瓶の水
家の入口で中を覗いてみるが、やはり家の中に人の姿は見当たらないようであった。
築年数のかなり経った家らしくタイヨウが何気なく手を添えた入り口内部の壁は、ポロポロと土壁の砂が落ちた。
不思議なことに入り口にドアがないため風の滞留はないはずにもかかわらず、ムッとした生暖かい停滞した空気と形容のできない臭気がタイヨウの鼻をツンと突いた。
その嗅覚と触覚を不快に刺激されたせいで、タイヨウの背筋はブルッと震え思わずしかめっ面になる。
長屋のような構造の家は入り口から土間が広がっており、正面奥にはかまどが見られその隣には火を焚べる用の薪が無造作に積まれてある。
薪の隣には水の入った瓶が置いてあった。
入り口正面左手には一段高い段差があり、そこを堺に居間となっていた。
月明かりの届かない居間の奥をタイヨウの立っている位置からは見ることができない。
月明かりの届く居間の前方部分には囲炉裏があることが分かった。
仮に住人がいた居間に場合、タイヨウが出入り口に立ったことで月明かりは遮られ、異変に直ぐにに気付くこととなるだろう。
タイヨウは万が一襲ってこられてもいいように、杖代わりの枝をいつでも振れるように体を硬くして身構えていた。
しばらくの間異変が生じないか待ってみる。
シーンと何物も動く気配を見せず時間が過ぎる。
「…………」
こめかみから汗が一筋流れ落ちる。
心音と呼吸がやけに煩く響く。
脳を揺らしているような錯覚を覚える。
たった数秒の沈黙はまるで、耳に痛みを伴うかのような、そんな緊張をタイヨウに強いた。
タイヨウは恐る恐る忍び足で居間へと向かう。
右足を引きずるズリズリっと引きずる音がやけに響いて聞こえ、冷や汗が出る。
タイヨウは居間に腰を下ろしひねるようにして上半身だけ居間の奥へと目を向けた。
そこにはやはり月の光の届かない暗闇が広がっているばかりで相変わらず視界は悪かった。
一つだけ分かったころは、ここの住人がどこかへ出掛けているのは確かなようだった。
(とりあえず安心してもいいのかな?・・・でもいつ帰ってくるかも分からない。今の内に体を休めたいけど、寝てる間に家主が帰ってこないかな・・・・)
(他の家の様子も見に行った方が良い・・・よな?ひょっとしたら・・・寝ている村人がいるかもしれないし・・・助けてくれるかもしれない)
長いこと山の中で緊張を強いられていたため、腰を下ろすと体が疲れ果て重いことに改めて気付かされる。
考えなければいけないことは山積みなはずなのに、頭はこれ以上働いてくれそうにもない。
それどころか疲労から再び腰を浮かすこともできそうにない。
(ここで生き残るためには知恵を絞れ!!そうじゃないと……)
必死に自身の置かれている状況を思い出し追い込むも、体と気持ちがその先を考えることを拒否する。
「…………」
思考の海の中で漂っていたため、前方を向いていたにもかからわずタイヨウの焦点は、どこにも合っていなかった。
しかし、その焦点が一つの物体に薄っすらと輪郭を捉え始めると、みるみる鮮明に映る。
それは水の入った瓶だった。
タイヨウのいる場所からでも、なみなみと注がれた瓶の水は僅かな月明かりを反射して輝いていることがうかがえる。
その欲望を満たすモノを意識した瞬間、反射のようにゴクリと太陽の喉が音を立てて鳴る。
あれだけ重く感じた上体を上げズリズリと腰を90度に曲げて、まるで機能しない下半身を無視するかのように、瓶のもとまで不細工に移動する。
調理場であるかまどの隣にある以上、飲水だろうと思われる。
側にはそれを裏付けるように柄杓も置いてある。
「さぁ、思う存分お飲みなさい」
誰かの意志からそう告げられているようにすらタイヨウには感じられた。
「……うぅ」
そのまま顔ごと瓶に突っ込み思う存分に飲んでしまいたい欲望を堪え、瓶の水を柄杓にすくって両手を洗ってみる。
「普通の水だよな。特に不純物がある訳でもなさそうだし。勝手に使って怒られたら謝ればいいよな」
まるで誰かに許しを請うように一人呟く。
血や泥にまみれ、所々擦り傷のある両手を綺麗に洗い流し、負傷した右足の洗浄もすることにした。
痛みを覚悟し慎重に水を垂らし泥や血の塊を流す。
「~~~っ!!?……あれ!!!」
不思議なことにさほど痛みは感じられなかった。
眠気と疲労で刺激に鈍くなっているのだろうか?
タイヨウには判断できなかった。
「これなら……飲んでも問題ないよな……」
再び誰かに確認するように呟く。
タイヨウはゆっくりと柄杓を顔に近づける。
極度の飢えのためか微かに甘そうな匂いすら水から感じられるようだ。
柄杓に唇をつけ水の冷たさが上唇に触れようとした。
その時――――
「う!!?」
チクリと左の小指に痛みが走る。
その刺激はは左の小指からタイヨウの頭まで一気に駆け巡った。
その衝撃にあわや柄杓を取りこぼしそうになる。
咄嗟に痛みのもとに目を向ける。
月の光から逃れるようにして影に身を潜ませたのは一匹の虫だった。
どうやらその虫に刺された痛みだったようだ。
ただ、何か紐のようなものを引きずっているようにタイヨウには見えた。
それは目の錯覚だったのだろうか?
不思議なことに虫を目で追っている間に、小指の痛みは消えており、水を飲みたいとも思わなくなっていた。
2019/9/3 一部加筆修正いたしました。
2019/11/21 大幅に加筆いたしました。