ボイルド・トレイン
コトトン、コトトン、
ガタン、ガタッ、
揺れる風景に視線を置いて、貴女は何を思っていますか。眩暈がするような夏空の下、走る電車の中を行く。
【ボイルド・トレイン】
鮮明な記憶は、後悔ばかり増幅させる。
---「……もう、会えません」
一年前のあの日、彼女は確かにそう言った。震える両手で日傘の柄を握りしめ、でもどこか凛として、僕に真っ直ぐな視線を向けた。穏やかで、淑やかで、あまり力強く物事を言わない人が、まるで折れそうな刃で貫くように。
それまで見てきたのとは全く違う雰囲気に気圧されて、一言残しバスに乗り込む彼女を、引き止めることが出来なかった。バスの扉が閉まる音で我に返った時はもう遅く、ただ、炎天下で去りゆくバスを見送るほかなかった。
あつかった。くらくらした。まだ真夏を生きているようで。見上げた空の彼方には、小さな小さな薄雲があった。
茶奈さん、僕は、何か悪いことをしたのだろうか。それとも貴女が、何処か遠くへ行ってしまうのだろうか。二度とこの図書館に来ないであろうことは、容易に想像がついた。けれど、どうして急に。それに、僕はまだ……
***
菅野さんは、僕の四つ下の後輩だ。今年の新卒採用の職員としてこの図書館にやってきた。明るく人懐っこい彼女は、瞬く間に同期たちと仲良くなり、また先輩たちと交流も深めていった。物怖じしない性格なんだろうか、見習いたいものだと思いながら、何度か彼女と話した。夜はバイトをしているらしい。飲食店で、大量の食器を洗いさばいているという。
この図書館での僕の担当は、主に本の搬入交渉、在庫管理。カウンター担当ではないので、暇な時は図書館の周りの掃除などをしている。一方の菅野さんは二階カウンターを担当している。人当たりがとてもいい彼女だから、まさに適材適所だ。
「みんなで額寄せて、何してるんですか?」
彼女の周りには、いつも人が集まる。その日の昼休憩には、ファッション雑誌にあった相性占い特集で同期や先輩数人と盛り上がっていた。
「松山さんは何座ですか?」
「僕ですか? いて座です」
「わ、今月仕事運いいですよー! 相性がいいのは……しし座ですね。誰かしし座って……あ、相模館長って確かしし座でしたよね?」
「あはは、館長と相性良くても、それはそれでどうしたらいいのやらって感じですねぇ」
頭を掻きながら答えると、みんながどっと笑う。新卒であるにも関わらず、職場の空気作りに一役買っている菅野さんはすごいなと思った。
(……そう言えば、)
あの人は確か、四月生まれだと言っていた。おひつじ座かおうし座……そっと覗いて目で探してみると、ベスト3にもワースト3にも入っていない。接点すらないのかと思うと、ほんの少し胸が痛んだ。
***
思えば、あの頃にはもう、歯車が巻き戻せなくなっていたのかも知れない。
茶奈さんと近所のスーパーでばったり会った日、もう少し一緒に話していたくて、茶奈さんのことが知りたくて、帰路につこうとするその後ろ姿を引きとめた。
たくさん話した。ハーブティーの柔らかな香りが鼻腔を掠め、スコーンの甘さと溶け合う。居心地のいい空間。些細な仕草にも目を奪われてしまい、その度に俯く彼女に弁解して。
「院に進んだってことは……理系、なんですか?」
「あ、はい。生物系です」
「となると、実験とかも頻繁に?」
「そう、ですね……チームごとに、こう……微妙に違う条件で実験して、観察記録をつけたりします」
「うわぁ……何だか本格的ですね! 僕は日本文学ばかり勉強してて卒論も日記文学研究だったので、理系の人に話を聞くと、すごく新鮮に感じます」
「日記、というと……土佐日記とか、解釈の研究ですか?」
「解釈も少し含めたんですが……えっと、今の人って結構ブログやってるじゃないですか。だからその辺の傾向と照らし合わせてみたりしました。ま、卒業はさせて貰えましたが、大した論文じゃなかったですよ」
「そんな……素敵だと、思います。そうして……昔と今を、繋いでいくのって、とても」
笑えるネタになればと発した自虐を、彼女は丁寧な褒め言葉に直してくれた。瞬く間に広がる、温かい空気。
「す、すみませんっ。私、分かったようなこと言って……」
「いえ、嬉しいです。ありがとうございます」
心の底から楽しいと、感じられていたのに。
茶奈さん、何処に居るんですか? 大学院の一年生だと伺ったから、まだこの街にはいるんだろうけど。
自分の考えがどれだけ甘かったか、痛感した。会えないと言われても、あのスーパーでの偶然みたいなことが起きてくれるだろうと慢心して。その時には、また自然な会話をすることが出来るハズだと、信じていた。
***
木枯らしの吹き始めた頃のこと。商社さんとの電話が延びて遅くあがった僕を、菅野さんが待っていた。僕も彼女も、図書館前に留まるのとは違う系統のバスを使っている。少し距離のあるそのバス停まで並んで歩く、その途中でのことだった。
「私、松山さんが好き……です」
僕は、何て愚かなんだろう。今ここで、目の前にいる女性の好意を受け入れ、同じように返せたなら。こんな状況で、ようやく気がつくなんて。
隣に立つ彼女に、あの日の茶奈さんが重なった。真っ直ぐな、瞳。意を決した、眼差し。
「……ごめん」
その一言が菅野さんの心を切りつけてしまうと分かっていた。それでも口を開く。
「僕にも、好きな人がいるんだ」
もっと早く気付いて、あの日バスに乗ろうとする茶奈さんの手を、掴めば良かった。
「そう、ですか……ごめんなさい、私……えっと、忘れてください」
「僕も、ごめん」
「いえ……いいんです」
菅野さんが目元を指で擦って、笑う。
「好きな人、ってことは……彼女さんではないんですか?」
「はい……まだ、片思いです」
もう長らく会えていないんですけどね、そう続けると、とても強く想ってるんですね、と菅野さんは目を細めた。
「きっと、会えますよ。求めよ、さらば与えられん、です」
「聖書だ」
「はい」
クリスマスまでにはキリストが引き合わせてくれますよ、という菅野さんの言葉に、そう願ってます、と返した。
けれど、おとぎ話のような有り難いお恵みが訪れるわけがなかった。本格的な冬を迎え、街のイルミネーションを眺め、年越し蕎麦をすすり、花粉症に悩まされても、求めた再会は、与えられなかった。
まるで、最初から出会っていなかったかのような錯覚も抱いて。引き止めなかったことへの後悔だけが、積もりに積もっていく。
茶奈さん、僕は、貴女と話しているだけで幸せだった。あの頃の気持ちは全部、平凡な夢として片づけられてしまうんだろうか。少し口下手な貴女が、恐る恐る言葉を紡いでくれるその姿が好きだった。時々交える冗談に、控えめに笑うその表情が、好きだった。僕にとって貴女は、確かに大切な存在になっていた。
だから会いたいと願う。そして、キリストがもし、自分勝手な僕の願いを聞き入れてくれるのなら……
***
伝えなければ、あの日芽生えた気持ちを、膨らんでしまった想いを、ありのままに。そのためなら、もう、どれほど苦しくなっても構わない。
僕は菅野さんを傷つけた。どんなに振り切ろうとしても、曲げられず、諦められなかった結果だ。償えるとは思っていない。息を切らして走ったとして、僕が伝えたとして、それで誰かが喜ぶのか、悲しんだり苦しんだりするのか、何も分からない。
そうさ、ただの自己満足。図書館前のバス停で味わった後悔を、払拭したいがための。
久々の休日。実家に顔を出そうと思い、照りつける日差しを避けるようにホームの奥に立ち、電車を待っていた。どことなく気だるくて、向かいのホームをぼうっと見つめる。そして、息を飲んだ。
見間違えるハズがない、本を読むあの人の姿。その傍らに、少し大きな荷物。あの言葉から、一年が経とうとしていた。図書館では勿論、よく鉢合わせした近所のスーパーでも、二人で笑い合った喫茶店でも、その姿を見つけることは叶わなかったのに。
「茶奈さ――」
その時、向かいのホームに音楽とアナウンスが流れる。
『二番線に電車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください』
階段を上がり、連絡通路を全速力で駆け抜け、向かいのホームの階段を下る。電車が、出てしまう。頼む、頼むから、少しだけ待ってくれ。
プルルルル……
『ドアが閉まります。駆け込み乗車はおやめください』
ああ分かってる。分かってるから、あと二秒だけ……!
シューッ、と風船がしぼむように電車の扉が閉まった。その音を、肩で息をしながら扉の内側で聞いた。何年かぶりの全力疾走に足が震え、肺が軋む。きちんと声は出るだろうか。
電車の進行方向とは逆へと歩き出す。最後尾の一番後ろにある座席で、車窓をぼんやり眺める彼女を見つけた。
運命だって、思っていいかな。なんて、恋愛小説の読み過ぎのような感想を抱いて。
出会ったあの日も、こんな風に暑かった。僕はあの時も、ハンカチを落とした貴女を追いかけたな。
「……茶奈さん、」
落ち着かない息をそのままに呼びかけると、彼女はあの日と同じく肩を震わせ振り向き、そして、
「あ……ど、して……」
僕以上に掠れた声と、落っことしそうなほど丸くなった瞳に、思わず笑みが零れる。変わらない。
「偶然見つけて……思わず、声かけちゃいました」
「あ、あの、私っ……」
彼女は俯き、顔を両手で覆った。カタカタと震えながら、何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と零す。
思慮深い貴女のことだからきっと、あの別れを切り出すまでに色々なことを考えて、たくさんの葛藤を経たんだろう。そんな貴女が、どうして先に謝ってしまうのか、どんどん僕の立場がなくなってく。
隣に腰掛け、肩を引き寄せ、こらえきれずに抱きしめた。彼女の小刻みな震えが止まり、身体が強張ったのが分かった。
「僕の方こそ、ごめんなさい」
「え……?」
「会えないって言われたのに、僕は会いたくて仕方がなかった」
そっと腕をほどいて、彼女を見る。両目と同じく、ほんのりと紅潮する頬。
全力疾走の反動と、緊張とで、僕の体温は物凄く高くなっていたと思う。ええと、ハンカチは持っていたよな。
「それほど、茶奈さんのことが、好きなんです」
九月なのにまだ、こんなに暑いなんて。
そうだ、また今度、二人でお茶でもどうですか。
読破ありがとうございます、壱宮です。
今回のお話は先日「文学フリマ短編小説賞」のために書き直した「水底のバス」の一年後のお話となっています。データが見つかりました!(歓喜)
続編希望のコメントを複数いただいていたので、私も古いパソコンなどなど探し回りました……書き下ろす気力はなかったものですから…。やや少女漫画的ハッピーエンドに仕上がった感が否めませんが、フィクションだからと割り切って書いたものです。
もし現実なら「松山さんは茶奈さんに二度と会えないまま思い出は夢となって消えていく」に一票!(笑) でもこのお話でも敢えて茶奈さんの返事を書かなかったので、ハッピーエンドかどうかは謎のままですよ……なんてね。