第470話 白燐
「ウミヘビ……!?」
トルエンの登場に、ミシェルは始めて声を荒げ、動揺を見せた。
「何故、ここにいる! 汝の戦場は此処ではない! そもそも何時から居たというのだ!?」
「最初からだよ。ミシェルちゃんが病院の門を潜った時から、僕はずぅっと引っ付いてたの!」
「……、ちゃん」
トルエンの『ちゃん』付けに、どこか不服そうな声を出すミシェル。
気にせずトルエンはメイスをもう一度振り落とし、泥状のコーラルへ追撃をした。めり込み、まるで濡れた粘土を掘り崩すようにコーラルの頭部を抉るメイス。しかしメイスを伝って不可解な感触を覚えたトルエンは、眉根を寄せ渋い表情を浮かべた。
「ありゃ。何か手応えないな〜。もしかして弱点の場所変えた? 見るからに不定形だもんね、あり得るなぁ」
ステージ6の弱点は、頭。正確には《核》としている脳。そこを攻めれば知性も理性も失い、本能と反射で生きる『珊瑚』となり、人としての形を保つ事も出来なくなる。
にも関わらず、コーラルの泥状の身体は波打つばかりで崩れる様子はない。赤黒く変色してもいない。身体の組織の置換により、随所、体外へ毒素を排出しているのだろう。
「でもいいか!」
トルエンは笑って、メイスを振り回しコーラルへ打ち込み続ける。
その動きに合わせ、ぐちゃりと、泥状の身体が歪んだ。
「処分できるまでは望まないさ! 僕の所属は第二課だ、一撃必殺なんて端から期待していない! 最終的に毒素を注ぐ事が出来るのなら、ノープロブレムだ!」
コーラルが他者と融合する時の形態は、見ての通り柔らかい。一番、無防備な状態。
第一課にも第三課にも遠く及ばないトルエンの毒性だろうと、当てさせすれば確実に効果を発揮させられる。
『一方的に殴るだなんて、暴力的だねぇ』
湿った声が、泥の塊から聞こえる。余裕を孕んだ声だ。
コーラルは注がれた毒素の弱さを読み取って、取るに足らないと判断したのだろう。
彼程度の障害で、ミシェルを逃したくない。ミシェルと接触する現場も見られてしまった今、早急に排除する事により口止めをするべきである。
(でもこの子はミシェル会長の側にずっと居た、と言っていたね。今この瞬間まで、誰にも気付かれる事なく。片してしまえば、それこそ私がミシェル会長へ接触した証拠だと、オフィウクス・ラボは解釈するかもしれない)
そもそもウミヘビを殺すのは手がかかる。現実的な方法としたら失血か、頭部または胸部の破壊かになるが、その際に飛散する青い血を無視できない。特にここではミシェルが巻き込まれてしまう。
また派手な戦闘をしてしまえば、他の者に勘付かれる可能性もある。中毒を待ち、自滅させるのがダメージを負わず穏便に済む方法になるが、時間もかけたくない。
(とても厄介な状況だ。さてどうしよう。……それにしても、どうしてこの子なのだろうか? ウミヘビにはもっと強い子が沢山いるだろうに)
ペガサス教団本部を奇襲したウミヘビのように、辺り一帯を枯れ地にしてしまう毒素を持つウミヘビがラボには多くいる。
確実に片したいのならば、あの時と同じように強力なウミヘビを配置すればいいものを、それをしていない。目の前のウミヘビ自身、第二課所属とわざわざ自己申告をしていた。
尤も強いと判断すれば、即座に標的を諦め一も二もなく逃げるだけだが。
(まるで私に、猶予を与えているかのような……)
その時ふと、コーラルは疑問に思った。
このウミヘビは、『誰』だと。
ウミヘビ最古の5人の一人として知られる砒素とは違い、目の前のウミヘビをコーラルは知らない。
彼の持つ毒素を、知らない。
そこに行き着くと同時に感じたのは、頭痛であった。ズキン、と内側から響くような痛み。泥の中に浮かぶ目玉が映す視界がぶれて、焦点が合わない。振り下ろされるメイスから注がれる毒素はその都度、排出しているというのに。
無駄な足掻きで中毒になってくれないかと、細やかな願いを抱いているというのに、これではまるでコーラルの方が中毒に陥っているかのような――
『……君。もしかして殴るだけでなく、毒霧まで放っているのかい?』
「ワオ! バレてしまったか!」
攻撃の手を緩める事なく、目の前の彼は悪戯っぽく笑う。
ミシェルがマスクを付けているからと、辺りに誰もいないからと、攻撃の傍ら、お構いなく毒霧を放っていたらしい。メイスから注がれる毒素と同じく、弱いので気付かなかった。
しかしこの毒素はどうやら、脳に直接的に効く。
『公共の場で毒霧を使うだなんて、いけない子だね。……名前を訊いても?』
「トルエンだよっ! 覚えてくれると嬉しいなぁっ!」
トルエン。シンナーの主原料。咳や目眩や腹痛などを齎らす他、
脳を、萎縮させる。
つまりステージ6の《核》を、弱体化させる毒素だ。
ぐにゃり。ただ受け身に徹していた泥状の身体が、大きく波打った。コーラルの動揺が、粘性の表面に表れたかの如く。
ズゥン……ッ!
その瞬間、大地が揺れた。菌床を伝い、コーラルの感覚を震わせる。講演ホールの向こう側、庭園の中央で、鯨が起き上がったのだ。
コーラルは視認していない。だが視認せずとも、菌床を介して状況を把握できる。
大鎌を引っ掛けたパラコート。分銅鎖を絡め、反対側から力をかけるアンモニアとクロール。
更に補助として入ったジクワット、アニリン、ジエチルエーテルの面々が、二人一組で抽射器を握り締め、綱引きの要領で鯨の動きを強制する。
そうして、巨体が、無理矢理に上を向かされた。
その頂点へ向かって、硫黄が走る。
垂直の壁の如き鯨の背を、彼は蹴りを連ねて駆け上がり、恐れも逡巡もなく、加速し続けた。
目指すはただ一点、鯨の口先。
滑落寸前の勾配をものともせず登りきった硫黄は、硬く閉じた鯨の顎へ、素手で手を突っ込む。
瞬間、腕の筋肉が爆ぜ、額に血管が浮かび上がる。
全身が軋みを上げる中、硫黄は叫んだ。
「はぁああああっ!」
ガクンッ!
耳を裂くような軋み音と共に、顎が強引に開かれる。
そして歯列の奥、暗い咽喉が露わになった。
「燐!」
すかさず硫黄は合図を送る。名を呼ぶという合図を。
「あいよ!」
それを受けた燐は、鯨の真上、ユストゥスの操るアイギスの触手にぶら下がって、銃を構え狙いを定め――撃った。
パァンッ!
乾いた破裂音が張り詰めた空気を突き突き破り、白い発光体の姿をした銃弾が真っ直ぐ放たれる。
それは硫黄の脇を掠めるように通り抜け、鯨の口へ吸い込まれた。
「着弾! 全員、退避!」
叫ぶと同時に、硫黄は足が鯨の歯にめり込む程に踏み込み、跳躍し、鯨から一気に距離を取る。
ウミヘビ達もまた、拘束具を引き抜いて一斉に後方へ退いた。
直後、
ドォオオンッ!!
爆発音が響き渡った。内側で爆ぜた衝撃波が、鯨の腹部を膨れ上がらせる。尤もその爆発は、鯨の外殻を突き破る程の威力ではなかった。分厚い菌糸の装甲と、『珊瑚』の再生力がそれを封じ込めたのだ。
が、その点は織り込み済みである。
何せ今、撃ち込んだ銃弾は燐の毒素をたっぷり注いで調合した――『白リン弾』。
酸素がある限り、決して燃え尽きない。鎮火しない。焼き続ける。
内側から、絶え間なく。
「どれだけ衝撃や毒の耐性が強くとも……」
空中で一回転し、菌床の上に膝をついて着地した硫黄は、
「炎までは防げまい」
立ち上がりながら振り返る事もなく、そう言い放ったのだった。




