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恋愛小説

五日間の恋人 その後……

作者: はやはや

紅海くみ靴、履いて」

 比紗のその言葉に、二つに結えた栗色の髪が揺れる。

「じぃじとばぁば、お絵描き、喜んでくれるかな〜」そう言いながら、リボンの付いた黒いエナメルの靴に、白い靴下を履いた、小さな足を入れる。

 睫毛に縁取られた形のいい瞳。小さな鼻。口角が上がった唇。まだ四歳だけど、将来は美人になるにちがいない。そう思うのは、親バカだろうか。



 今日はうちの両親の、古希のお祝いの食事会をすることになっている。僕達家族と小波家族、海斗夫婦と総勢十人で集まる。

 僕と比紗は五年前に結婚し、翌年に紅海が生まれた。二人が出会ったのが、海だったから「名前に海っていう字を入れたい」と比紗が言い、〝紅海〟と名付けた。

 自分の子どもが、こんなに可愛いものだとは、思ってもいなかった。娘ということもあるのかもしれないが、完全に僕は親バカになっていると思う。

 妹の小波は三年前に結婚し、みやこという女の子が去年誕生した。そして、海斗は半年前に結婚したばかりなのだった。

 僕が海の近くにある街を出てから、十年ちょっとの間に、家族が増えた。去年、僕達家族はこの海辺の街に戻って来たのだった。


 紅海の両手を比紗と僕がそれぞれ繋ぐ。

「じぃじとばぁばに『おめでとう』って言って、お絵描き渡すんだよ」比紗が紅海に言う。「わかったー!」紅海は元気よく返事する。

「じぃじとばぁば、紅海の絵、見たらきっとびっくりするよ。すごく上手だもんな!」と言うと「うんっ!」と、とびきりの笑顔を見せる。それが愛おしい。

 年齢の割には、紅海は絵が上手だと思う。ちゃんと顔を描き、手や足の位置も合っている。背景にはお決まりの太陽と雲と虹。

 クレヨンや色鉛筆の色使いもなかなかのものだと思う。それは比紗に似たのだろう。比紗は大学でデザインの勉強をしていたから。

「ちょと褒めすぎだよー」比紗はいつもそう言う。それに対して「褒めて育てるのが大事なんだよ」と返す。


 この街に住んでいた高校生の頃、自分に家族ができるなんて、想像したことがなかった。あの日、比紗がseasideに来なかったら、比紗と出会っていなかったら。

 誰かをこんなに愛おしく思うなんてこと、なかったかもしれない。

 そう思うと、胸がきゅっと締め付けられ、紅海と繋いでいる手にも力が入る。

 僕はこの街で愛する家族と、これからも生きていく。



 大学で比紗と偶然に再会した日以来、僕達は一緒に過ごして来た。初めて二人で出かけた日、僕は比紗に自分の気持ちを伝えた。

――好きなんだ

 と。比紗は恥ずかしそうな表情になり、俯いた。それを見て、ダメか……と思った。でも、比紗の口から出た言葉は、僕が欲しかったものだった。

――私も

  あの日、別れてから、ずっと好きだった

  連絡先を交換しなかったことを、ずっと後悔してい

  たの

 同じ気持ちでいてくれたなんて、信じられなかった。

 再会できたのは運命だと思った。そして、これからは二人で一緒にいられる。最高に幸せだった。


 比紗が大学二年生になる時、転機が訪れた。

「私、実家出ることにしたんだ」

 僕の部屋に遊びに来ていた比紗がそう言った。どうやら、父親が転勤になったらしい。単身赴任ではなく、母親も一緒に行くという。お兄さんも大学入学と同時に、家を出たようだった。

「ちょうどいい機会」そう言って、コーヒーの入ったマグカップを両手で持ち上げる。

「でね、ルームシェアしない?」

 その言葉に驚く。「えっ⁈」と言うと、

「航太と住めば、毎日一緒にいられるし、家賃半分でいいし。名案だと思ったんだけど……」

 「いいよ」とはすぐに言えなかった。僕の方に不都合はない。でも、比紗の両親はどう思うのか。そんなことを思っていると

「うちの親、そういうの全く気にしないから。というより、この話したら『いいんじゃない』って言ってたし」

 それを聞いて驚く。先に両親に話していたということに。そして、比紗が家族旅行で、僕の実家がある街を訪れた時、『うちの家族旅行は、食事以外はフリープランなの』と話していたことを思い出した。

 比紗の両親は、大胆というか、オープンなのかもしれない。その『いいんじゃない』という言葉が決め手となり、「うん。一緒に住もう」と言えたのだった。


 二人で早速、不動産屋巡りをした。大学に近いこの場所は、学生向きのワンルームが多い。二人で住むのに、ワンルームは手狭だった。

 そこで、1DKの物件を探した。そしてようやく、ここならという物件を見つけた。駅から徒歩二十分と少し不便なものの、互いに四万弱ずつ払えば、住める物件だった。今、自分が払っている家賃より安くなる。



 そして、比紗が大学二年、僕が三年になる春休みの間に引っ越した。その部屋からは、遠くの方に少しだけ海がみえた。窓を開けると、風向きによっては、時々海の香りがした。その香りを嗅ぐと、気持ちが落ち着くのだった。


 四月。前期日程が始まった。

「航太、今日はバイトある?」

 コップにオレンジジュースを注ぎながら、比紗が訊く。

「ん。十時まで。だから、帰って来るの十一時近くなるかな」

 僕は大学近くの飲食店でバイトをしている。

「久紗は今日、何限まで?」

「今日は二限と三限。だから三時には帰って来る。あ、でも大学に残って課題しようかなぁ。航太帰ってくるのも遅いし」

 そう言って、ロールパンを齧る。目の前にあるお皿には、ロールパンが二つと目玉焼き、ミニトマトとレタスのサラダが乗っている。

 比紗は毎朝、朝食を用意してくれる。一人暮らしをしていた頃は、朝ご飯を食べない日の方が多かった。食べても、バナナとかパンとか適当なものだった。

 毎朝、朝食を作ってくれる人がいるというだけで、心が満たされる。


「じゃあ先に行くな」

「うん。気をつけてね」

 一限から講義が入っている僕が、先に家を出る。付き合うようになって一年。たまに言い合いになることもあるけれど、お互い気まずくなるのが嫌で、すぐ謝る。

 そんなこともあって、これまで大きな喧嘩をしたことはない。

 マンションの扉を出ると、暖かい日差しが僕を包んだ。斜め向かいの公園にある、桜の木が満開だ。時折、花びらがちらちらと降ってくる。

 そんな光景を見て、僕は今、幸せだと思う。



 その日、バイト先のBlakeを出たのは、午後十時半だった。Blakeは、創作イタリアンの店で、料理がリーズナブルな上に、タウン誌に掲載されたこともあり、平日でも予約がたくさん入る。

 今日も午後七時頃から順調に混み始めた。バイトを始めた頃は、注文や配膳を間違えるというミスをしたが、今ではだいぶ慣れて、注文が重なろうが、慌てず対応できるようになった。

 店長の立平たてひらさんは、三十四歳と若く、僕と一回りほどちがうだけだ。他にもちがう大学のアルバイトがいて、みんな仲が良い。だから、バイトは楽しい。

 五時間立ちっぱなしの体は疲れるけれど、それは心地いい疲れだった。

 駅前を通り、マンションまでの道を歩く。駅から離れるにつれて人通りが少なくなる。コンビニの角を曲がれば、マンションが見えてくる。

 コンビニの明かりは、そこだけ眩しいほどに輝いている。いつも通り、その前を通り過ぎようとして、店の前に男女の人影があるのに気がついた。

 側を通った時、女性の声が聞こえた。それは聞き覚えのある声だった。


「比紗?」

 こちらに背を向けて立っていた女性に声をかける。僕の呼びかけを聞いて、長い髪の女性が振り返る。間違いなく比紗だった。その顔は困ったように眉毛が下がっていた。僕の顔を見るなり、ほっとした表情に変わり、「航太!」と言った。

 比紗の向かい側にいた、男性が目に入る。僕と同じくらいの年恰好をしていた。

「航太と帰るから」

 比紗はそう言って、僕の手を繋ぐ。それは、その男性に見せつけるようでもあった。そして、比紗は男性に背を向けると足早に歩き始めた。


「何かあった? アイツ誰?」

 マンションの前まで来た時、そう尋ねた。エレベーターのボタンを押してから「同じ学部の子」と、比紗は言った。

「講義の後、同じグループの子と課題を一緒にやってて。遅くなったから家まで送るとか言われちゃって。コンビニの所まででいいって言うのに、しつこくて」

 そう言ってため息を吐く。それを聞いて、体の中で感情が波打つような気がした。

――何だそれ……

怒りのような嫉妬のような、黒い感情。

 黙り込んだ僕を見て、比紗は「大丈夫。彼氏と住んでるって話したし、実際、航太に会ったし」と言った。

 ガコンと音がして、エレベーターの扉が開く。

「うん」とほとんど声にならない声で、返事をする。このことが、後々、二人の喧嘩に発展するとは、思ってもみなかった。



 一週間が経つ頃だった。

 その日、久しぶりにバイトが休みで、比紗が作ってくれたオムライスを夕食に食べ、二人でテレビを見ている時だった。比紗のスマホが鳴った。

 画面の表示を見て、比紗の表情が曇る。スマホを手に取ると、そのまま寝室として使っている隣の部屋に行き、扉を閉めた。

 扉越しに話し声が聞こえる。比紗は声を抑えて話しているようだった。人の話を聞くなんてしたくないから、テレビに意識を集中させる。テレビの中で、タレントが笑う。何がおかしかったのか、わからない。番組に集中できていない証拠だ。


 十分程して比紗は部屋から出てきた。その表情は消耗していた。誰からの着信だったのか、何となくわかる。でも、それを自分から聞くのは、気が進まなかった。もし、比紗が話すのなら聞こうと思った。

「もう、本当嫌だ」比紗がスマホを、テーブルの上に置きながら言う。

 そんな風に言われると「どうした?」と訊くしかない。

 比紗が話すには、同じ学部の築口つきぐちという男子から、アプローチをされているらしい。それは、コンビニの前で、一度顔を合わせた、あの男子学生だった。

 とはいえ顔は覚えていないのだが。

 あの夜の一場面を思い出し、無性に腹が立った。

「航太にも実際に会ってるのに、どういう神経してんだろ……」

「告白とかされたの?」

「うん。ちゃんと断ったけど……」

 比紗が言葉を濁すように言うのを聞いて、胸の内にふつふつと沸いていた怒りが、言葉になって溢れ出した。

「きっぱり断らなかったんだろ」

 僕のその言葉を聞いて、比紗は驚いたような顔をした後、不機嫌な声で言い返してきた。

「きちんと断ったよ!」

 強い口調に僕も言い返す。

「じゃあ何で、アイツが電話なんかしてくるんだよ!」

 比紗は大きな瞳で、僕を睨みつける。スマホを手に取ると無言で玄関へと向かう。

 今なら引き留められる、自分から謝れ、と思うのに行動できない。バタンと玄関のドアが閉まる音がした。

 言い合いになって、どちらかが部屋を出ていくなんて、初めてのことだった。



 気持ちが冷静になると、完全な八つ当たりだったと後悔する。探しに行くべきか、比紗が自分から帰って来るのを待つべきか。迷った挙句、電話をかけた。

 比紗が家を出て、一時間が経とうとしていた。

――お客様がおかけになった電話番号は……

 機械的な女性の声がする。

「電源切ってるし」思わず呟きが漏れた。と同時に心配になった。スマホをデニムのポケットに入れると、僕は立ち上がった。

 比紗がどこに行ったのか、見当はつかなかったが、とりあえず近くを探そうと思った。


 近くのコンビニ、その途中にある公園、駅。どこにも比紗の姿はなかった。何か事件に巻き込まれたりしていないだろうかと不安が大きくなる。

 マンションまで戻り、今度は駅と反対側を探すことにした。その時、マンションの裏の方から声が聞こえた。何人かの男が喋る声。誰かに声をかけているようだった。

 マンションの裏に回り、その声がする方に近づく。するとマンションの裏に、通路のような細長い児童公園があった。こんなところに公園があったなんて知らなかった。

 一つだけあるベンチの周りに三人の男が立っている。ベンチに誰か座っているようだ。

「なぁ行こうって」そのうちの一人が、ベンチに座っている人の腕を掴む。

「嫌だってば! 離してっ!」

 その声を聞いて驚く。比紗だった。見ず知らずの男に絡まれてれいるのだと理解するやいなや、叫んでいた。

「手、離せよ!」

 その声に三人の男が振り向いた。ちっと舌打ちするのが聞こえた。比紗は僕の顔を見ると、泣きそうな表情になり、男に掴まれていた腕を力いっぱい振り解き、隙を見て僕の方へ駆け寄って来た。

「邪魔すんなよ」と、一人がこちらに近づいて来る。

「行こう」僕はそう言って、比紗の手を引き早足でその場を後にする。

「あの女の男なわけ?」「えー! ありえん!」と好き放題言う声が聞こえて、こういう時、なりふり構わず殴りかかれる勇気があれば……と思うが、実際の僕には、そんな勇気はない。

 そのままマンションに戻るのは、住んでいる場所を見られるようで、危険な気がしたから、あえてマンションと反対方向に進んだ。


 比紗は黙ったまま手を繋いでいる。住宅街を一周する形で、マンションまで戻った時、比紗は「ごめんなさい」と言った。

 最初は黙っていたけれど、八つ当たりをしたのは、自分の方だったと思い出し、「こっちこそごめん」と謝った。すると、比紗は僕にぎゅっと抱きついてきた。シャンプーの優しい匂いがする。

 エレベーターの扉が開く。「行こう」と言うと比紗は僕から体を離し、こくんと頷いた。

 部屋に戻ると比紗は紅茶を淹れてくれた。僕の隣に座りながら「私が好きなのは航太だよ。だから信じて」と言った。その瞳は潤んでいるように見えた。

「うん」

 今度は素直に頷けた。二時間前の自分は、どうして八つ当たりなんかしたんだろう。比紗が自分以外の異性のことを考えるのが、怖かったのだろう。

 たぶん、自分に自信がないのだ。自分が比紗に釣り合わないのではないか、と心配なのだ。そんなことを思っていると、あのシャンプーの匂いとともに、柔らかいものが唇に触れた。

 比紗がキスをしてきたのだった。一旦、唇を離した後、今度は僕の方から顔を近づけた。比紗は体を委ねる。その重みが、僕の中の確かな自信になった。



 それから季節が二回りする頃に、僕は大学を卒業し、その翌年には比紗も卒業した。僕はアルバイトをしていたBlakeで、そのまま働くことになった。

 ゆくゆくは、両親の店のseasideを継ぎたいという思いがあった。とはいえ、僕は調理師の免許を持っている訳ではない。海斗が調理師免許を取得できる学校に通っていたから、海斗に料理は任せて、僕は経営の方に携わるつもりでいた。

 海斗も同じことを考えていたようで、学生の頃からseasideを手伝うようになっていた。

 僕はBlakeで、飲食店経営のいろはを教えてもらった。立平さんは自分で、一から店を開いたので、物件探しや開業資金に頭を悩ませたと話してくれたが、僕の場合は、ありがたいことにその心配がない。

 僕が初めに取り組んだのは、食品衛生責任者と防火管理者の資格を取得だった。養成講習会を受講し、修了試験を無事パスした。

 久しぶりに、あんなに必死に勉強した。

 そして、週末には定期的に地元に帰り、父の代からの協力店に挨拶に出向いたり、既存店舗の確認や人の流れの把握……といったマーケット調査のようなことを、海斗と地道に行った。


 父がseasideを経営していた頃より、観光客は減少している。そこで、地元の人にリピーターになってもらえるような定番メニューや一品メニューを増やすことにした。

 海斗が料理の試作に勤しむ間、僕は父から店を引き継ぐに当たっての税金の確認や開業届の提出などの雑務を請け負った。

 ありがたいことに店舗に関する、未払金や負債はなく、安心して海斗と二人で、店を始めることができそうだった。

 海斗は卒業して数年は、父とseasideを切り盛りし、去年から本格的に、seasideをほぼ任される形になった。


 実家が見えてきた。

 今日は海斗が料理を振る舞う。海斗の料理は、見た目にも食欲をそそるものがある。それは、才能だと思う。地中海サラダとシーフードピラフが、今のseasideの人気メニューだ。

 魚介類を使った料理をメインにすることは、父からそのまま引き継いだ。

「シーフードピラフ食べたいな」

 比紗が言う。こんな風に家族にも、人気なのだった。

きっと今日の食事会は、賑やかで楽しい時間になるだろう。

 それは僕達家族の、新しい思い出の一つになる。

読んでいただきありがとうございました。

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