序章: 居眠り真子さんは机の上で爆睡している
初投稿作品です。
私も、授業中、ずっと寝ているような生徒でした。
厳しく叱ってくれていた中学の先生に捧げます……。
「ええ! 異世界からきたの?!」
クラスは騒然としていた。転校生がやってきたのだ。しかし、彼は他の学校からやってきたのではなく、他の世界から来たと言うのだ。
異世界など本当にあるのだろうか。朝の突然の使者に、クラス中がどよめいている。何人かは、彼をチラチラと横目で見ていた。
外見は、平凡でどこにでもいる普通の青年だった。むしろ普通すぎる。黒髪のショートヘアーで、自信がなさそうで、両手を胸の前でこすりながらおどおどとしている。勝気な女が言った。
「異世界だ? そんなもんあるわけねーだろ! なんだ? また瘴気に当てられてたとかそんなオチだろ?」
「しょ、しょーきって何ですか?」と、おどおどとしながら彼は言う。
「かーっ! そう来たかね。お前が来たって言う異世界には、瘴気もないんですか。じゃあなんでこんなとこに来たんだよ」
「すみません……、僕にもわからないんです……」彼は、下を向いて俯いてしまう。泣いているのか、肩が震えている。
「はい、静かに! ほら、君も、早く自己紹介して」と、先生が言った。転校生は目を拭って、黒板に名前を書き始めた。
「山田たけるです。信じていただけないかもしれませんが、僕は本当に何も知らないんです……。よ、よければ、あの、この世界に早く馴染めるように頑張るので、仲良くしていただけると嬉しいです」と、転校生はお辞儀をした。
何人かのクラスメートが拍手をする。依然としてどよめきが続く。
「と、言うことだ。みんな、仲良くしてやってくれ。山田、あそこに席が空いているから、今日からそこに座れ」と、先生は窓側から二番目の、一番後ろの席を指差した。皆が一斉に、そちらに向く。
そのとき、その隣の席の女が視界に入った。彼女は、机の上に突っ伏して寝ていた。ぐっすりと。
山田は、席に座って自分の自己紹介中に寝ていた、その無礼な女をじっと見つめていた。
沖手真子は、起きなかった。
クラスがどんなに騒がしくても、目の前で起こったことがどんなに衝撃的でも、彼女はピクリとも動かなかった。寝ていたのである。机がまるで、彼女と唯一無二の友達と言わんばかりに、彼女は爆睡していた。
人間誰しも、周りがあれだけうるさければ目を開けて、辺りを見回すものである。しかし、真子は悠然と眠っていたのだ。
普通なら、体調が悪いことを心配して、誰かが声をかけるものだが、このクラスでは、誰も心配などしない。沖手真子が、ホームルームや授業で寝ていることは日常茶飯事だったからだ。
それはたとえ、教卓で転校生が異世界人を名乗ったとしても、同じだった。
彼女は、周りで手榴弾が爆発しても起きないだろう。
「さぁ、山田の紹介も終わったことだし、授業を始めるぞ」と、先生が手を二回叩いた。生徒が一斉に静まり、ノートを出して授業に備えた。
これから授業を始めようと辺りを見回すと、やはり真子は微動だにしない。先生は叫んだ。
「おい、沖手! 沖手!」
クラス中にくすくすと笑いが宙を漂った。これは決して、先生のダブルミーニングに笑ったわけではない。いや、呼ぶときにちょっと楽しんでいるところはあったが。
毎時間の恒例なのだった。起こしても全然起きない沖手真子を見る。この世の中で呑気に寝ていられる彼女があまりにバカに見えて、みんなが軽蔑して、嘲笑しているのだ。
山田たけるはそんな雰囲気を感じ取り、少し胸が痛んだ。
隣に座っているこの女の子どうしてこうも寝ているのか。みんなにこんなにバカにされて、何も思わないのか。
先生は、強く二回、半ば諦めて二回呼んだ後、再び手を二度叩いて授業を始めた。皆が一斉に鉛筆を取り始める。
山田も同様に、いや、いつもよりも何倍も熱心に、この世界での初めての授業を受けた。
「あー、みんなは既に知っているだろうが、今日は転校生もいるし、少し詳しくおさらいしよう。
この世界は、18年前の天変地異を境に、“瘴気”というものに汚染された。天変地異の具体的な内容は、18年経った今でも明らかではないが、東京近郊以外の都市で大爆発が起こって多くの人間が巻き込まれ、そのほとんどが死んでしまった。
こういうわけで、現在日本では、ここ、日本橋以外の都市機能は全て停止してしまった状態だ」
先生は、訥々と語った。山田はクラスを見渡すと、やはり生徒たちが無言で鉛筆を動かしている光景が見えた。
先生の話は、異世界から来た山田にとっては衝撃的だったらしく、状況を確認した後、ノートに大きく“天変地異”、“18”という文字を書き込んだ。そして、目をつぶり、拳を強く握り、今の自分の状況を憂うかのように震え出した。
「そして、“瘴気”とはなにか。実は、瘴気についても明らかになっていないことは多いのだが、分かっているのは、君たち子供があの、各地に充満している紫色の瘴気に当てられれば、神経伝達物質が狂わされ、頭がおかしくなるか、最悪の場合死に至るそうだ。
これは恐らく、子供の神経組織が未発達で、外部要因に影響されやすい状態にあるためだと考えられている。
一方で、私たち大人には、今のところ何の問題がないというのが、多くの学者の見解だ。だから、私たち大人が主体となって、現在関東圏を中心に現在復興活動を行っているというわけだ。
そういうわけで、君たち子供は残念ながら、今は学校の外部に出ることを許されていない。これは君たち子供を守るためなのだ。
だから、今は将来活躍できるように、しっかりと授業を受けて、知識を蓄えてもらいたい。そして、役立つ大人へと成長していくのだ」
と、先生は、両手を広げた。生徒は揃って、「はい!」と返事をした。
山田たけるは合点がいった。生徒のこの授業へのやる気はここにあったのだ。
子供は日々、瘴気への絶望感から、自身の無力感に苛まれている。それに対する大人の庇護が、子供の大人に対する依存につながっているのだ。
そして、その依存は、裏を返せば羨望へと昇華する。子供は、早く大人になりたくてうずうずしているのだ。だから、授業を熱心に受けるようになる。そうして、“役立つ大人”が、どんどん出来上がるわけだ。
じゃあ、だとしたら、この隣の子は……。この女の子はどうしてこんなにも授業を聞かないのだろうか。山田は、なおも机に突っ伏して寝ている沖手真子のことが気になって仕方がなかった。
「と、いうわけだ、山田。お前は今日からこの学校の寮で暮らしてもらう。まだまだ質問はたくさんあるだろうが、とりあえずはこれで納得してほしい」
「はい……」と、山田はおどおどと答えた。
「お前らも、山田をぜひサポートしてやってくれ。本当に異世界から来たのかどうかは、もしかしたら信用できないこともあるかもしれないが、私は彼は嘘をついていないと思っている。
だとすれば、この学校の生活にいろいろ支障をきたす部分が多くあるはずだ。そういうときに、君たちが色々教えてやってくれたらありがたい。いいね?」
「はい!」とクラス中の人間が大声で返事をした。一人を除いて。
沖手真子はその頃、草原のど真ん中に寝転んでいた。
手元にはすべすべと頬を赤く染めたりんごの山と、ボロくなって端が破れた本が何冊か積んであった。
「ふふ、今日も幸せだ。大好きなりんごと本に囲まれて、草原でひなたぼっこをする。こんなに素敵な生活が他にあるだろうか。いやない」
草原はどこまでも爽やかな緑が広がり、宝石の粒のような花々が彩りを与えていた。
そよ風が草木を揺らし、真子の長く、綺麗な茶髪を揺らした。真子は上体を起こし、辺りを眺めた。半分だけ開いた眠たげな目をキョロキョロと動かし、左目の下の泣きぼくろのあたりをぽりぽりと搔いた。
「あれ? 私、なんでここにいるんだっけ……」
彼女は立ち上がった。この広い草原では、17歳の女の子の平均よりも少し小さい真子の体躯はさらに小さく見え、自分がまるで点々と映える花の一部になったような気分になる。
しばらくぼーっと遠くを見つめた後、再び寝転んだ。
「うーん、どうでもいいか。とりあえずもう一眠りしよう……」と、そのとき、空から授業が終わるチャイムの音が聞こえてきた……。
「……っは! もう授業は終わりか! せっかく草原の真ん中で寝ようとしていたのに」
気がつけば、真子は教室の中にいた。皆が一斉に彼女の方を見た。彼女は、その視線に無関心を示すかのように、机の下の本をおもむろに広げ始めた。
「おい、沖手。お前、授業が終わった途端に起きるとはどういう了見だ」と、先生が一番奥にある沖手の席の方に、威圧しながらゆっくりと近づく。
「はぁあ」と彼女はあくびをした。「草原で寝られたら気持ちいいんだろうなぁ」
「はっ! お前は夢の中でも寝る夢を見ていたのか。本当に怠け者だな!」と、先生が大きな声で笑う。聞いていた生徒たちもつられて笑い始めた。
「お前なぁ、そんなんじゃ役に立つ大人になれないぞ!」
「はぁ」と、彼女は小さくため息をついた。「一体役に立つってなんだろう……。例えば、ここでしょーもない劣等生を怒鳴ってばかりで、ちっとも次の授業の準備をしに行こうとしない人が、なんの役に立っているというのか……」と、ぼそぼそと言った。
「貴様……。いつまでもそうやっていられると思うなよ」と先生は言った。怒り心頭である。
しかし、真子の心はすでに本の世界に奪われていた。大声をあげて怒っている先生に目もくれず、真子はひたすら古く黄ばんだ本のページをめくっている。
「ソクラテスさん……プラトンさん……役に立ってくれてどうもありがとう……!」
その目は、恍惚に満ちたようにギラギラしていた。心酔し、心の底から崇拝している人を目の前にしたような。
怒りながら去っていく先生に目もくれず、真子は一心に古き先人に教えを乞うていた。
山田は、そんな真子の姿に興味を覚えていた。あらゆる生徒が、瘴気に対する恐怖感から、先生を敬愛し、従順な姿勢を取る中で、どうして彼女はこうも反抗的なのか。
自分が異世界から来たと自己紹介をしても、先生が重要な授業を展開していても、彼女は一切起きなかった。
休み時間になって起き出したかと思えば、先生の揚げ足をとって、人の話も聞かずただ本のページをめくるのみ。
この彼女はどう考えてもクラスの中で異質だ。この、僕よりも。
山田は、異世界に対する並々ならぬ好奇心でそう結論した。そして、普段は人見知りを発揮して知らない女の子に声をかけるはずのない彼は、勇気を振り絞って話しかけたのである。
「ね、ねぇ」
「何?」と、沖手は、ページをめくる手を止めて、山田の方へ向いて、少々威圧的な態度で答えた。
「あ、ごめん……」
「ごめんて、あなた……。まだ何にも悪いことしてないでしょ……」
「あ、あはは、そ、そうだね」
「まったく。意味不明に謝るだけなら、邪魔しないでほしい。今、もう一つの世界について調べているところなんだから」
「え?! もう一つの世界?!」山田は“もう一つの世界”という言葉に身を乗り上げた。「あの、異世界のことを知っているの?!」
「うーん、知っているというかなんというか……というか、知り得るのかしら……」沖手は、曖昧に答えた。
「あの、ぼ、僕」と、山田が言いかけたとき、授業の始まるチャイムが鳴った。「急にこの世界に連れてこられて困っ……」
「待って」と、沖手は手のひらを前に突き出して山田の言葉を遮った。「おやすみのチャイムが鳴ったわ。その話はまた今度ね。おやすみ」と、沖手はそういうと手を前にだらんとして、額を机につけていびきをかきはじめた。
そのいびきがぐー、ぐーと鳴るたびに、くすくすと笑い声が聞こえはじめた。
パチン、パチンと手を叩く音が聞こえた。いつの間にか教室の前には、先生がいた。その音に、生徒は一斉にノートを出す。山田も、慌ててノートを広げた。
「一体なんなんだろう、この子……」と、山田は隣をちらりと見た。「だけど、この子が、僕の世界を知っているのかもしれない……。授業が終わったら、何としても聞き出さなきゃ」
「さ、今日は三角関数を始めるぞ」と、先生は黒板に丸を書きはじめた。「山田、隣のやつに教科書を見せてもらってくれ」
「あ、あの、先生……」と、山田は隣をちらりと見た。「その……」
「あぁ、沖手真子のことか」と、先生はため息交じりに言った。「そいつはいい。ほっとけ。おい、若葉、お前が見せてやれ」
「山田くん、こっちに机くっつけていいよ」と、若葉は言った。「ほら、こっち!」
「あ、ありがとう……」と山田は言って、机を右に移動させた。椅子に座ると、若葉は教科書を真ん中に置いて、今日の授業の部分を指で差した。山田は、頭を少し下げると、再び沖手の方をちらりと見た。
「まったく……、沖手と違って若葉は優秀だな」と、先生は後ろを向いて再び、丸を書き始めた。
そんな先生の小言や、授業の真剣な雰囲気と対照的に、真子は呑気な音を教室中に響かせていたのだった。