三幕: 居眠り真子さんはカレーおでんを食べます
カレーおでんを受け取った真子とルーシーは、若葉と山田を呼んで、テーブルを囲んで座った。
テーブルは、木でできた古いタイプのもので、手を置いて少し力を入れるとガタガタとして落ち着かないものだった。
真子はそうっとおでんの容器を置いたが、ルーシーが構わず乱暴に置いたので、二人のおでんの汁は少しこぼれてしまった。
女だらけの空気に、山田のおどおどはさらに増して、うつむきながら指をいじっていた。
「うええ、汁気が多くて、カレーが全然美味しくない……」と、真子は舌を出して言った。「誰だ、こんな料理を発明してしまったのは。そして、それを容認したのはいったいどんな人なのか」
「ええ〜、真子さん、美味しいですよ! カレーのピリピリ感が、舌をぽちぽちとしてきて美味しいです〜!」とルーシーはおでんをもっちゃもっちゃと食べながら言った。
「あなたの舌、どうなってんの……。絶対味蕾がいかれてる」
「えっ! 私の未来は真子さんのおかげで安泰です!」と、ルーシーは無邪気に笑った。真子は、カレーを口の周りにつけたルーシーを見て、やれやれと言った表情をした。
二人のやりとりを、若葉はニコニコと見ていた。若葉は、二人と出会ってからもずっと笑顔を絶やさなかった。
手を膝に置き、背筋の伸びた彼女のその佇まいから、相変わらず上品が漏れ出ている。
「そ、それで……」と、山田はもじもじしながら真子に言った。「もう一つの世界って……」
「あぁ、途中だったね」と、真子は、山田の方を向いて言った。「例えばさ、たける、だっけ。君はさ、自分がしたいことがあって、それがもしも大変な道のりで失敗することがあるとするでしょ?」
「うーんと……」山田は、後頭部をぽりぽりと搔いた。
「簡単に言えば、自分が勉強したいことがあって、それをするにはあるゼミに加入しなければならない。しかし、そのゼミの倍率はなんと3倍!」と、真子は3本の指を立てて山田の前に示した。他の三人は、うんうんと頷きながら聞いている。
「そのとき、君のゼミの加入はある種の挑戦となるわけだ。そして、君がくよくよしているとき、君の後ろ盾になっている友達や先生、後はいないと思うけど、恋人とか? そんな人たちが、きっと『勇気を出せ!』なんて言って励ますかもしれない」
「う、うん。励ましはありがたいよ」と、山田は依然として下を向いていた。
「そうなんだ。何か自分の身の丈に合わないこと、失敗の可能性が考えられるような目標には、『勇気』が必要になる。それを君の友達や、君自身が知っているからそのアドバイスは有効になる。そうだね?」と、真子はコツコツと机を叩き、山田の視線を自分の方へ促す。「こっちを向いて聞きなさい」
「あ、ご、ごめんなさい。う、うん。そうだと思う」と、山田はおずおずと真子の方を見た。その瞬間、三人の女の子全員がこちらを向いていたことに気がつき、彼はさらに赤面した。
「ねぇ、じゃあ、聞くけど……」と、真子は言葉をためている。そして、目を見開いて聞いた。「『勇気』って何?」
「え?」
「君は、知っていると言ったよね。勇気って何?」
「え……」と、山田は沈黙してしまう。彼の額に一筋の汗が流れた。若葉はそれを見逃さなかった。すかさず、ハンカチを取り出して、彼の頬を拭いた。山田は、更に緊張した。
「この質問に答えられないんじゃあ、例えば君が『勇気を出せ!』ってアドバイスされても、なんの役にも立たないんじゃないの?」と、真子は意地悪にも追撃する。真子は、少しため息をついて、若葉の方を見て言った。「若葉さんはどう思う?」
「勇気とは……、多分自分がそれをできると思ってもう一歩踏み出す力、とかそんな気がします」と、若葉はニコニコと笑いながら言った。真子は、この笑顔が少々気に入らなかったようで、少し足を揺すった。
「じゃあね、例えば、向こう岸に宝があって、そこにはロープ一本しかかかっていないとする。下は深い谷で、落ちたら死ぬ。このとき、ロープを使って渡ろうとするのは、若葉さんの今の定義だと、勇気になると思う。でもこの場合は……」
「『無謀』……ですね」と、若葉が真子の言葉を遮って言った。
「じゃあですよ、真子さん。真子さんが言いたいのは、よーするに、『勇気』ってなんのことかわからないのに、みんなその言葉をてきとーに使ってる、とかそんな感じですかっ!」と、ルーシーは、したり顔で手を上げながら言った。
「当たらずも遠からず、ってところね。つまり、『勇気』という言葉は、大事な状況で使われるアドバイスであるにもかかわらず、誰もその定義をしっかりと答えられないんじゃないか、ということなの。実は人間は大概のことを知らないくせに、それすら知らないってわけ」
「なるほど……。『勇気』を知っているつもりになっていたけど、本当は知らなかったってわけですね」と、若葉は少し真剣な顔をして言った。
横で聞いていた山田は、やっと合点がいったようで、大きく頷いた。
そうか、沖手さんがさっき先生に「役立つ人間になれ」と言われたときに、「役立つとは何か」という質問を返して先生を困らせたのは、知らないってことを自覚させようとしたってわけか。
「逆に言えば、自分が知らないってことを知る、ということが肝心だってわけ。これは、古代ギリシアの哲学者、ソクラテスの考えなの。後世の人はこれを、『無知の知』と呼んでいる」
「あ、それは倫理の授業で習いました。無知の知とは、そういう意味だったんですね。それこそ知った気でいました……ふふ」と、若葉は再びニコニコと笑い始めた。
「で、でも、そ、そうしたら、ちゃ、ちゃんと……うぅ」と、山田は何かを言いかけた。
「ん? どうしたの?」と真子は山田を睨む。
「あ、あわわ、ご、ごめんなさい」と、山田は言った。「あ、あの、その、ちゃんとした説明がで、できる言葉って、あ、あるのかなぁ、とかなんとか……」
「たけるくん、良いところに気がついたじゃん! そうだよ。実は、深く掘っていけば、人間って実は正確に、それ以外の定義を排除するやり方でその言葉を言い表す、ってことができないことに気がついちゃったの」と、真子はバシバシと山田の肩を叩いた。山田は褒められて、口角を少しだけ緩めた。
「例えば、テーブルって何? って聞いたとき、こんなにガタンガタンとして、おでんの汁を簡単にこぼしてしまうようなものがテーブルかと聞かれたら、微妙なところだよね。かと言って、テーブルじゃないと言っても、それは違うんじゃないかってなる」
再び、三人は「うんうん」と頷いて、真子の話を聞いている。
「それを全てに当てはめると、実は『〇〇とは何か』という質問には、十全に応えることがほぼ不可能であることが分かる。そらそうよ。人間なんて、言葉をテキトーに使う種族なんだから!」と、真子は両手を伸ばし、手のひらを上に広げた。
ルーシーは、パチパチと拍手をした。山田は、よく分からないと言った顔をしている。
「じゃあ、どうしてこんなことが起こるのか。それは、ソクラテスの弟子を名乗っていたプラトンが考えた。それは、人間の考えていることの全ては、『影』に過ぎないからなのだよ」
「影に過ぎない……かっこいいです!」と、ルーシーは目を輝かせた。
「と、いいますと?」と、若葉は目を見開いて聞いた。真面目な話から、突然“影に過ぎない”といった詩的表現を少しばかり受け入れられなかった様子である。
「私たちは常に、影を見て会話をしている。さっき『勇気』って単語を使って話をしていたとき、なんとなく会話は成立している感じがするような気がしたでしょ。それは、私たちが、本当はモヤモヤしているものを、本物だと信じて生活しているからなんだよね」
「確かにそうですね! 普段は、『勇気とは何か』なんて聞かなくっても、勇気って言葉があると信じて『勇気を出せ!』ってアドバイスしたりしてますっ!」
「そうよ、さすがルーシーだわ。でも、プラトンによれば、やっぱり影に過ぎないんだよね。だって、掘り下げたらどの言葉も良くわかんないんだから。でも、影ってことは……」
「何かを照らす……光が必要ってわけですね」と、若葉は普段よりも低い声で言った。山田は、あまり話についていけていないようだが、若葉が喋るごとに大きく頷いている。
この男……と、真子は心の中で思った。
「そう。プラトンはそれに気がついた。そこには照らす何か光が必要なのではないかと。それが」
「太陽……」と、ルーシーは呟いた。ルーシーは、さっき見た、渡り廊下のオレンジ色で丸く塗りつぶした絵を思い出していた。
彼女は、あの絵を見たとき、言いようのない不快感に襲われていたのだった。
もしかしたら、この不快感は、お前は何も知らないんだぞと言われたような、そんな気持ちから来たのかもしれない。
ルーシーは一人で納得していた。
「そう。太陽よ。そして、プラトンはそれを『イデア』だと言ったの。イデアっていうのは、私たちが何かについて考えているとき、その何かの真のイメージのことを言うの。私たちは、その真のイメージを借りてきて会話をしている。だから、人間の会話はいつも不完全なのよ」
「え、その話が、も、もう一つの世界と何か関係があるの……?」と山田は、ようやく口を開いた。
「つまり、私たちの不完全な世界とは他に、完全な世界があるという二元論的立場をとったのがプラトンというわけね。私がさっき調べていたのは、その、完全な世界についてのこと。プラトンのいう、イデア論的世界が本当にあるのかしらって考えてたら眠く……って、そろそろ授業みたいね。午後もゆっくり寝られそうだ……」
「あっ、真子さん、カレーおでん残してます! 大根……食べていいですかあ?」と、ルーシーはよだれを垂らしながら言った。真子にOKを貰うと、すかさずばくばくと食べた。
四人は、テーブルを拭いて、食器を元に戻した後、渡り廊下を通った。
ルーシーは、一際存在感を放っていたそのオレンジ色の絵を再びみた。しかし、1回目にみたような不快感は既に消えていた。
お前は何も知らないと言われようと、知らないのは当たり前なのだ。それを真子さんが教えてくれた。
彼女についていけば、色んな知識が身につく。そうすれば私は……。
「何してるの? 置いてくよ。授業が始まっちゃう」と、真子は立ち止まって言った。
「えっ! それを真子さんがいいますか! 授業全て寝ているくせに!」
「私は1分たりとも、睡眠時間を無駄にしたくないの。さ、いくよ」と、真子はすたすたと歩き始めた。ルーシーは、バタバタと後を追いかけた。
そんな二人の後ろ姿を見ていた山田は、心の中でがっかりしていた。
真子の言う“もう一つの世界”は、自分の故郷である世界と無関係だったからだ。
長々と話を聞いていて損をした、と考えていた。
「たけるさん、どうでしたか? 彼女の話は」と、横を歩いていた若葉が聞いた。
「うん……、なんだか少しおもしろそうな話だったね」
「ふふ、そうですね。私の言った通りだったでしょう。多分彼女はあまり気にしないほうがいいかもしれませんよ」と、若葉はニコニコと笑っていた。
「確かに……そうだね」と、山田は納得した。
山田は、今はこの世界について知りたかった。知らないことをもうこれ以上増やしたくなかった。
成績優秀で、学年で一番頭がいいと皆が噂している、この若葉栞は、本当になんでも知っていた。僕が聞けば、全てを答えてくれた。
そんな彼女が知らなかった異世界の話を、反骨精神で授業を寝て過ごすような人間がそもそも知っているわけはなかったのだ。
山田は、そういうわけで、沖手真子に対する興味を失っていた。
「しばらく……この世界で、頑張って……暮らしてみます」と山田は言った。若葉は慈しむような声で、「なんでも頼ってください」と返事をした。
若葉は相変わらずニコニコと笑っていた。
沖手真子は、席に着くと、授業が始まるまでの少しの間、先程から読んでいたプラトンの『国家』のページをパラパラとめくっていた。
そこには、洞窟の比喩が記述されていたページがあった。
「洞窟から抜け、太陽を認識し、洞窟の中で真実だと思っていたものは全て影に過ぎないと悟った人は、次第に洞窟の中の人間を哀れむようになる。
彼は急いで洞窟に戻って、その人たちに全ては影に過ぎないと説明した。しかし、皆はそれを信じようともしないどころか、影をうまく認識できないその人を嘲笑し始める。
やがて、洞窟の中の人間たちはその人を危険視して殺してしまうだろう……」
沖手真子は本を閉じ、机に寝そべった。意識があったしばらくの間、先程食堂で交わした会話を思い出していた。
「はぁ、人間ってのは、いつの時代も愚かなのね……」
そう小さく呟いて、彼女は眠りについた。
授業開始のチャイムが教室の中で鳴り響く。教卓にいた先生が、手拍子を二回して、喋り始めた。
生徒たちがまたもや、一斉にノートを広げ、メモを取り始める。
山田は、真子が寝ているのを横目で見て、ノートを広げ、文を一つだけ書いた。
「あら、“勉強を真面目にしよう”とノートに書いたんですか? いい心がけだと思います」と、机をくっつけて教科書を見せてくれている若葉が、山田のノートを覗き込んで囁いた。
ふわふわとした黒髪からほのかに香るシャンプーの匂いが、山田の鼻孔をくすぐった。
「う、うん。この世界のこと、たくさん知らなきゃね」と山田は言った。
しーんと静まる教室に、ぐー、ぐーといびきが響き渡る。
瘴気が日本中を覆うこの世界では、教室は全て壁とガラスで囲まれている。
灰色のコンクリートが、教室を囲み、それが少し重々しい空気を作り出していた。
午後一時を過ぎ、気温が最高になるにも関わらず、教室に日光が届くことはない。
生徒は、薄暗い蛍光灯に照らされながら、今日も、先生の授業を熱心に聞いている。
「ふふ、沖手さん。これで、山田くんは私のものですね」と、若葉は誰にも聞かれないよう声で呟いた。
山田は、先生の一言一句を全て書き留めるため、鉛筆を無心に滑らせていた。