6
ステファンと話し合った日の翌週。
図書館での一件以降、リネアの編み込みスキルは多少上達したものの、一人ではまだ両サイドのバランスがうまく調整できないでいた。
そのため近頃は、学園に登校してまず最初にディランのところへ行き、髪を整えてもらうのが彼女の日課になりつつある。
そんな今日も微妙に右肩上がりの編み込みになってしまい、惜しいのよね、などと考えながらディランの元へ向かっていたとき。
渡り廊下に差し掛かったところで、リネアは突然背後から呼び止められた。
「ジェンキンス様!」
急な呼び掛けに大袈裟に肩を揺らしてしまい、少し恥ずかしくなりながらも慌てて振り返る。
そして声の主を視界に捉えた途端、浮き足立っていた心は急速に温度を失くしていく。
表情を固くしたリネアに気づいたのかはわからないが、その令嬢は足早にリネアの元へ駆け寄ってくる。
動きを止めたリネアを一瞥したのち、サマンサはそのまま優雅に一礼してみせた。
「……突然のご無礼をお許しください、私はヘンズリー子爵が娘、サマンサと申します」
「私に何か?」
感情を押し殺し、意識してできるだけ冷たい声を発すると、サマンサの肩が僅かに震える。
無理もない。いくら学園内とはいえ、侯爵令嬢と子爵令嬢。この身分差を前にして、緊張しない人間などそうはいないだろう。
それでもサマンサは小さな拳をぎゅっと握りしめ、意を決したように顔を上げた。
「率直に申し上げます。ジェンキンス様、そのような不誠実な行動はおやめください!婚約者を蔑ろにして、何とも思わないのですか!」
その言葉の端々から、彼女のやるせない怒りが痛いほどに伝わってくる。
叶わぬ恋と知りながら密かに想いを寄せていた相手が、婚約者にひどい裏切りを受けていると知って、居ても立っても居られなくなったのだろう。
まっすぐな子ね、とリネアは心の中で呟き、静かに目を細める。
「何をしようが私の自由でしょう、あなたには関係ありませんわ」
「レイランド様のお気持ちはどうなるのです!お願いです、あの方のためにも、今一度考えを……」
「考えているわ。あの人に私は勿体無いの、もっと身の丈に合う相手を探すべきよ」
「な……っ、彼を侮辱しないで!」
水分をしっとりと含んだ可愛らしい栗色の瞳がゆらゆらと揺れているのを、リネアはうまく回らない頭でぼんやりと眺めていた。
けれどこういうときほど、リネアの口は信じられないほどうまく回るのだ。思わず自分でも笑ってしまうくらいに。
「というか、彼とは近々婚約を解消するの。だからもう放っておいてくださらない?これはあなたには何一つ関係のない話よ、ヘンズリー子爵令嬢」
婚約解消という単語を出した途端、サマンサの動きが不自然に止まった。
どうやらステファンはまだ伝えていなかったらしい、とリネアはどこか他人事のように考える。
恐らく婚約解消の手続きが滞りなく完了し、全てが片付いてからサマンサに知らせるつもりだったのだろう。誠実な彼らしい考え方だ。
けれど今、リネアが口にしてしまった。
あとで怒られるかしら、と考えて、けれどすぐにその考えを消し去る。
ステファンはきっと怒らない。ただ、困ったように笑うだけ。
その考えに至ったとき、リネアはどうしようもなく泣き出したい衝動に駆られた。
「……失礼、しますわ」
他にもたくさんリネアに言いたいことがあっただろうに、サマンサは何かを堪えるような声でそう呟いたあと、ぺこりと頭を下げてその場から走り去った。
その後ろ姿が先日のステファンの姿と重なり、リネアの口から弱々しい笑い声が零れ落ちる。
彼と彼女がこれから歩む道に、リネアは要らない。
だから、これでいい。
しばらくその場に佇んでいたが、ふと本来の目的を思い出してリネアはようやく踵を返す。
そうしていつから見ていたのか、少し離れた柱に凭れ掛かり、温度のない瞳でリネアを見つめるディランの姿を見つけ、リネアは自分でも驚くほど自然に満面の笑みを形作った。
「……どうでしたか?このあいだよりは上手かったでしょう?」
ゆっくりと柱から上体を離し、急ぐわけでもなく、いつもと同じ歩幅でリネアの元へやって来るディランを笑顔のまま迎える。
そうして近づにつれ、温度がないと思っていた彼の菫色の瞳がひどく哀しそうに揺れていることに気がつき、リネアは激しく動揺した。
少し手を伸ばせば簡単に届く距離でぴたりと立ち止まったディランは、何かを言いかけて止め、言葉を飲み込むような仕草をする。
そしてそれから、切なげに笑ってみせた。
「……不器用だね」
「それは心外ですね。器用な方だと自負していたのですけれど」
「リネアはもっと自分に優しくしてあげてもいいと思うよ」
「……これ以上甘やかすとつけ上がりますから」
動揺を悟られぬよう気を張っていると、どうしても声が硬くなってしまう。
聡いディランが、こんなあからさまに不自然なリネアの様子に気づいていないはずがなかった。
けれど、ディランは何も指摘しなかった。
ディランが触れたのはいつもと同じ、リネアの長い黒髪。
リネアの心には、決して触れてこない。
その優しさが温かくて、少し冷たくて、泣きたくなるほど嬉しくて、胸が張り裂けそうなほど寂しくて。
相反する感情の波が激しくぶつかり合い、今にも崩れ落ちてしまいそうなことに気づいたとき、
リネアは、自分の心に蓋をした。
「……リネア、何考えてる?」
「ディランはこうやってたくさんの女の子を誑かしてきたのだろうな、と」
「人聞き悪いこと言うなぁ。今すごくいいシーンなのに」
「ふふ、冗談ですよ」
そう言って笑うリネアの瞳には、よくよく見ると薄らと涙の膜が張っている。
けれど、それが崩壊することはない。
(こういうとき、優しくすれば女の子は泣くものだと思っていたけど……そうじゃない子もいるのか)
髪の感触がすっかり馴染んでしまった手のひらをゆっくりと動かしながら、ディランはそんなことを考える。
(恋人の前でくらい泣けばいいのに。……それとも、僕が偽の恋人だから泣けないのか?)
それは何だかあまり面白くないな、とディランは思う。
偽の恋人だろうが関係ない。彼女が弱みを見せられる相手は、ディランであってもいいはずだ。
(――泣いてほしい、僕の前で)
その考えに至った瞬間、ディランの頭の中で何かのピースがかちりと嵌った。
しかし、同時にその音でディランは我に返る。
(……何を考えてる、僕は)
ディランは、今しがた自分が抱いた感情に愕然とした。
そしてすぐに、これ以上余計な考えを巡らせないようにと小さくかぶりを振る。
それからしばらくの間、ディランは何も言わずにリネアの頭を優しく撫でていた。




