐から、一枚の古い羊皮紙を取り出しました。
「これは、初代管理者と泉が交わした『契約の証文』ですわ。教会長、ご存じですわね?」
オズウェルの顔が、みるみる青ざめていきます。
「な、なぜそれをお前が……!」
「あら。私が管理者ですもの。持っていて当然でしょう?」
私は証文を広げ、静かに読み上げました。
「『泉の加護は、血と誓いをもって契約せし管理者、ただ一人にのみ宿る』――教会長。この条文を、あなたはご存じだったはずですわ。ご存じの上で、加護は"捧げた記憶の量"次第だと、殿下やレナ様に誤解させたまま放置なさった」
「わ、私は……教会の権威を守るため……いや、その……」
「事なかれ主義も、ここまでくると立派な共犯ですこと」
レナの顔から、余裕が消えていきます。
「ちょ、ちょっと待ってよ。契約者だけって……じゃあ、わたしが記憶を捧げても……」
「ええ。何も起きませんわ。あなたは契約者ではありませんから」
「そんな……! だって、だってわたしが聖女に……!」
私は足元に、光の魔法陣を展開しました。危機管理コンサルタントだった前世の知識と、今世で得た魔術の粋。契約解除の術式です。
「わかりましたわ。ジェラルド殿下。あなたのおっしゃる通りに」
「……何を、するつもりだ」
私は顔を上げ、菫色の瞳で微笑みました。
「ではこの国のことも、泉のことも――全部、忘れて差し上げます」
「なっ……何を……!」
「契約解除。そして――捧げた記憶の、全回収」
魔法陣が眩く輝き、泉に漂っていた無数の光が、一斉に私へと流れ込んできました。
三年分の。いいえ、十年分の。私が国のために捧げ続けた、すべての記憶。
頭の中に、失われていた私自身が、洪水のように戻ってきます。
(ああ――全部、思い出しましたわ。私が何をして、何を奪われてきたのか、その一つ残らず)
泉の輝きが、す、と弱まっていきました。
「せ、聖女様! 泉の光が! 泉の光が消えていく……!」
オズウェルの悲鳴。私は踵を返しました。
「あとのことは、新しい聖女様がよろしくやってくださいますわ。……できるものならば、ですけれど」
扉に手をかけ、私は最後に振り返ります。
「さようなら。もう二度と、思い出すこともないでしょう」
◇◆◇
セラフィーナが王都の門を出た、まさにその瞬間。
王国全土を覆っていた、目に見えぬ結界が――消えました。
最初に異変を告げたのは、北方の警鐘でした。
「魔物です! 魔物の大群が国境を越えて――! 三年鳴らなかった警鐘が……!」
三年間、一度も鳴らなかった鐘が、狂ったように打ち鳴らされます。続いて南方から早馬。封じられていたはずの疫病が、再び都市を蝕み始めたと。
王城の玉座の間は、大混乱に陥りました。
「な、なぜだ! なぜ結界が!」
ジェラルドが青ざめて叫びます。オズウェルが、がくがくと震えながら答えました。
「泉の……加護が、途絶えたのです……。契約者が、いなくなったゆえに……」
「レナ! お前が聖女なのだろう! 早く泉に記憶を捧げろ! 加護を取り戻せ!」
レナは泉の間で、必死に己の記憶を捧げ続けていました。
「捧げてるわよ! さっきから、ずっと……幼い頃の思い出も、家族の顔も、全部投げ込んでるのに……!」
けれど。
泉は、ぴくりとも輝きません。
「なんで……なんで反応しないの!? わたしはこんなに捧げているのに!」
泉は静かに、冷たく、沈黙するのみ。
契約者ではない者が、いくら記憶を投じたところで――それはただ、記憶を失うだけの、無意味な献身。
「うそ……うそよ……! わたしは聖女なのに……! 契約者じゃないなんて、そんな……!」
他人の功績を纏った偽りの聖女服が、床に崩れ落ちます。
一方、ジェラルドは震える手で、初めて理解し始めていました。
(守られていた……? あの女に、ずっと……? 当たり前だと思っていた平和も、安全も、すべてを……)
当たり前だと思っていた平和。当たり前だと思っていた安全。それらのすべてが、たった一人の、誰にも覚えられぬ女の、無償の献身の上に成り立っていたのだと。
失って、初めて気づく。
もう、遅すぎるほどに。
「セラフィーナ……戻ってきてくれ……頼む……!」
その名を呼ぶ声は、もう誰にも――彼女自身にも、届きません。
◇◆◇
国境を越えた先の、自由都市アルセーヌ。
王国のしがらみが届かぬこの地で、私は新たな一歩を踏み出していました。
「冒険者ギルドへの登録を希望しますわ」
受付で名乗ると、係の女性が目を丸くします。それはそうでしょう。上等な仕立てのドレスを着た令嬢が、冒険者登録などと。
(ですが、私には前世+今世の全知識がございますの。危機管理も、鑑定スキルも。ブラックな聖女稼業とは違って、今度は"正当な報酬"をいただきますわ)
「……あの、失礼ですが、そのお召し物で冒険者登録を……? では、腕試しにこちらの鑑定を」
係員が古びた石を差し出しました。
「古代竜の逆鱗の欠片。市場価値、金貨三百枚相当。ただし三割ほど劣化しておりますわね。研磨すれば価値は戻りますわ」
ギルド中が、しん、と静まり返りました。
そのとき。
人混みが、ざわりと割れました。
長身の男が、まっすぐに私へと歩み寄ってきます。鋼のような体躯。首筋に覗く黒い鱗。金色の竜眼。
「冷酷竜将……ヴォルフ・ドラクヴァルト将軍だ……! なぜあの方がこんな所に……」
誰かが震える声で囁きます。辺境を守る、寡黙な竜人の将軍。社交界で恐れられる強面の武人。
その男が、私の前で――膝をつきました。
周囲がどよめきます。あの冷酷竜将が、跪くなど。
「……あの、どちら様ですの?」
私は首を傾げました。記憶を取り戻した私にも、この人の顔に覚えはありません。
ヴォルフは金の瞳で、まっすぐに私を見上げました。
「ようやく、貴女を見つけた」
低く、けれど確かな熱のこもった声。
「俺は貴女を覚えている。セラフィーナ・エインズワース。北方の氾濫を鎮めたのも、疫病を封じたのも――すべて貴女だ。俺は、この目で見ていた」
「……なぜ、あなたが。私を覚えている者など、いるはずが」
彼は懐から、古い従軍手帳を取り出しました。ぼろぼろに使い込まれたそれには、几帳面な文字がびっしりと。
「竜人は、一度会った相手を絶対に忘れない。泉が何を奪おうと――竜の記憶は、消せない」
手帳のページには、私の名が。私の成した功績が。誰にも覚えられなかったはずの、私の献身のすべてが。
記録されていました。
「この従軍手帳に、すべて記してある。貴女の名も、貴女の成した功績も、一つ残らず」
「三年間、貴女がひとり戦うのを見ていた。誰も貴女を覚えず、感謝もしない中で。……ずっと、伝えたかった」
強面の頬が、うっすらと赤らんでいきます。
「貴女の献身は、無駄では、なかった。少なくとも……一人は、覚えている」
(ああ、なんてこと。この不器用な男は、誰にも知られぬ場所で、ずっと私を、覚えていてくれた)
涙が、こぼれそうになりました。
前世でも今世でも、報われることなどないと諦めていた。感謝も、記憶も、すべて搾取されるものだと。
なのに。この不器用な男は。
「……ふふ。将軍。立ってくださいな。目立ってしまいますわ」
「あ、ああ。すまん」
慌てて立ち上がる姿の、なんとぎこちないこと。冷酷竜将が聞いて呆れます。
(この方――もしかして、恋愛沙汰には壊滅的にポンコツですのね?)
そう思うと、なぜだか胸の奥が、じんわりと温かくなるのでした。
◇◆◇
数週間後。
私は自由都市で、瞬く間に名を上げていました。鑑定チートと危機管理知識を武器に、難関依頼を次々と解決。ギルドでは「賢者の令嬢」などと呼ばれ、ヴォルフの領地でも顧問として迎えられ――今度こそ、正当な報酬と敬意をいただく日々。
(無給無休の社畜聖女とは、おさらばですわ)
そんなある日、一通の書状が届きました。
「王国の紋章……差出人は、王太子ジェラルド。あらあら、ずいぶんと長々と綴られていますこと」
隣でヴォルフが、静かに問います。
「……なんと書いてある」
「『過日の非礼を心より謝罪する。どうか、聖女として帰還されたし』――ですって。結界は崩壊、魔物は迫り、疫病は広がるばかり、と」
長々と綴られた、謝罪と、嘆願と、命乞い。レナは聖女の座から転落し、行方知れず。オズウェルは失脚。国は、傾いていました。
私は書状を読み終えると、優雅にお茶を一口。
「……どうする」
「そうですわね」
私は微笑みました。菫色の瞳に、一切の迷いなく。
「ペンを取りますわ。返事は、たった一行で十分」
ペンを取り、返信をしたためます。したためた言葉は、たった一行。
「『どちら様でしたかしら?』――これで、よろしいですわ」
ヴォルフが、ふ、と口の端をわずかに上げました。彼が笑うのを、私は初めて見ました。
「……容赦がないな」
「あら。あちらが"覚えていない"とおっしゃったのですもの。ならば私も、忘れて差し上げるだけですわ。おあいこでしょう?」
記憶を奪われ、功績を盗まれ、無給で使い潰された聖女。
その女が最後に返したのは、怒りでも、涙でもなく――上品な、たった一言の拒絶。
(さようなら、私の王国。どうぞお元気で。……できるものならば、ですけれど)
窓の外には、辺境の広い空。
私を覚えていてくれる人と歩む、第二の人生の空が、どこまでも澄み渡っていました。
◇◆◇
――その頃。
打ち捨てられた『忘却の泉』の底で、ある異変が起きていました。
セラフィーナが記憶を回収し、契約が解除されたことで、泉は本来の姿を露わにしつつありました。
静まりかえった水面の奥。長い間、誰の目にも触れずに沈んでいた、古い記憶の澱。
それが、ゆっくりと浮かび上がってきます。
それは――セラフィーナが捧げた記憶では、ありませんでした。
もっと古い。もっと深い。
泉そのものが、遥かな昔から抱え込んでいた、誰かの記憶。
光の粒がひとつ、水面に像を結びます。
そこに映ったのは、見知らぬ女の姿。けれど、その顔立ちは――どこか、セラフィーナに似ていて。
いいえ。
前世の宮野聖にも、今世のセラフィーナにも似ていない、けれど確かに"彼女"と繋がる、第三の面影。
◇◆◇
遠く離れた辺境の地。
穏やかな午後、私はふと、胸の奥に奇妙なさざなみを感じて手を止めました。
「どうした」
ヴォルフが気遣わしげに問います。
「……いえ。なんでもございませんわ。ただ」
私は窓の外を見つめました。
「なぜでしょう。忘れていたものを、もうひとつ――思い出しかけたような、気が」
(前世の宮野聖。それが私の"最初"だと思っていました。けれど……本当に、そうだったかしら?)
泉は、まだ何かを隠している。
私自身も知らない、"もう一つの前世"の断片が、遠い水の底から、静かに私を呼んでいる気がしました。
「ヴォルフ」
「なんだ」
「近いうちに、あの泉を――もう一度、見に行くことになるかもしれませんわ」
竜眼が、ふ、と細められます。
「なら、俺も行く。貴女が忘れても、俺が覚えている」
「ふふ。頼もしいこと」
窓辺に差し込む陽光の中で、私は微笑みました。
ざまぁは、完遂しました。第二の人生も、始まりました。
けれど――物語は、まだ終わらない。
忘却の泉の底で、私の知らない私が、静かに目を覚まそうとしていたのです。
(さて。次は、どんな記憶が搾取されるのやら――と言いたいところですが)
私はもう、一人ではありませんでした。
(今度こそ、正当な報酬をいただきますわ。前世の分も、まとめて、たっぷりと)
〜了(続く)〜




