正直に生きるほど辛いものはない
時々変な夢を見る。
内容は自分でも想像できないような突飛なものばかりで。起きてからそれが夢だと知ると思わずほっとするのだった。そして気づく。疲れが睡眠で消化しきれていないことに。
午前六時起床。半に朝飯。七時に出発。
堪らなく辛い。
こうして文章に起こすのも面倒で仕方ない。疲れの取れきっていない足で、今日も担当作家の作業場に顔を出さねばならない。
俺は出版社に勤務している。
作家さんの原稿を受け取って、それを雑誌に載せるのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
作家のお世話。原稿の徴収。装丁。
休息が取れないことが何よりも辛い。
ゆっくりできる時間は夜をも侵食されてしまうことがある。それは作家の原稿が遅れた時であったり、編集に手間取ったりした時であったり様々だが、思うように時間内で仕事を完遂できないことがほとんどだった。
〆切まで何としても作家に原稿を作ってもらわねばならないため、付きっ切りで鼓舞する。作家も自分も疲労困憊になる。
そして徹夜後、作家から原稿を受け取り、走って出版社に帰還。編集。こちらの体力はゼロに近い。
しかし、それに何の愚痴も言わない同僚がいた。
「作家さんだって自分の原稿が遅れたら責任感じるでしょう。ほっときゃ良いのさ、あたしたちゃ」
そう言って味噌ラーメンを啜る橋部明日香は「はあ」とため息をついた。
こいつの頭の中は考えごとが山ほどありそうだった。この前は後輩が心配だと我が子のように悩む橋部を俺は「そんなこと考えたってどうにもならないぜ」と言うと、橋部は「そりゃそーだ」と返す。しかしそのあともさっきのことが聞こえていないのか、考え事を辞めない。
こいつの人生は考え事で埋め尽くされているに違いない。考えたところで仕方のないことなのに。
俺は何事も割り切ってことに臨む。疲れていても、原稿のためだと割り切って作家の応援に向かう。そんな日々を過ごしているのだ。もし、そこに変な考えごとが這入ってきたら。
「頭が変になる」
まさしく橋部は俺と正反対の人間なのだ。
「お前さ、ほんとどうでもいいこと考えるよな」
いつもの食堂。俺と橋部は今日も肩を並べて飯を食らう。
この頃、担当する作家がそれぞれ近場なのか、約束したわけでもないのに何故か昼時に一緒になっていた(食堂のおばちゃんからもついに「あんたたちよく来るねえ!」と言われる始末である)。
その度にまたこいつの溜息を聞かねばならんのかと苛々する。ただでさえこっちは担当の原稿が遅れているというのに、変なことで苛々を急き立てないでもらいたい。
俺はこいつの切羽詰まらないマイペースな顔に参っていた。
橋部にはどうでもいいことを考えるくせに身近なことは考えることを放棄する癖がある。例えば俺が頼んだものと同じものをいつも橋部は頼む。今日は橋部の苦手なゴーヤの入ったものをいたずらに注文してみたが、橋部は構わずそれを頼んだ。そこは考えないのかよ、と思った。
待つこと数秒、ようやく俺が聞いた質問に反応した。
「え?私?」
ゴーヤを箸でつつきながら考え事をしていた橋部は我に返ったようにこちらに顔を向けた。
「他に誰がいんだよ」
「私も疲れてるよ。主に精神が」
自分の頭を拳でぐりぐりさせ、自分が悩んでることを主張する。
「余計なこと考えすぎだ。なんだよ、集団がどうとか。後輩の恋愛事情とか。もっと仕事のことを考えろって言ってんだよ」
「あーはいはい。もう理解したから」
「してねえ、また変なこと考える顔をしてる」
苛々してもしょうがないことに自分も嵌められているのではないかと思わされる。
次からは時間をずらしてここに来ようと決めた。
「よし、それじゃあ新入社員を紹介する」
そう言って上司が連れて来た数人のピカピカ新入社員は緊張の面持ちで並んだ。
しかしその中で異彩を放っていたのが紛れもない、橋部である。
彼女は高校を卒業後、真っ先にこの編集部の道を選んだらしかった。
初対面時、作られたような彼女の笑顔は俺の心を揺さぶられることなく、はいはい、と言った感じだったと証言しておく。しかし、この中では一番歳下なはずなのにもかかわらず、新入社員のなかでは最も大人っぽい雰囲気を醸し出していたことは認められた。
笑顔という薄っぺらい仮面をつけた彼女は喋り出す。
「橋部明日香です。立派な作品を世に出して行きたいと願い、この編集部に入りました。よろしくお願います...」
立派な作品ね...。
俺はぽかんとしながらその自己紹介を眺めていた。
今から考えると「立派な作品を世に出したい」とよく言えたものである。
# # #
その日は雨だった。
担当の作家の原稿が予定より早く終わり、久々に夜がゆっくりできると思った俺はいつもより早い帰宅をした。こんな日は稀である。日々の疲れを癒すにはこの時間以外に何があるだろう。帰宅してからの休息タイムに心を躍らせていた。
「たっだいまーっと」
普段より三時間早い帰宅にまだ寝ていなかった弥尋は驚いた顔をした。
「あれ、今日は早いのか」
俺が帰宅したときには既に自室で寝ていたため、こうして面と会うのは随分久しぶりだった。
「担当の人が原稿を早く終わらせてくれたんだ」
「へえ」
弥尋はそっけなく返事する。俺の事情にはてんで興味がないらしい。食器を洗う音がリビングに響き渡った。
俺が着替えを済ませ、部屋に入る。向こうは食器を片付けるのに必死で全く喋ってこない。
弥尋のことを説明するのは難しい。強いて言うならばシェアハウスのルームメイトのような存在だ。今もこうして同じ屋根の下、見えざる敷居を隔てて暮らしている。
しかし俺と弥尋は正直ルームメイトと呼び合うほどの仲ではない。俺たちの間には見えざる敷居以前に、大きな壁があるのだ。
そのため編集者の同期が俺の家に遊びに行きたいと言った時俺は断るしかなかった。
「何だよー、つれないな」
同期はぶうぶう文句を言う。それもそうだ。俺だって他人に言われたらそう思うだろう。心象が悪くなるのはそれはそれで嫌なものである。
「家でさ、ペット飼ってるんだ。すっげえ人見知りで知らない人がいたら噛み付くかもしれないしさ」
嘘をついた。
弥尋をペット呼ばわりしたと本人に知られたら俺は間違いなく半殺しにされるだろう。
同期とはその嘘を駆使して折り合いをつけていた。
とにかく俺と弥尋の間には、とても冷たいものしかない。
こうして同棲していても一向にお互いコミュニケーションを取って仲を深めることもない。それはもちろん俺の帰りが遅かったり、家の中で過ごす時間が無いからであり、弥尋も部屋があれば充分満足だという雰囲気であったからだった。
食器を片付け終えた弥尋は風呂に入るとリビングを出て行った。俺も久々の休息タイムを大いに楽しもうと溜め込んだテレビ録画を見出した。
古畑任三郎を完全丸パクリしたかのような意気揚々な刑事が東奔西走する内容のサスペンスドラマを消化し、俺は徐々に眠くなっていく。
ぺしん。
眉間から鈍い音がして目覚めると目の前に弥尋がいて思わず驚いた。
「なんだ!?」
素っ頓狂な声をあげると、弥尋は音を立てずに笑い出した。何がそんなにおかしいのか。
「お前ほんと間抜けずらして寝るよな」
そう言った弥尋は「そんなとこで寝たら風邪引くぞ」と言葉を残して自室に去っていった。
俺はしばらく動けないでいる。
久しぶりに弥尋の笑った顔を見た気がした。
...何かあったのか?
# # #
「橋部」
「なーに」
「お前は俺と一緒に昼飯を食べたいのか」
「フィフティーフィフティー。メニュー考える必要なくなるし」
「そのどうでもいい考え事はメニューを考えることより大事なのか」
「んー、ほっとけないっていうか」
その日も俺は橋部と遭遇した。もはや日課とも思える。予知能力のような何かをこいつは持っているのだろうかと疑ってしまうほどだった。それとも俺の運が悪いのだろうか?
「そいやさ。最近ラジオ、聴き始めたんだよね」
「ラジオだ?」
橋部はいつも左耳につけているイヤホンを外す。
「好きな歌手がラジオ番組やるらしくて、スマホからでもラジオ聴けたなっと思ったら知らん間に聞いてた」
そりゃあいい。変な考え事してるよりはずっとましだ。
「うん。おかげで最近はぐっすり寝れる」
橋部が好きな歌手というのもどんなやつか気になったが敢えて聞かない。聞いたらまた謎のうんちくタイムが始まってなかなか終わらないのが先刻ご承知だからだ。
俺は早々と昼飯を平らげ、会計を頼む。
常連客との会話を邪魔されたおばちゃんは不愉快!と言わんばかりの顔で「650円ね」と言った。
「あっそうそう。ここのポイントカードがあるんだよ」「なぜこのタイミングで言ったんです?」
「まさかここまで来てくれるとは思わんでね」
最後の方は本当に感謝した顔で「また来てくれね」と俺に言った。
橋部と会うのは億劫だったが、こうも言われてしまうと来なければならないという変な使命感が出てくるのだ。
帰り際、橋部が俺の背中に一言浴びせた。
「あんま頑張んないでいきましょ」
俺は振り返らずに返す。
「お前は頑張らなさすぎだ」