四幕: 居眠り真子さんはカラオケが気になっています
ちなみに、僕はヒトカラが大好きです。
青いはずの空は、砂埃で灰色に鈍く濁っていた。目や耳に、細かい砂つぶが入り込んで体をむずがゆくさせる。
ここは砂漠。寂寞とした乾いた土地。水一粒入り込む余地のないこの場所で、沖手真子は一人ポツンと立っていた。
世界で一番孤独になれる土地を挙げるとしたら、彼女はきっと即答で砂漠と答えるだろう。それだけに、砂漠は広大で、過酷で、空虚だった。
彼女は、重たい足を踏みしめ、どこへ向かうともなくただ歩いていた。
「太陽が……暑い」
彼女は、額に手を当て、上を見ながらつぶやく。太陽は直接見るにはあまりに眩しく、目をすこぶる痛めつけた。
「こんな場所に、オアシスなんて本当にあるのかしら」
歩けども、歩けども、景色の変わらぬその土地に、オアシスという言葉は似つかわしくなかった。真子は、諦めてその場に、うつ伏せで倒れこむ。
「私、もしかしてこのまま死ぬのかしら。それもいいのかもしれない。だって、何もなくったって、太陽が頭上でこんなに輝いているんだもの。それだけで私は幸せだわ」
その瞬間、空の上から授業終了を告げるチャイムの音が降ってきた。頭まで染み込んでくる高音が、彼女の脳みそに根っこから揺さぶりをかける……。
「……っは!」
真子は、勢いをつけて跳ね起きた。
見渡せばそこはなんということはない。平凡な人間たちが相も変わらずノートをガリガリと鉛筆で削っているだけだった。
なんという悪夢だっただろうか。真子は目をこすって深呼吸をした。もしかしたら、お昼にあんな話をしていたからかもしれない。私の心は太陽に奪われているのだろうか、と真子は思った。
先生が、手拍子を二回して、授業終わりの合図を送る。
真子は、ハッとして上を向いた。そこには、いつもの灰色の天井が広がっていた。
「やっぱり、太陽は見えない……よね」
彼女は残念そうに、しかし少しホッとしたように呟いた。
たった今終わった授業は、4時間目。ということは、今日は全ての授業が終わったことになる。小さく取り付けてあった窓から見える空は、既に赤色を帯びていた。
真子は開放感に包まれながら、軽い足取りで教室の後ろにあるロッカーへ近づき、ごそごそと小さいバッグを取り出した。
「真子さん! 帰りましょう!」甲高く、弾んだアクセントで喋るその声の主は、ルーシーだった。
「ルーシー、私のこと好きなの? こんなところまで入ってきて……」
「うん、好きですよ!」と、ルーシーは周りをはばからない、よく通る声で答えた。
教室にいた生徒の大勢が、中でも特に男子が、真子たちを一斉に見た。
「あなたね……、毎年何人からか告白されるレベルの女の子が、そんな言葉を大声で言えば、注目されるよ。しかも、嫌われ者の私に」
すると、ルーシーは、ムッとした表情で頬を膨らませた。
「いいんですっ! 本当に私は真子さんが好きなんです」と、ルーシーは真面目な顔をして言った。また、一息置いてから「それに、この真子さんが嫌われているだなんて、このクラスの人は本当見る目がありませんね〜!」と、大声で再び言った。
その瞬間、周りで見ていた男子が目を逸らした。慌てて帰る準備を始めだした。
「もう……」と、真子は不満そうに声を漏らした。しかし、その顔はまんざらでもなさそうな様子であった。真子は、ルーシーのキラキラとした満面の笑みを見て、少しだけ口角を緩めた。
「あなたが羨ましい。ルーシーは本当に自由でいいよね」と、真子は教室の扉を開けながら言った。
「え……」と、ルーシーは口を大きく開けて、その場に硬直した。
「ま、待ってください。まさか、真子さんに自由で羨ましいとか言われる日が来るとは思いませんでしたよ。教室で自由奔放を極めてる真子さんにまさかそんな、え……?」
「く……、早く行くよ」
そう言って、真子はさっさと廊下を歩きはじめた。ルーシーは、「待ってくださいよ〜」と後を急いで追いかけた。
コンクリートに固められた壁に申し訳程度に備わっている小さな窓から、沈みかけた薄赤い太陽の光が差し込んでいた。太陽の光がこの校舎に差し込むのは、日の出と日の入りの二回限りである。
特に、春先の季節では、ちょうど授業が終わった頃に夕日が子供たちの元に届く。生徒たちは、求めるように日の光を浴び、一日の終わりを祝福するのだ。
瘴気が満たされるこの日本で、子供たちは原則的に外出を許されてはいなかった。生徒たちは生を受けてからこの学校に預けられ、親元を離れて学生宿舎で生活する。
そのため、学校の中にはコンビニエンスストアやスーパーといった生活必需品を売る施設から、ボーリングやカラオケなどの娯楽施設も充実していた。
もっとも、早く大人になりたいとこいねがう生徒たちが娯楽施設に入り浸るということはなかったが、日々の勉強によるストレスを解消するために利用する生徒も少なくなかった。
「ほんと、どいつもこいつもバカだよね」
と、突然真子が言った。二人はまっすぐ学生宿舎に向かっていた。真子は、学校内の施設の大抵のものには興味がなく、また興味のある人間に対して冷ややかだった。
「あぁ、さっき楽しそうにカラオケの約束をしてた人の会話を聞いたんですね?」と、ルーシーは真子の顔色をうかがいながら言った。
「そうそう。なんで人は、あんな密室に行きたがるのかしら。私なら怖くって近づけないね」
「とか言って、実は真子さん、カラオケに行ってみたいとかそんなんじゃないんですかぁ?」と、ルーシーはからかった口調で言った。真子は、眉間にしわを寄せてルーシーを睨む。
「実は、行ったことはあるんだよね」
「え!?」真子の突然のカミングアウトに、ルーシーは目を見開いて驚いた。
「食わず嫌いは私の信条に反するの。だから、行ってみたんだよ、カラオケ。何が楽しいのが全然わかんなかったけど」と、真子は顎に手を当てて考え始めた。ルーシーは、「ほほぅ」と少し興味ありげな顔をして話を聞く準備をした。また変な癖が始まったと思ったのだ。
「まずは、実践した。数曲手当たり次第に入れて、流れてくるメロディに合わせて歌ってみた。だけど、マイクを通して、スピーカーから自分の声が聞こえてくるだけで、全然反応がないんだよね」
「真子さん、どんな曲を歌うんですか?」と、ルーシーは話の流れを遮って質問した。彼女は、真子から、自分の好きな曲を聞いたことがなかったのである。
「え? 色々だよ……」と、真子は後ろ髪をくるくると触りながら、曖昧に答えた。彼女の目線は、ルーシーとは反対の方向を向いている。
「え、教えてくださいよ~」
「さ、最近の流行曲……」真子は依然として後ろ髪を指に絡めてもじもじしている。
「真子さんが歌いそうな流行曲っていうと、そうですね、サイケデリックの『踊りまクール』とか?」
「あなたのその、私に対する印象っていったい何!? 確かにあの曲はコンセプトも面白いし聞いていて楽しいけど、わざわざカラオケに行って歌うような感じじゃないよ!」と、真子は必死になって否定した。ルーシーは、そんな真子の様子がおもしろいと言った様子で「うしし」と笑っていた。
「じゃあ、何を歌うんです?」と、ルーシーがニヤニヤしながら聞いた。真子さんをもっと知る、大チャンスである。
「東野花の、『取扱説明書』……とか?」
ルーシーは、再び固まった。「取扱説明書」は女性の扱い方が分からない男性が増えてきている昨今で、女性が男性に直接言いづらい要望をストレートに歌詞にのせて歌いあげたヒットナンバーである。
男性、もとい人間に興味がないと思っていた真子が、そんな歌を聞いてるなんて意外だとルーシーは驚いたのだ。
真子は、やはり自分の長い茶髪を手で梳いたり、くるくると遊ばせたりしてもじもじしている。
「はっ、恥ずかしいことじゃないですよ、真子さん!」と、ルーシーは励ますように言った。「誰でも、その、そういう気持ちはありますって!」
「何を誤解しているのかしら、ルーシー」と、真子は急に真面目な顔になって言った。「あの曲はとても素晴らしいよ。自分を物に見立てて、その扱い方をマニュアル化して相手に伝えるなんて普通出来ることじゃない。
かの哲学者、弟子のアリストテレスは否定していたけれど、実際プラトンは友愛を有用性の観点から分析しようとしていた。確かに、友人は有用性ばかりで片付く問題じゃないけど、私は、部分的には正しいと思う」
「ま、真子さん、何を……」と、ルーシーは真子の迫力に圧倒されていた。
「人間って少なからず、『この人は自分にとって役立ちそうだ』って考えるところがあると思うんだよね。この学校の先生みたいに。相手を物みたいに扱いたいって気持ちがある。
でも、大抵の人はそれを恥ずかしがって隠そうとするんだよね。人は一方で、自分を人として見て欲しいって気持ちがあるから。相手を物のように扱うのを恥じるってわけ」
真子の視線は既に斜め上を向いていた。ルーシーは、独り言が始まったと思った。真子がいつどこでこの独り言モードが始めるかは、何年も行動を共にしているルーシーでも、未だに予想がつかないでいる。
こうなれば誰にも止められないので、ただルーシーは聞き役に徹していた。
「なのに、東野花は、その気持ちに素直になって、敢えて自分を物のように提示して相手に突きつける。
それを聞いた人たちが、どう思うかはきっと多種多様だけど、私は人間の実存的な在り方を根幹から覆すような不気味さを備えていたと思った。だから、私はあの曲が好きなの」
「へ、へぇ~」と、ルーシーは答えた。その曲をそんな風に聞くのはきっと真子さんだけだよ……と、心の中で思っていた。「で、えと、その実存的な在り方を覆す曲……を一人で歌っていたんですか?」
「そ、そうだよ」と、真子が再びもじもじし始めた。この人は一体何を恥ずかしがっているのだろうと、ルーシーは思った。曲の内容をあんなに饒舌に話したのに、今更何を恥じらうのか。
「採点とかも付けてみたんだよね。90点だった。なんか、音程やリズムはしっかりとれているとかって褒めてくれたんだけど、表現力がないとかなんとかってめちゃめちゃに貶されたの。失礼だよね、あれ。大体、人の歌を採点ってどういう了見で……」
ルーシーは心の中で、確かに……と納得していた。真子は普段話していても、声のトーンが単調なのか、それとも抑揚がないのか、他人に真意を読み取られにくい喋り方をしていた。
だから、ルーシーは彼女と話しているときをほかの人に見られたとき、「あの人と喋ってて楽しいの?」なんて質問をよくされることがあった。
「でね、ちっとも楽しくなかったから、カラオケについて調べたんだよ。みんな、どうやって楽しんでいるかってね」
「調べたんですか……流石ですね……」
「そうしたら、圧倒的に複数人で楽しむらしい人が多いってことが書かれてた。なんでも、自分だけじゃ知り得ないような曲を紹介しあえるとか、ほかの人の歌を聞くことで人間関係の距離を縮められるとか。
こいつら、それしか能がないのだろうかって正直思ったんだけど、確かに、好きな曲を歌って紹介するのはカラオケならではだよね」
真子は再び、顎に手を当てて喋り始めた。今日はよく出てくるなぁ! 鬱憤でも溜まっているのだろうか、とルーシーは思った。
「複数人でカラオケとか、正直私は詰んでたから、一人でカラオケを楽しむ方法を調べたんだけど」
「待ってください!」と、ルーシーは話を中断した。ルーシーは頻りに自分を指さしている。「私! 私を誘ってくださいよ! 詰んでるって何ですか! 私だってカラオケに行きますよぉ!」
「そ、そうかしら」と、やはりもじもじして真子は言った。「る、ルーシーはそういうの嫌いだと思っていたんだけど」
「なんで」と、ルーシーは驚いて言った。「なんでですかっ! 私、いかにもカラオケキャラじゃないですか! こんなにおちゃらけてるんですよ? ぴょんぴょんと飛んじゃうんですよ? どー考えても、カラオケ好きそうじゃないですか!」
「た、確かに……」と、真子は頷いた。真子は本当はそうなんじゃないかと気が付いていた。カラオケについて調べれば調べるほど、これはルーシーと行けば絶対に楽しくなるだろうという思いが募っていたのだ。
お互いタイプも違えば、好みも違う。その上私たちは結構仲良しである。たとえ密室で暗い部屋であっても彼女と一緒なら怖くない。
真子は、頭の中ではそれをほとんど確信していたのだ。ルーシーに、自分の好きな曲を、歌って教えてあげたらどんなに楽しいのだろう。そう思っていた。
「じゃ、じゃあ、あの……ほら、ね?」と、真子は頭をくしゃくしゃと書いた。長くきれいにまとまったロングヘア―がバサバサと弾む。
「ほら、じゃ分かりませんよ~」と、ルーシーはわざと意地悪く言った。その顔はニヤついていた。「じゃあ、なんですか?」
「もう……。か、カラオケ……、一緒に行きませんか?」と、消え入りそうな声で真子は答えた。ルーシーは、その答えに満足した様子で、「はい! 今から行きましょう!」と言って真子の右手首を掴んだ。
「ま、待って、心の準備が……」と、真子は不安そうな顔をした。しかし、ルーシーは笑顔になって答える。
「準備なんていりませんよ~、ささ、早く。宿舎の門限の時間が来ちゃいます。今日は、真子さんも疲れているみたいですし、パーッと楽しんじゃいましょう!」そう言って、ルーシーは真子の手首を引っ張ってカラオケのある方角へ歩き始めた。
手を引かれながら真子は思い出していた。一人でカラオケを楽しむ方法を。
「人目を気にせず、一人で好きな曲を歌える……か。私には不要みたいね。だって私には、こんなに強引な友達がいるんだから」
と、真子は小さく呟いた。ルーシーは、嬉しそうに「取扱説明書」を口ずさんでいた。