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とある日の午後。
職員室に呼ばれたというリネアを見送り、ディランは一人中庭のベンチに腰掛けていた。
最初は空を覆う雲をぼんやりと眺めていたディランだが、しばらくすると手持ち無沙汰になり、二週間前に終えたばかりの文官試験の問題集をパラパラと斜め読みし始める。
リネアとディランが偽の恋人同士となったあの日からはや三ヶ月。二人の関係は相変わらずだ。
変わったことと言えば、ディランがリネアに触れる際、許可を取らなくなったことくらいだろうか。
ディランはふと、先日ようやく婚約解消の手続きが全て完了した、と嬉しそうに報告してきたリネアの姿を思い浮かべる。
結婚はせず王宮の文官になりたい、と両親に本音を打ち明けたところ、何か悩みでもあるのかと大層心配され、質問攻めにあったそうだ。
何とか上手く話をまとめ、最終的には渋々といった様子ではあったものの、ステファンとの婚約解消にも納得してくれたらしい。
そう誇らしげに説明するリネアの姿を思い出して、ディランの口元は自然と綻ぶ。
手元の本から少し顔を上げて、ディランはリネアと出会う前の自分を思い返す。
(半年前の僕が今の僕を見たら、一体どんな顔をするだろうか)
そのときの気分で令嬢を取っ替え引っ替えして遊んでいた頃に感じていた、絶妙に不快で煩わしい乾きの感覚は、今はまるで感じない。
あの頃はいつも何かが足りなくて、手当たり次第に女の子に声を掛けていたけれど、結局どう足掻いてもディランの心の空虚感はなくならなかった。
学園の最終学年になっても改善する見込みは皆無で、正直ディランは諦めかけていた。
けれど。
(……まさかこの僕が、一人の女の子にここまで心奪われることになるとはね)
こんな最低最悪のクズが、と心の中で付け加え、ディランは自嘲じみた笑みを唇に浮かべる。
リネアと出会ってから、ディランの心は確かに失っていた形を取り戻し始めた。そして同時に、これまでずっと毛嫌いし遠ざけてきたはずの感情の名前すら、思い知ってしまったのだ。
あれだけ悩んでもがいて、それでも埋まらなかったのに。
ようやく、諦めがつきそうなところまできていたのに。
一度その虚しさを埋められてしまったディランは、再び心が欠けてしまうことの恐怖を知ってしまった。
笑ってしまうほどに、すべてが手遅れだった。みっともなく泣いて縋りつくことになったとしても、それでもどうしても手放せなくなってしまっていた。
彼の空虚は、彼女にしか埋められないのだから。
俄かには信じがたい己の急激な心情の変化を、ディランは最初こそ頑なに認めようとはしなかったけれど、二ヶ月ほど経ったある日、何の前触れもなくストンと諦めがついてしまった。
これでも元学園一の遊び人という(不名誉極まりない)称号を我が物にしていた男である。そんなディランが自分の気持ちに鈍感なわけがなかった。
(この感情が恋でないと言うのなら、一体何を恋と呼べばいいのか、僕にはわからない)
ディランはふと、初めてリネアと出会った日の会話を思い出す。
『もちろん、キャントレル様に邪な感情を抱くことは絶対にないと誓いますわ』
『言い切るね。側から聞いてるとただのフラグなんだけど……まぁ、きみなら大丈夫そうかな』
「僕が回収しちゃってどうするんだよ……」
思わず零れた自身の呟きが耳に届いた途端、いたたまれなさで頭を抱えたくなる。ディランはベンチに座ったまま、がっくりと項垂れた。
軽く一分はそのまま静止していたディランだったが、しばらくしてのそりと顔を起こし、宙を見つめて投げやりに思考を巡らせはじめる。
(……もし仮に、だ。仮にリネアも僕を好きだとして、話を持ちかけた側の彼女がその想いを僕に伝えるわけがない。となると残された道は、僕からリネアへ想いを伝える……って話になるんだけど)
「……そのたった一言を伝えるのがこんなに難しいなんて聞いてないんだよなぁ」
深い深いため息とともに、再び力なく項垂れるディラン。彼の脳裏に過るのは、失敗に終わった数多の告白劇の断片的な記憶である。
中庭、渡り廊下、談話室、図書室、エトセトラ……。
ありとあらゆる場所で仕掛けるものの、あと一息というところでいつも言葉が喉につっかえ、無理やり話題を逸らして誤魔化す、というお決まりのパターンで失敗を繰り返しているディラン。
控えめに言っても、初心者と大差ない恋愛偏差値の低さ。元遊び人とは到底思えない惨状である。
散々好き放題して遊んでいたあの頃の経験値は一体どこへ消えたのか、と絶望に近い感情を覚えていると、不意に向かいの校舎の方からディランの名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ディ〜ラン、久しぶり」
「……やぁ、マリンダ」
鼻にかけるような甘ったるい声、キツめの香水、少し派手めな化粧。
改めて見ると、数ヶ月前の自分の好みを疑うな、と、ディランは目の前にやってきた令嬢を冷めた瞳で見つめ、すぐに手元の問題集へと視線を移した。
ディランがマリンダと呼んだ令嬢は、そんなディランの態度に気づかないまま楽しそうに話を続ける。
「聞いたわよ。文官の試験、結局受けたんだってね?さすがは将来有望株のご令息様」
「まあね」
「最近ご無沙汰だったから寂しくなっちゃった。ね、今度遊んでくれる?」
「残念だけど忙しくてね、時間がないんだ」
これまでとは打って変わり、目も合わせず淡々と相槌を打つディランに、マリンダもようやく違和感を感じたらしい。
問題集に目を落としたままのディランを覗き込むようにして首を傾げ、それでも顔を上げないディランに、少し苛立ったように片眉を上げる。
「ふぅん……そういえば、最近どこぞの侯爵令嬢に一途に惚れ込んでるって噂、聞いたけど。弱みでも握られたの?」
「そんなんじゃないさ」
「まあいいけど、その子に飽きたらまた遊んでくれるんでしょう?」
マリンダのその言葉に、ディランは内心舌打ちをする。
鬱陶しい。面倒臭い。けれどこれはディラン自身が招いた結果だ。
「……そうだね」
ぽつりと呟いたディランに、マリンダの顔がわかりやすく明るくなる。
けれどその直後、ディランは手に持っていた本をぱたりと閉じると、ゆっくりと立ち上がりながら言葉を付け加える。
「ま、一生飽きる予定ないけど」
「……え?」
一瞬何を言われたのか理解できなかったらしく、ぽかんと情けなく口を開けて固まったマリンダだったが、しばらくしてようやく言葉を飲み込めたらしい。
が、それでもまだ、告げられた言葉の意味を素直に受け取ろうとはしない。
「ちょっと……何?そのつまらない冗談。笑えないんだけど」
その返事こそ心底つまらないよ、という思いを表情と視線に乗せてやれば、マリンダの顔からみるみるうちに血の気が引いていく。
「……は?え、まさか……ほ、本気とか言わないわよね?ねぇ、ディラン」
「本気だったら何なの?」
正直言って会話をするのも面倒だったが、ここでハッキリ言っておかなければ後々さらに面倒なことになることをディランは知っている。
ハァ、とこれ見よがしに息を吐けば、マリンダの瞳は今度こそ絶望に染まった。
「そういうわけだから、きみとの付き合いも今日でおしまい。もう金輪際関わらないでね。あ、もちろん彼女にも」
「う、嘘……待ってよディラン!なんでよりによってあんな地味な女……」
「おい」
聞き捨てならない言葉を拾い、ほとんど反射でディランの口から飛び出した声は、自身でも驚くほど冷めきっていた。
その声に可哀想なほど肩を震わせたマリンダだったが、ディランは彼女に対し「最後の最後まで不愉快な女だな」という感情しか抱かない。
「リネアを侮辱するな。……ああそれと、彼女に余計なことしたら、殺すよ?」
敢えて攻撃的な言葉を選び、ディランはうっすらと口角を上げる。
その笑顔を直視したマリンダの口からは、声にならない悲鳴が零れた。
あっさりとマリンダに背を向けたのち、そろそろ待つのも飽きてきていたので、ディランはリネアを迎えにいくことにした。
くるりと踵を返し、軽い足取りで職員室へと向かう。
(……そろそろきっちり清算しないと、だな)
そんなことを考えながら口にしていた言葉が、事態をさらにややこしくすることになるなど露にも思わずに。
残り5話となります。
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