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職員室での用事を終え、リネアは少し早足になりながら中庭で待つディランの元へと向かっていた。
この角を曲がれば中庭への外扉、というところで、不意に聞こえてきた別の声にリネアはぴたりと動きを止める。
「ふぅん……そういえば、最近どこぞの侯爵令嬢に一途に惚れ込んでるって噂、聞いたけど。弱みでも握られたの?」
「そんなんじゃないさ」
反射的に息を殺して身を潜め、そろそろと扉に近づく。
扉の陰からそっと中庭の様子を窺ってみれば、ディランのすぐ隣に一人の令嬢が座っているのが見えた。
見覚えがあるようなないような顔だが、慣れた様子でディランに話しかけているところを見るに、恐らく例のしつこく言い寄ってくる令嬢の一人だろうと当たりをつける。
それから改めて、ベンチに並んで座る二人の後ろ姿を見た途端、リネアの胸にモヤモヤとした感覚が広がった。
リネアの知らない令嬢が座っているのは、いつもリネアが居る場所。
(……嫌、だわ)
ディランの隣は、リネアの場所なのに。
自分がまず最初に抱いた感情に一瞬遅れて驚き、そしてそれが意味する事を察したリネアは一気に顔を青くする。
それではまるで、リネアがディランのことを――
「まあいいけど、その子に飽きたらまた遊んでくれるんでしょう?」
不意に令嬢の声が妙にハッキリと耳に届いて、リネアはハッとして視線を二人の方へと戻す。
リネアは、その問い掛けに対してディランはすぐに否定の言葉を返すものだと思っていた。
けれど予想に反して、ディランは何かを考え込むように黙り込んでしまう。
このときリネアはなぜ、ディランが最初から否定してくれると思い込んでいたのか。
なぜ、そう信じて疑わなかったのだろうか。
ディランが口にしたその一言を聞いて、リネアはようやく現実を思い出し、そして思い知る。
「……そうだね」
(ああ……そう、だった)
リネアとディランは、本当の恋人同士ではないのだと。
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その翌日、学生寮から校舎へと向かうリネアの足取りは信じられないほど重かった。
あのあとリネアはすぐにその場を立ち去ったけれど、正直どうやって寮へ帰ったかよく覚えていない。
あれ以上二人の話を聞いていられなくて、耳を塞いで中庭に背を向けた。けれど今でも、気を抜けばすぐに昨日の光景がフラッシュバックする。
これまで通りに振る舞わなければならないとわかってはいても、ディランに悟られて追及されてしまえば、隠し通せる自信などリネアにはない。
しかし白状すれば偽装恋人契約は破棄され、リネアとディランの関係は呆気なく終わりを迎える。
その最悪の結末を回避するために取るべき行動を考えたとき、リネアの頭には「ディランと距離を取る」以外の方法が浮かばなかった。
「リネア、おはよう」
背後から掛けられたのは、もう随分と聞き慣れた柔らかくて少しだけ低い声。
普段ならすぐに元気よく振り返るところだが、今日はぴしりと表情が固まってしまい、リネアは咄嗟に振り返ることができなかった。
ディランに背を向けたまま気づかれないよう小さく深呼吸をしてから、ようやく意を決して振り返る。
「……お、はよう、ございます」
本当はいつものように、ディランの顔を見て笑って返すつもりだった。
けれど現実はそううまくはいかない。
ディランと目が合った瞬間、昨日の光景がリネアの頭を過る。
その一瞬の動揺で、リネアの喉は音の出し方を忘れたかのように、不自然に言葉を詰まらせた。
失敗した、と思ったときにはもう、ディランの顔には戸惑いの色がはっきりと浮かんでいた。
「……どうかした?顔色が優れないみたいだけど」
「いえ、何でもありません。お気になさらず」
こちらの顔色を窺うような声色に、リネアは半ば無意識にディランから顔を逸らす。
発した声は自分でも笑ってしまうほどに固くて、いつかの日にリネアは嘘をつくのが下手だと言ったディランの言葉が想起され、まさしくその通りではないか、と心の中で自分に毒づく。
そんなリネアの様子にますます顔を顰めたディランは、上体を屈めてリネアの顔を覗き込もうとする。
「そういうわけにはいかないよ。もしかして体調悪い?なら、無理しないで保健室に……」
「大丈夫ですから!」
ディランの言葉を遮り、半ば叫ぶように吐き出す。
すぐそばでディランが息を呑んで固まる気配がして、リネアはもう誤魔化しがきかないことを悟る。
顔なんて見れるわけもなく、リネアは俯いたまま、ディランから一歩だけ距離を取る。
「……あとその、今日のお昼なんですが、また先生に呼ばれていまして。なので……ランチは別々で、お願いします」
ごめんなさい、と付け加えた声が決して震えないようにと、リネアは鞄を持つ手にぎゅうっと力を込めていた。
彼が今、一体どんな顔をしているのか知りたかったけれど、知りたくなかった。
「……わかった」
そして一瞬にも永遠にも感じられた沈黙ののち、ディランから告げられた言葉には、なんの感情も乗っていなかった。
ディランにそう言わせたのは紛れもなくリネア。それなのにちゃっかりと傷つけられた心地になっている自分がいて、それがさらに己の浅ましさを浮き彫りにする。
これ以上ディランの前で醜い自分を晒したくなくて、顔だけでなく心まで隠すようにディランに背を向ける。
背後から何か言いたげな雰囲気を感じたものの、結局リネアはそのまま逃げるようにその場を去った。
(本当に、どこまでも卑劣で……最低ね、私)
わかりきった呟きを落としても、リネアの感情が波立つことはない。心は凍りついたように、ただ静寂だけを宿していた。
一方、一度も振り返ることなく廊下の向こうへ消えていったリネアを呆然と見送ったディランは、心ここに在らずといった様子で固まっていた。
しばらくしてようやく我に返ると、リネアへ伸ばしかけてやめた状態のままだった右の腕をのろのろと下ろす。
(……なんだ?明らかに様子がおかしかった。……僕を避けている?)
リネアの態度がわかりやすいというのもあるが、さすがに数多の女子の反応を見てきただけのことはある。ディランはリネアの行動が意味することを即座に把握し、次いで何かに急かされるような心地でその要因について思考を巡らせ始める。
(誰かに何か嫌味を言われたか……いや、その程度でリネアが揺らぐとは思えない。となると考えられる原因は家庭内での問題か、或いは……)
そこまで考えてディランの頭に浮かんだのは彼女の元婚約者の姿。途端に、ディランは己の機嫌が急降下するのがわかった。
そして理由もわからず避けられたことに対する戸惑いが、じわじわと怒りに似た不快な感情へと変わっていく。
(……僕に相談できないことって、何だよ)
そうして最終的に抱いたのはあまりにも独善的でくだらない感情で、ディランは行き場のない苛立ちを持て余し、小さく舌打ちをした。