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二人が行動を共にし始めてから一週間が経った。
リネアの婚約者であるステファンは、リネアの突然の奇行に何か言いたげな雰囲気は醸し出しているものの、未だ直接の接触はない。
授業が終わり、現在は放課後。二人は今、図書館の隅の机で参考書と睨めっこしている。
正確には睨めっこをしているのはリネアだけで、ディランはそんなリネアの向かいに座って頬杖をつき、反対向きに並んだ文字の羅列に意味もなく目を滑らせている。
「将来は王宮の文官になりたいんです」
ふとリネアがそう呟き、ディランは緩慢な動きで顔を上げる。
「へぇ、それで勉強頑張ってるんだ」
「ええ。もう試験まで二ヶ月を切ってしまったから、少し焦っています」
この国の文官の試験は、他国と比べてかなりレベルが高いことで有名である。それほど王宮には優秀な人材が勢揃いしているということであり、先人たちに憧れを抱き、狭き門ながらもその先を夢見る学生は決して少なくない。
と、何か思い出したようにリネアのペンを持つ手が止まり、真ん丸なかたちをしたアクアマリンがディランをまっすぐに捉える。
「ディランは受けないのですか?」
「んー……正直どっちでもいいかなと思ってた。別に王宮の文官にならなくても、爵位を継いだら領地経営とか諸々しなきゃだし。父さんも別に強制はしないって言うから」
なるほど、とリネアが納得して頷くと、間髪入れずに「でも」と呟いたディランは、そのまま言葉を続ける。
「リネアが受けるなら受けようかな」
「え?」
「きみと同じ職場で働くのは楽しそうだから」
それに一緒に勉強もできるしね、と付け足して、にかりと無邪気に笑ったディランにリネアは今度こそ釘付けになる。
「この偽りの関係が終わったら、卒業後は僕と一切の関わりを断つ、なんて言ってたけどさ。そんな寂しいこと言わないでよ。リネアとは今後も友人として仲良くしたいと思ってるよ、僕は」
さらに付け足された言葉に少しだけ心臓が軋んだような音を立てた気がしたけれど、それよりもリネアの心を占めていたのは溢れんばかりの喜びだった。
自然とも不自然とも取れる絶妙な間が空いて、それからリネアの頬もふにゃりとほどける。
「……確かに。ディランが同僚だったら、楽しそうだわ」
(……あ、敬語。外れた)
恐らく無意識に出ているのであろう、稀に聞けるリネアの少し砕けた返答にディランの心はふっと軽くなる。
(ちょっとは気を許しはじめてくれてる、ってことかな)
そうであればいい、なんてらしくないことを頭の片隅で考えながら、向かいで綻ぶ柔らかそうな頬を見つめた。
それから何となしに視線を少しばかり横にずらし、ディランはふと思いついたことをそのまま口にする。
「……リネア、ちょっと頼みがあるんだけど」
「はい、なんでしょう」
ああまた敬語に戻った、と少し残念に思いつつ、ディランは自分の髪を指差しながら話を続ける。
「髪の毛、下ろしてみてくれない?」
「髪を、ですか?なぜ?」
「いいからいいから」
何の脈絡もなしに告げられたお願いごとに不思議そうな顔をしながらも、リネアは素直にペンを置き、胸元まである両サイドの三つ編みをせっせと解き始める。
自分で言っておいてだが、あまりにもすんなりと要求を受け入れるリネアの警戒心の低さにディランの瞳が少しだけ鋭さを帯びる。
そんなディランの様子に気づかぬまま、リネアは髪を結んでいたリボンを解き終え、三つ編みの型が残る髪の毛を手櫛で整え始めた。
その様子をしばし眺めたあと、ディランは徐ろにリネアへと手を伸ばす。
「ちょっとごめん、触るよ」
「……へ」
突然の申し立てにリネアが動揺して固まると、ディランは初めて、リネアの了承の言葉を待つことなく黒髪に触れた。
何が起こっているのかさっぱりわからず、脳内で大パニックを起こすリネアだったが、頭に反して身体は時間が止まったかのようにびたりと動きを止めている。
壊れ物を扱うように優しく髪を梳く手の微かな温度と、至近距離で感じる異性の吐息に、息の仕方すらわからなくなってくる。
このままでは呼吸困難になる、と焦り出したところで、ようやくディランはリネアから身体を離す。
途端にどっと全身から汗が吹き出るような疲労感に見舞われ、リネアは平然を装うことに必死だった。
「……ん、やっぱり。こっちのが良いな」
そんなリネアの苦労など露知らず、満足そうに微笑んだディランはうんうん、と数回頷くと得意げに腕を組む。
「えっと、何が……?」
「鏡……は、ないか。あ、窓見てみて」
状況が飲み込めず困惑したまま首を傾げれば、ディランに少し急かすようにそう言われ、リネアは恐る恐る窓の方へと視線を移す。
そして、そこに映る自分の姿を認めてゆっくりと目を見開いた。
両サイドの前髪より少し長めの髪が、その横の髪と合わせて、三つ編みを結っていた青色のリボンと共に綺麗に編み込まれている。
お茶会や式典などでドレスアップする際に、メイド達がこういったヘアアレンジをしてくれることがあるので知ってはいたものの、普段の学園生活でも応用できるとは思わなかったのだ。
唖然として自分の鏡像を見つめていると、少し照れ臭そうな声がリネアの隣から聞こえてくる。
「サイドを簡単に編んだだけだけど、こっちの方が顔がよく見えるし、可愛いだろうなと思って。個人的な意見だけど、今度からこの髪型にしてみたら?……あー、編み方は小さい時に母さんが教えてくれたんだ。たまに実家の犬の毛なんかを編み込みにして遊んでたんだよね」
言い訳のように早口で付け加えられた説明には、今度こそはっきりと照れが滲んでいて、それが少し可愛いなんて思ってしまう。
けれどそんなことを考えている一方で、リネアの脳は身体の制御機能を完全に失っていた。
窓を凝視したまま微動だにせず一言も発しなくなったリネアに、ディランは珍しく落ち着かない様子で問い掛ける。
「ええと……気に入らなかった?」
「……いえ……すごく、素敵です。でも、視界がいつもより開けてて……少し落ち着かない、ですね」
「あはは、それは慣れてほしいな」
何とか絞り出した感想だったが、もっと他に言うことがあるだろう、とうまく話せないもどかしさに下唇を噛むリネア。
しかし机の向かいであっけらかんと笑うディランを見ていれば、そんな歯痒い気持ちはすうっとどこかへ行ってしまった。
「あ、でも私、髪を編んだことがなくて」
「編み方を教えてあげるよ。もし上手くできなかったときは、僕がやってあげる」
「……ありがとう、ございます」
当たり前のように告げられた言葉に、リネアの心臓が一拍だけ大きな音を立てて全身に血液を送り出す。
この動揺にはどうか気づかないで、と何かに祈りながら、リネアは震えそうになる喉を叱咤して、ディランに感謝の意を述べたのだった。




