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リネアとディランが偽の恋人同士になってから二週間。
学園の日常と化してきた中庭での二人の逢瀬に、静かに、けれど大胆に歩み寄る影があった。
「――リネア」
「……ごきげんよう、ステファン」
少し躊躇いがちに呼び掛けられて、リネアは背後に視線だけを寄越しつつ、とうとう来たかとベンチに腰掛けたまま小さく喉を鳴らす。
ディランに凭れ掛かるように寄り添うリネアを渋い顔で見つめているのは、リネアの婚約者ステファン・レイランド。
リネアの養父であるジェンキンス侯爵と、ステファンの実父であるレイランド伯爵は、学生時代からの友人なのだそうだ。その縁から、リネアとステファンは物心ついた頃には当たり前のように一緒にいて、気がついたときには婚約者だった。いわゆる幼馴染みというやつである。
しかしお互い兄妹のように思っているところはあるものの、残念ながらこの歳になってもそれが恋愛感情に発展することはなかった。
それでもステファンはリネアに対し少々過保護なところがある、と事前にリネアから聞いていたディランは、リネアの隣で少しばかり身構える。
「……これは一体、どういうことだ」
怒っているわけではなく、ただ本当に心底困惑しています、と言わんばかりの声色でそう問い掛けてきたステファンにディランはおや、と眉を上げる。
想定していたものと異なる反応を受け、ディランが次の一手を決めあぐねていると、突然隣に座っていたリネアが勢いよく立ち上がった。
リネアの急な動きにぎょっとしたのはディランだけでなくステファンも同じだったらしく、広い肩がびくりと大きく跳ねる。
「ステファン。私、真実の愛を見つけましたの」
「ぶっ」
そうしてリネアの口から発せられた予想の斜め上の言葉に、ディランは盛大に咽せた。
「真実の……?」
「ええ、だからあなたとの婚約は解消したいと思っているわ。もちろんこれは私の身勝手な意見だから、あなたの意思も尊重したいとは思っているけれど。でも私の意思は固くてよ」
頭の上に?を浮かべるステファンに対し、リネアはやけに早口で喋り続ける。
一方ディランはというと、全身を小刻みに震わせて、気を抜けば込み上げてくる笑いを噛み殺すのに全神経を集中させていた。
「解消?待ってくれ、急に言われても混乱する。それに真実の愛というのは、つまり……彼と?」
「その通りよ」
と、なぜかドヤ顔でディランを振り返ったリネア。
まさかのここで自分のターンなのか、とまたもやぶり返しそうになる笑いをギリギリで押し殺して、ディランは一つ咳払いをしてから立ち上がる。そして改めて、ステファンと真正面から向き直った。
「挨拶が遅れて申し訳ない、ステファン・レイランドどの。僕はディラン・キャントレル。同じ伯爵家だから、気軽にディランと呼んでもらって構わないよ」
「あ、ああ……俺も、ステファンと呼んでくれて構わない」
「それは光栄だ」
ニコニコと外向けの笑顔を貼り付けながら、完全に混乱している様子のステファンに同情に似た感情を覚えるディラン。
そんな二人の隣でなぜか得意げに胸を張って仁王立ちしているものの、忙しなく視線を彷徨わせているリネア。
冷静に考えるとなんだこの状況、と思わずツッコみそうになり、ディランは一旦思考を放棄することに決めた。
「それでその、ディラン……どのは、本当にリネアのことを慕っているのか?」
「もちろん。と言っても、日頃の僕の行いを知っていたら、そう易々と信じられるものではないよね」
「……」
さらりと告げたディランに、ステファンの顔が僅かに引き攣る。
どうやら過保護というのは嘘ではないらしいな、とディランは軽く思考を巡らせる。そして小さく息を吐いて、意識的に真剣な表情へと切り替える。
「でも、本気だから。僕はもうリネアしか見ていない」
「……っ」
ディランの隣でリネアが小さく息を呑む気配がしたが、どうしてかディランはそちらへ視線を向けることが出来なかった。
今、リネアを見てはいけない、と本能に近い何かがディランの脳内で警鐘を鳴らしていた。
「……本当なんだな。リネア」
「ええ……本当にごめんなさい、全部私が悪いの」
そういったリネアの声が微かに震えているような気がして、ディランは反射的に耳を塞ぎそうになる自分に困惑する。
そんなディランとリネアをステファンは何度か交互に見て、それからしばしの沈黙ののち、ふーっと大きく息を吐いた。
「……わかった。婚約を解消しよう」
「……ありがとう、ステファン」
ホッとしたように胸を撫で下ろす気配を感じて、ディランはそこでようやくリネアへと目を向ける。
先ほどまで鳴り響いていた警鐘はぴたりと止み、心は不自然なほど凪いでいた。
経験したことのない感情に困惑と動揺が収まらないものの、決して表には出さないように、とディランは両の拳に力を込める。
「お父様とお母様には私から事情を話すわ。婚約解消についての文書もこちらから出す。あなたに非は一切無いから、万が一そちらが不利益を被ることがあれば、私が全て責を負います」
「いや、そこまでしなくていい。それに……きみがそれを罪というなら、俺も同罪だ」
淡々と述べるリネアに対し、ステファンは緩く首を振り、苦しそうに顔を歪める。
「……気づいていたんだろう、サマンサのこと」
「……ヘンズリー様がどうかなさいまして?」
誤魔化すには、リネアの声はあまりにも掠れていた。
ステファンが言葉を詰まらせたのと同時に、ディランの心は僅かに波打つ。
「私は何も知りませんわ。ただ私が、ディランを愛してしまっただけ。それだけの話よ」
「……リネア」
諌めるような、諭すような、そのどれとも違うような声でステファンはリネアの名を呼ぶ。
けれどステファンは続けようとした言葉を飲み込み、ぐっと何かを堪えるような表情を見せたあと、再び顔を上げる。
その瞳にはもう、迷いなどなかった。
「リネア、きみとはこれからも良き友人でありたいと思う。今回の婚約解消がきみのせいだと言うのならば、俺のこの願いを聞き入れてはくれないだろうか?」
「……そんなの、そもそも断る理由がないわ」
「……ありがとう」
そこで初めてステファンは口元を緩める。
その微笑みは、手のかかる妹を前にした兄のような、慈愛に満ち溢れたものだった。
どこか遠くから二人を眺めているような錯覚に陥っていたディランだが、次いでパッとディランに向き直ったステファンに一気に現実へと引き戻される。
「ディランどの。リネアを頼みます」
「……もちろん」
不意を突かれて、僅かだが反応が遅れた。
否、遅れたのは、ステファンの瞳に宿る意思の強さに気圧されたからかもしれない。
礼儀正しく一礼して去って行ったステファンの背中を見つめながら、脳裏によぎったその考えにディランは苦笑いを零すしかなかった。
そうして再び二人きりになったその空間に、はぁぁ、と大きなため息が落ちる。
「……これで第一関門突破ですわね。あぁ、緊張した……」
「僕は今になって事の重大さに気づき始めてるよ……」
「え?」
「いや、何でもない」
ぼそりと呟かれた言葉が聞き取れずリネアがディランに訊ねるも、曖昧な笑みで誤魔化されてしまう。
それが何となく不服で、むっと唇を引き結ぶリネアを見て小さく笑い声を漏らしたディランは、ベンチの背にどさりと体重を預けて同じように大きなため息をついた。
「それにしても……リネア、きみ本当に嘘が下手だね」
「えぇっ!?」
「あまりにも下手すぎてさすがの僕もちょっと焦ったよ。目は泳いでるし声は上擦ってるし、たぶんステファンくんも気づいてただろうなー。きみのために、わざと知らないふりをしてくれたんだと思うよ」
「う、嘘……完璧だと思ったのに……」
「あれで?それこそ嘘でしょ」
ディランの追い討ちにがっくりと肩を落としたリネアを見ていれば、ふとディランの心がさわさわと揺らぎ始める。
くすぐったいけれど決して気分の悪いものではないそれを甘受しつつ、ディランはほぼ無意識に、リネアの結われていない長い黒髪に手を伸ばす。
「まぁ、その純粋さがリネアの良いところなんじゃない?」
「……フォローが雑だわ」
「ひどいな、本心なんだけど」
何の前触れもなくぽんぽんと軽く頭を撫でられたことで、リネアの思考は一瞬彼方へと旅立ちかけた。しかしすんでのところでそれを引き留め、あくまで平静を装って軽口を返す。
それでも誤魔化せないほどに大きな音を立てて騒ぐ心臓の音には、どうか気づかないでと祈りながら。
「……ありがとうございます、ディラン。卒業までもうしばらく、この茶番にお付き合いくださいませ」
「仰せのままに、姫」
「……」
「あ、その目傷つくからやめて」




