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本日20時に最終話も投稿予定です。
よろしくお願いします。
無我夢中で足を動かして、リネアは文字通り逃げ出した。
階段を降りきって外扉を開けると、見慣れた中庭の風景が目に飛び込んできて、ハッとして足を止める。
(いつもの癖で中庭に来てしまった……!)
ここにいてはすぐに捕まる、と慌てて方向転換しようとするも、背後から慌ただしい足音が聞こえてきて、リネアは反射的に再び走り出す。
中庭を横目に外廊下を突っ切り、向かいの校舎へ駆け込む。しかし廊下にはまだ生徒がちらほらといて、このままの勢いで突っ込むのは危険だと回らない頭でかろうじて判断し、慌てて辺りを見回す。
目に飛び込んできたのは、階段横の通路の先の扉。考えるよりも早くリネアは駆け出し、裏庭へ続くその扉へと手を掛ける。
そうして重たい扉を押し開け、勢いよく外へ飛び出したとき。
右腕を掴まれたと思った次の瞬間、背後から力強く抱きしめられた。
頭が真っ白になる。
バタン、と背後から聞こえた扉の閉まる音で我に返り、耳元で聞こえる荒い息遣いからようやく状況を正しく理解すると、リネアの心臓は信じられないくらい大きな音を立てて騒ぎ始める。
「……きみ……足、速くない……?」
「……逃げ足、だけは……自信がありまして……」
乱れた呼吸の合間に囁かれる掠れ声は普段よりほんの少しだけ低く、そして絶妙な色気を纏っていて、頭がくらくらしてくる。
返事をするために絞り出した声は笑えるほどに弱々しかったけれど、そんな些細なことを気にする余裕などリネアにはなかった。
背後でディランが息を整えている気配を感じるが、その間もディランはリネアを抱きしめる腕の力を少しも緩めようとしない。
全力疾走した上、突然抱きしめられた衝撃で暴れ狂っている心臓を少しでも落ち着けようと、リネアは深呼吸を試みる。が、どうしても息が震えて上手くできず、ただ焦りだけが募っていく。
リネアの頭にはもう、「逃げる」という選択肢は存在していなかった。
そうしてリネアがあたふたとしているうちに、ディランは随分と落ち着いたらしい。肩口で一つ息を長めに吐いた後、ゆっくりとリネアから身体を離す。
密着していると落ち着かないのに、温もりが遠のくとひどく物寂しい気持ちになって、そんな相反した思いを抱く自分が信じられず、リネアは頭を抱えたくなった。
「リネア、こっち向いて」
不意にいつもの優しい声が耳に届いて、リネアは小さく肩を震わせる。
「……いや、です」
「リネア」
今、顔を見られたくない。その一心で絞り出した拒絶の言葉ごと包み込むような声色で、ディランはリネアの名を呼ぶ。
「お願い。僕の目、見て」
そっと肩に手を置かれた瞬間、どうしようもなく泣きたくなった。
リネアが抵抗しないのを見て、ディランは少しだけ手に力を込め、リネアの身体をゆっくりと自分の方へ向ける。
それでもまだ顔を見ることはできず、リネアは俯いたままでいた。けれどディランはそれを咎めることなく、そのまま話を続ける。
「さっきの話、本当?……僕のこと、好きになったって」
「……」
「教えて、リネア」
お願い、と小さく付け足された声が、普段のディランからは考えられないほど頼りなかったから。
引き寄せられるように顔を上げ、見上げた先。
アイスブルーの隙間から覗く菫色は、今にも泣き出しそうなほど、切なげに揺れていた。
「……ごめん、なさい」
無様なほどに震える声とともに、止まっていたはずの涙が滑り落ちていく。
それが合図だったかのように、リネアの口からはぼろぼろと言葉が溢れ出てくる。
「好きに、なってしまいました。ごめんなさい、ディラン。契約、破ってしまった……ごめんなさい、こんなつもりじゃ……」
「謝らないで。大丈夫、怒ってない。謝る必要もないよ」
「だ、だって、私……約束、したのに。好きにならないって言ったのに」
堰を切ったように止まらない涙のせいで、リネアの頭の中はぐちゃぐちゃだった。
自分が今、何を言っているのかもよくわからない。それでもたった一つだけ、揺るがない思いがあった。
涙を拭おうとしたディランがリネアの頬に触れる前に、リネアはその手をそっと掴む。
わかりやすく震えたその大きな手がどうしようもなく愛しくて、もう泣いているのに、泣きたくなった。
「ディランと、ずっと……ずっと恋人で、いたかったのに……!」
「――ッ」
瞬間、辺りの空気が大きく揺らぐ。
そうして気づいたときには、リネアは再びディランの腕の中にいた。
「……参ったな、こんなはずじゃなかったんだけど」
はは、とどこか渇いた笑いが聞こえたけれど、リネアはその声が僅かに震えていることに気がついていた。
「……リネア。僕、今からすごく最低なことを言うよ」
「え?」
ディランの口から発せられた、この場にそぐわない言葉に目を瞬かせる。
リネアの肩を抱く手に少しだけ力が籠り、次いで小さく息を吐く気配がする。
「きみがようやく僕の前で泣いてくれて、僕は今、嬉しくて仕方がない」
「……へぁ」
「やっと、きみの心の奥に触れることを許されたような気がしてさ。……僕の思い上がりだったら、恥ずかしすぎて死にそうだけど」
告げられた言葉の意味を理解するのに相当な時間を費やしたあと、ぶわりと頬が熱を帯びる。
心臓は相変わらず誤魔化せないほどの大きな音を立てているけれど、いっそのこと全部伝わってしまえばいいのに、とさえ思った。
「……本当に情けないな。どうでもいい相手にはいくらでも甘い言葉を囁けるのに、本命の子を前にしたら何一つ言葉が出てこないなんてね。まさか自分がここまで恋愛音痴だとは思わなかったよ」
「――え?」
決して聞き逃してはいけない言葉が聞こえた気がして、リネアは思わず息を呑む。
身体を強張らせたリネアに気づいたらしく、ディランは宥めるような手つきでリネアの頭をふわりと撫でる。
「謝らせてごめん。たくさん悩ませてごめん。もう、一人で抱え込まなくていいから」
「……だめ。だめです、ディラン」
「ん?何がだめ?」
ふるふると小さく首を横に振り、力の入らない指先で、ディランの胸元の服をきゅっと握る。
「私、勘違いしてしまう」
「……いいよ。勘違いじゃないから」
「でもだって、こんなの……都合が良すぎるわ」
「僕だって、あまりに都合が良すぎてまだ夢なんじゃないかと思ってる」
心が、からだじゅうが、期待に打ち震える。
言葉が、うまく紡げない。
「だ、だって……だって、それじゃあまるで、ディランが私のこと――」
「好きだよ」
被せるように告げられた言葉は、信じられないくらいに優しく、リネアの心に触れた。
枯れることを知らない涙が、また一つ頬を伝う。
「リネアが好き。本気の本気で、きみのことが好きだ。他の女なんかどうでもいい。僕はリネアだけが欲しい」
「……っ」
躊躇いのないストレートな口説き文句に、少し遅れて全身が燃えるように熱くなり、リネアはこれが現実であることを思い知る。
ディランはリネアから少しだけ身体を離して、リネアの顔を覗き込むようにして額を合わせる。
「僕の本当の恋人になって、リネア」
静謐で獰猛な熱を宿す菫色の瞳に真正面から射抜かれてしまえば、息の仕方なんて簡単に忘れた。
感情に突き動かされるがまま、リネアは震える両手でディランの両頬を包み込む。
「……なる」
ディランの少し薄い唇が、微かに震える。
「私ずっと、ディランの……本当の恋人に、なりたかった……っ!」
「――うん」
僕もだよ、ととろけるような声で囁かれて、すっかり馬鹿になった涙腺は止めどなく涙を流し続ける。
涙とともに溢れ出しそうになる想いを堪えようとして、リネアがきゅっと目を瞑ると、すぐ近くでこくりと喉を鳴らす音が聞こえた。
そうして少し間を置いてから、リネアの頬に躊躇いがちに触れた手に、これから起こることを察したリネアの心は大袈裟に騒ぎ始める。
吐息が近づく。
瞼はもう、開けられなかった。




