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掠れきった声でその名を呼べば、ディランは肩越しにちらりとリネアへ視線を寄越す。が、その途端さらに眼光の鋭さが増し、ディランはすぐにまたステファンの方を向いてしまった。
ディランがひどく憤っていることだけはリネアにも伝わってきたが、なぜリネアを問い詰めるのではなく、むしろ守るような形で割り込んできたのかさっぱりわからず、リネアは目を白黒させる。
しかし次にディランが発した言葉で、リネアは彼が盛大な勘違いをしていることに気づいた。
「……リネアに何をした?場合によっては、僕はお前を――」
「ま……まま、待ってくださいディラン!違うんです、ステファンは何も悪くないんです!」
慌ててディランの前に回り込み、今度はリネアが二人の間に割り込む。
ステファンを庇うように腕を広げてぶんぶんと大きく振ってみせるが、ディランはまだ怪訝そうな目をリネアに向けてくる。
「じゃあなんできみは泣いているんだ」
「こ、これは私個人の問題でして!」
「きみの?」
このときリネアの脳内は、ディランへの行いに対する後悔と罪悪感、相手がステファンとはいえ人前で泣いてしまったことに対する羞恥、何とかしてこの状況を丸く収めなければという焦り、といった様々な感情が大渋滞し、思考回路はほとんどまともに機能していなかった。
そしてそんな状況下で、リネアの口がリネアの言うことを聞いてくれるわけがないことなど、リネア自身が最もよく理解していた。
しかし、理解していたところで回らない頭は回らないのである。
「私がディランを好きになったらダメなのに好きになってしまってどうしたらいいかわからなくなってステファンに相談してたら途中から頭の中がぐちゃぐちゃになってきてそれで勝手に涙が出てきただけなんですっ!!」
「………………は?」
たっぷりの間を置いて発せられた、気の抜けたようなディランの声を聞いた途端、リネアの脳は冷水を浴びたかのごとく瞬時に冷静さを取り戻した。
「あ」
しん、と静まり返る廊下。
窓の外から、呑気な鳥の囀りが妙にはっきりと聞こえてくる。
はたと我に返ったのは、リネアの方が先だった。
「え……えと……あの……」
先ほどまで止まる気配のなかった涙は見事に引っ込み、今度は汗という名の違う種類の液体がリネアの背中をだらだらと伝う。
何としてもこの場をやり過ごさなければいけないのだが、もはや完全に手遅れだということはさすがのリネアも十分察していた。
そんなことを考えている間に、続いてディランもはっと我に返る。
しかしあまりの衝撃に動揺がおさまらないらしく、視線は泳ぎに泳ぎまくっている。そうして不自然なリズムで瞬きを繰り返したのち、ディランはようやくリネアをまっすぐ見つめた。
その視線に宿る熱と、菫色の瞳に映る自分の真っ赤な顔をはっきりと認識したところで、リネアの思考回路は今度こそ完全にショートした。
「リネ――」
「し、ししし失礼しますっ!!」
ディランが何か言いかけた瞬間、光の速さで踵を返したリネアは一目散にその場から逃げ出したのだった。
幻聴かと思った。
なぜなら、あまりにも自分に都合が良すぎる内容だったから。
けれど目の前で音を立てて硬直し、しばらくして青くなったかと思えば、次の瞬間には熟れた林檎のように全身を真っ赤に染めたリネアを見て、ディランはようやくこれが現実であると理解した。
朝からずっと避けられているのは当たり前にわかっていて、ディランはそれに対して一日中苛立っていた。
放課後になったら絶対に捕まえてやる、と心に決めていたのだが、こういうときに限ってHRが長引き出遅れた。気持ち急ぎ足でリネアのクラスに向かうもやはり教室に彼女の姿はなく、ディランは壁に寄りかかり深いため息をつく。
そして、そこでようやく少し冷静になった。
(……何を勝手に落胆して、勝手に苛立っているんだか)
ふ、と自嘲的な笑みを漏らし、ディランはもう一度だけ大きく息を吐き出してから姿勢を正す。
(……帰るか)
リネアのことは明日以降も態度が変わらなければ改めて対処法を考えよう、と考えを纏め、ディランは玄関口の方へ歩き出す。
その途中で日中に教師から頼まれていたことを思い出し、それほど急ぎの要件ではなかったがこのまま帰路に着くのも何となく気乗りしなかったため、職員室へと行き先を変更した。
そして三階から二階への階段を降りきったところで、曲がり角の向こうから聞き覚えのある声が聞こえて思わず立ち止まった。
「……を打ち明けてみたらどうだ」
「むり、絶対だめ。……」
ドクン、と心臓が大きく脈打つ。
さっと壁側に寄り、息を殺してゆっくりと曲がり角の先を除く。
そうして目に飛び込んできた光景に、頭が真っ白になって。
気がつけばディランは、涙を流すリネアを庇うように二人の間に割り込んでいたのだった。
脱兎の如く逃げ出したリネアを再び呆然と眺めていたディランだったが、今度は先ほどよりも少しだけはやく我に返る。
慌てて後を追おうとしてこの場にいるもう一人の存在をはたと思い出し、逸る気持ちのままディランはステファンを振り返った。
しかしステファンは軽く横に首を振り、それからふっと微かに口角を上げる。
「構うな、行け」
「――ッ、悪い!」
たった二言、しかしそれはディランの背中を押すには十分すぎる二言だった。
くるりと踵を返し、リネアが去っていった方向へ今度こそ勢いよく駆け出す。
そんなディランの後ろ姿を悠然と眺めながら、ステファンはほんの少しだけその笑みを深める。
「……頑張れ、リネア」




