第267話 霧雨の中で
西暦2297年。秋。
「はぁっ……。はぁっ、はぁ……」
霧が立ち込める山の中を、ボロ布を纏った一人の青年が走り抜ける。
(もう何刻、もう幾日、歩いたでしょうか……。十日は、過ぎたでしょうか……)
ざんばらに伸びた白い髪。裸足の足。土に汚れた身体。
ここに来るまで、何度目かの日の出を見て、何度目かの日没を見た。その間、ずっと足を止める事なく青年は移動し続けた。
逃げ出した研究所の職員に、見つからないように。
(寒い……。流石に、十日もろくに食べずにいれば、わたくしでも……)
移動し通しで、睡眠も食事もとらずにいた青年の体力は既に限界で、ぬかるんだ土に足を取られその場で転んでしまう。
それでも少しでも研究所から遠去かりたくて、青年は這ってでも進んだ。しかしそれも長く保たず、やがて動けなくなる。
手足が、身体の末端が冷えていくのがわかる。自分はもう長くないだろう。
そう悟った青年は、そこでようやく周囲へ目をやった。
そこは辺り一面に桔梗の花が咲き誇る、幻想的で美しい場所だった。
(……ここで命尽きるのも、悪くないのかも、しれませんね)
自嘲するように微笑んで、青年はゆっくりと瞼を閉じる。
そうしてどれだけ経ったか。
霧が晴れ、視界が良好になった頃合いに、背負い籠を背負った一人の少年が山の中に姿を現した。彼の目的は生薬の材料になる桔梗の根で、咲き誇る桔梗の幾らかを採集。籠の中に入れていった。
その採集作業中に、少年はうつ伏せで倒れている青年を発見する。うつ伏せの彼は裸足で、薄汚れた格好で、所持品も見当たらず、着の身着のままといった風貌だ。
少年は恐る恐るその青年に歩み寄ると、そっと肩を揺すって声をかける。
「おい、おい。お前、生きているか? 借りている敷地で、行き倒れは勘弁願いたい……」
しかし青年は固く目を瞑ったまま、ピクリとも動かない。
ただ生きてはいるようで、規則的な呼吸音が聞こえてきた。
「……はぁ」
◇
「まぁまぁ! 薬草じゃなくて人を拾ってくるだなんて! しかもこんなに可愛い子を!」
「母上、あまり近付かないように……。得体の知れない、男です。目が覚めたら追い出します」
「追い出すだなんてっ! 青洲ちゃんは冷たいわねぇ。拾ってきたのならちゃんと責任取らないと!」
「犬猫じゃないんですから……。連れ帰ったのは、借りている敷地で警察沙汰を起こして欲しくなかったからです。余所なら幾らでも倒れて構わない。ただ小生が余所に捨て置けば、遺体遺棄になる可能性を懸念して……」
「もう! 貴方それでも医者の卵? もっと優しさと思い遣りを持ちなさいっ!」
「母上がお人好し過ぎるだけです」
賑やかな声で目が覚める。瞼を開けた瞳には、木の板が張られた見慣れない天井が映った。
(ここは……?)
固く湿った土ではなく、柔らかい布団の上に寝かされている。どうやら自分は畳が敷き詰められた部屋にいるらしい。段々と現状を把握してきた青年は、ゆっくりと上体を起こした。
すると賑やかな声を発していた女性がずいと身を寄せてきて、青年はギクリと身体を強張らせる。その女性は、確か『着物』と呼ばれる日本の民族衣装を着ていた。青年にとって初めて見る衣服である。
「まぁまぁ! 起きたのね可愛い人。お腹空いているでしょう? ちょっと待っていてね、今からお粥を作るから」
「母上、ですからあまり関わるのは……」
「青洲ちゃんは黙ってなさいっ!」
着物の女性に『青洲』と呼ばれたのは、二次性徴は終えているものの、まだ幼さが残る少年であった。利発そうな顔をしている、と青年がぼんやり思っていると、青洲はじとりと青年を睨んできた。
「お前。少しでも怪しい動きをすれば……わかっているな?」
よくわからないが、ただならぬ気配を感じ取った青年は取り敢えず頷く。
それから間もなくして着物の女性、『青洲の母上』がお粥とお絞りを持ってきてくれて、青年の土で汚れた手を拭かせて貰った上で、湯気の立っているお粥を口に運ぶ。
(温かい……)
温かい食事など、いつ振りだろうか。
造られてから基本的に栄養剤しか与えられてこなかった青年にとって、このお粥は身体だけでなく、心も温まる食事であった。
「そうそう! お名前聞いていなかったわねぇ。何て呼べばいいのかしら?」
「……あ、ええ、と」
母上に訊ねられた青年は紫色の目を泳がす。名前はあるにはあるが、人名とはかけ離れた名前で、とても伝えられない。
馬鹿正直に『アトロピン』など名乗ってしまえば、彼女達は訝しむだろう。だから誤魔化す事にした。
「わか、わかりま、せん。記憶が、なくて」
「お前、そんな嘘が通用すると……」
「まぁまぁ! それは大変ねぇ!」
「母上っ!」
ぱっと偽名が思いつかなかったので記憶喪失を装ったところ、青洲は信じなかったが母上はあっさりと聞き入れてくれた。
「何よぉ。困った時はお互い様って言うでしょ?」
「素性のわからない人間にする事では、ありません」
「その素性のわからない人間を連れ込んだ子に言われたくありませ〜ん。貴方だってどうせ放っておけなかった、が本音でしょうに」
「ぐ……」
母上の指摘に青洲が押し黙っている。図星らしい。
「それじゃあ『朝顔』。『朝顔』ちゃんて、呼んでもいいかしら?」
「『朝顔』……」
「えぇ! 貴方の瞳、朝顔の花みたくとっても綺麗だから。それに青洲ちゃん曰く、桔梗畑の中にいたって話じゃない。桔梗も昔は『朝顔』って呼ばれていたのよ? ほら、ぴったりでしょう?」
母上は青年の紫色の瞳を見て、そう提案してきた。
日本人離れした容姿に色素だというのに、ありのままを受け止めてくれる。それが無性に嬉しかった。
「……はい。わたくしは、『朝顔』です」
だから青年は『アトロピン』ではなく、『朝顔』として在る事を決めたのだった。
「それで、落ち着いたら外に……」
「せめてお風呂に入れてあげましょうよ!」
「……。ではその後に……」
「お洋服ボロボロなんだし、着替えも用意しなくっちゃ! 貴方スタイルよくて美人さんだから、何を着せようか迷っちゃうわぁ」
「母上……」
部屋から追い出そうとする青洲を、何かと理由をつけて先延ばしにしようとする母上。そして青洲は母上の勢いに押されている。
「あっ、心配しないで朝顔ちゃん。うちは呉服屋なの。だから着替えは吐いて捨てる程あるのよぉ」
「母上、商品ですよ」
「は、はぁ。その、よろしくお願いします……?」
こうして朝顔は、青洲と彼の母上の元で厄介になる事となった。




