9
放課後。
朝にディランと別れてから、リネアは様々な理由をつけてディランを避け続けていた。
(クラスが別々で良かったわ。もし同じだったら、早々に問い詰められていたでしょうね……)
HRの延長で教師の手伝いを終え、リネアは職員室の前で窓の外をぼうっと眺めながらそんなことを考える。
「リネア」
「!……ステファン」
と、不意にそこへ掛けられた声にびくりと肩を震わせた。
しかし視線の隅に見えたのが銀色ではなく薄茶色だったため、リネアはホッと胸を撫で下ろす。
それでも油断は出来ない。元婚約者兼幼馴染みの勘が気を抜くなと告げている。リネアは一つ呼吸を置いてから、向こうからやって来たステファンに対峙する。
どうやら廊下の先にリネアを見つけたので挨拶をしに来ただけだったらしいステファンは、一定距離まで近づいたところでリネアの異変に気づいたようだった。
途端、朗らかだった表情にサッと憂いの色が走る。
「……どうした、顔色が悪い」
「何でもないわ、大丈夫よ。お気遣いありがとう。……それじゃあね」
ディランの前でよりは上手く笑えたはずだった。
ステファンに返事をし、すぐさま踵を返すリネア。けれどリネアが足を踏み出すよりも早く、その腕を優しく、でも決して振り解けない強さで掴む手があった。
「リネア。悪いが、さすがにそれは誤魔化されてやれない。……何かあったのか?ディランどのと」
(……本当、こういうときだけ妙に鋭いんだから)
普段は天然全開で的外れなことばかり言うくせに、リネアが誰にも言わず一人で抱えると決めたことだけは毎度的確に言い当ててくる幼馴染みに、リネアの口元には苦い笑みが浮かぶ。
それでもまだ振り向けずにいると、しばらくしてリネア、と諭すような声色で呼び掛けられる。
「きみとの間に恋慕の情はなかったとはいえ、それなりに付き合いは長い。だからきみの考えていることは大体見当がつく」
幼い頃から変わらない、年の割に落ち着いた穏やかな声を聞いていると、胸の辺りにぽつ、ぽつと温もりが灯り始める。その熱でリネアの心を覆う氷が少しずつ溶けて、消えていく。
「婚約解消の件だって、俺のために動いてくれたことくらい最初からわかっている。……ディランどのは、きみの協力者なんだろう?」
その言葉に完全な負けを悟り、観念してそろりと振り返れば、ステファンは困ったように眉を八の字にして、けれどどこまでも優しい眼差しでリネアを見つめていた。
何もかもお見通しと言わんばかりのその表情に、リネアはひどく居た堪れない気持ちになる。
リネアは一度ステファンから目を逸らして俯くも、辺りに満ちた静寂から、決して無理に聞き出そうとはしないステファンの優しさを痛いほどに感じて、きつく目を閉じた。
「……最初は、そうだったの」
ぽとりとその場に落ちた呟きが自分の声だったことに、リネアは数秒ほど遅れて気がつく。
自分が話しているはずなのに、誰か別の人がリネアの口を動かしているような感覚に陥る。
一度言葉を紡ぎ始めた口は止められなくて、けれどリネアは不思議とそれが不快だとは思わなかった。
「あなたとサマンサ様に幸せになってほしくて、ただその一心でディランに手を貸してほしいとお願いしたの。絶対に邪な気持ちは抱かない、好きになんてならないから、私の偽の恋人を演じてほしいって」
「……そうか」
「なのに私……できなかった」
ゆるりと顔を上げた先では、いつもと何ら変わらない、穏やかな薄緑色の瞳がリネアを見つめている。
その瞳に映る自分の顔は、微妙に歪んでいてよく見えない。
「そんな簡単な約束一つ、私は守れなかったの」
「……好きなんだな。彼のこと、本気で」
ぽたり、と涙が足下に落ちて初めて、ステファンの瞳に映る自分が歪んでいるのではなく、自分の視界が歪んでいることに気がついた。
ステファンの言葉に、リネアは何と返せばいいのかわからなかった。けれどどちらにしろ、今口を開いてもきっと嗚咽が溢れるだけで、まともな言葉など発せないであろうことは容易に想像できた。
リネアは否定も肯定もできないまま、頬を流れ落ちていく涙を止める気力もなく、ただ茫然とステファンの顔を見上げる。
そんなリネアを見たステファンは、慰めようとしたのか、彼女の髪へ手を伸ばしかけた。が、途中でハッとしたように動きを止め、少し躊躇ったのちにその手を引っ込める。
婚約者ではなくなったことでリネアとの距離感を測りかねているらしく、ステファンは右手で困ったようにうなじの辺りを掻く。
そして小さく息を吐いたあと、再びリネアの名を呼んだ。
「彼に、本当のことを打ち明けてみたらどうだ」
「むり、絶対だめ。……言ったら、離れてしまうもの」
視線を落とし、ゆるゆると首を振りながらリネアがステファンの言葉を否定すると、何故か頭上で微かに吹き出す気配がした。
「そうか?俺はそうは思わないけどな」
この場に似合わず、かつ彼にしてはとても珍しく僅かな揶揄を含んだ声が降って来て、リネアは虚を突かれ、弾かれたように再び顔を上げる。
けれどステファンが口を開く前に、二人の間に勢いよく割り込む人影があった。
「……え」
見覚えのあり過ぎるシルバーブルーに一瞬、リネアの思考が停止する。
次いでふわりと鼻腔をくすぐるマリンノートの香りに、リネアの瞳は大きく見開かれ、その拍子にまた涙がぽろりと零れ落ちた。
「ディ、ラン……」