思春期ホーム・プロブレムズ
「ミユキって、最近二組の椎堂くんとどうなってるの?」
――ついにきたか。
昼休み、ざわつく教室の中、私は友人の一言にため息をこらえた。
「シドウ? 誰それ?」
「知らない? バスケ部で、けっこう背が高い……」
「うーん……それだけじゃねえ。なに? そのシドウ君とやらと付き合ってるの?」
「まさか」
皆が私の方を見る。
私は首を横に振りながら、静かに冷えた卵焼きを口に入れ、頬張った。
私は甘い卵焼きが大好きなのだが、夏休みが明けてからの一月、卵焼きの味はずっとネギのみだ。
それは今日も変わらない。
味わっても飲み込んでも特に感慨などはなく、ただ胃に収める。
「でも、毎日一緒に帰ってるって聞いたよ?」
「いやいや、そんだけだよ。向こうも部活で帰る時間も結構かぶるからさ。たまたま同じ電車で、じゃあ一緒に帰るか、てなっただけ」
「あんたんとこ、東方面だっけ? あっちはあんまり人いないよねぇ」
「えー、でもさ、実際二人きりで帰ってんじゃん。なんもないとか嘘でしょ。それでも現役女子高生?」
「いや、あんたも現役女子高生でしょうが」
少しテンションを上げて突っ込むと、他の四人がわずかに声を出して笑う。
現役とか、おっさんくさーい、て、大して本物のおっさんを知りもしないのに言えるのは今だからこそだ。
「おっさんと言えばさ、聞いてよ、この間ね――」
そうこうしている内に、話題は全く別のものに移ったようで。
私は少しホッとしながら肩を落とし、ネギ味の卵焼きをまた口に含んだ。
焼いたゴムみたいなそれを、奥歯で磨り潰して唾液と一緒にどろどろにし、やはり私は何の感慨もなく飲み込む。
口の中にわずかに残るネギが、妙に気持ち悪かった。
私は口内を洗うようにしてお茶を飲んだ。
早く、授業も部活も終わって、いつもの、帰りの電車の時刻にならないだろうか。
家には帰りたくないけれど、最近の私はあの時間を糧みたいにして生活している。
あんな他人が住んでいる家、居心地いいはずがない。
学校だって、なんだか一枚半透明の膜を隔てたみたいに、遠く感じる。
それもこれもすべては、あの人のせい――。
けれどもそれを、私が友人たちに相談したことはない。
それは彼女たちが好きだとか嫌いだとか、信用しているとかいないとか、そういう問題じゃなくて。
話せば彼女たちは真剣に聞いてくれるだろう。
否定も説教もせず、全力で慰めてくれるだろう。
けれど、本当にしんどいことって口にすることさえ辛いものなのだと、私はここ数ヶ月で学んだ。
私の心がもう少し整理されていたら、今の事態も不幸自慢のごとく話せただろうけど……。
そんな「もしも」を考えて、私は弁当箱を閉じた。
ごちそうさまなんて、意地でも言うものか。
「わりぃ、待たせた」
椎堂くんはボストンバッグを肩にかけながら、体育館の入り口で待つ私に向かい手をあげた。
私はそれに振り返すようにして腕を上げて、小走りで寄ってきた彼の前に立つ。
私の所属するバトミントン部の部活が終わったのが七時半。
ネットを張った隣のA面で練習していた男子バスケ部もだいたい同じくらいに終わったようだけれど、顧問の体育教師がホワイトボードを引っ張り出してきたのを見ていたから、少し遅くなることはわかっていた。
椎堂くんが向こうからジェスチャーで謝っていたし、私も気にしないでと伝えたのだけど、彼はずいぶんと急いで来たようだ。
ボストンバッグの口は空いたままで、ぐちゃぐちゃのウェアが見えている。
「じゃ、帰ろうか」
「うん」
私たちは一緒に並んで校門を出た。
椎堂くんからは柑橘系の制汗剤の匂いがする。髪も短めで背も高く、まさに典型的なスポーツ少年、って感じ。
椎堂くんはそこそこイケメンだ。
駅ですれ違ったら三歩目くらいまではちょっとかっこよかったなぁ、って顔を覚えているくらいには。
多分今年の体育祭のリレーは後ろの方で走るんだと思う。運動部だし。
つまり、クラスに一人はいるちょっとモテるタイプの男子だ。
そんな椎堂くんと私は二学期が始まってからは毎日の様に一緒の電車に乗り、私が降りるまでの三十分間程度、時間を共有する。
ガランと空いた車両の中には私たち二人しかいないことも珍しくなく、私たちはただぽつりぽつりと下らないことを言い合いながら電車に揺られていた。
勉強とか、部活とか、目前にせまった文化祭のこととか、話題はいつも学校で友達と話しているような他愛のないものばかり。
けれど、私は椎堂くんの隣にいるだけで、他の誰よりも簡単にほっと息をつけた。
椎堂くんもそうだといいけれど。
一応、誤解しないでもらいたいのだが、私たちは別に付き合っている訳じゃない。
かといって友達なのか、って言われると何か違う。
私は一月前、初めて椎堂くんが一緒に帰ろうと誘ってくれた夜を思い出した。
あのときの彼の言葉を借りるなら、私たちは“ぎきょうだい”。
それが一番近いのかもしれない。
もちろん、椎堂くんと私は血の繋がりも戸籍上の繋がりもないけれど。
並んで校門を出ると、夏休み中はあれだけ鳴いてい蝉の声がずいぶんと細い。
季節的にはもう秋で、夜は長袖でも違和感はないくらいの気温だ。
けれども思いっきり運動した後の私たちにとっては、まだまだ快適とは言えない。
椎堂くんはカッターシャツの襟口をぱたぱたと振った。
「あっちーな」
「毎回言ってるよね、それ」
「だってほら、体育館って外と違って日差しはないけどさ、蒸れるんだよな」
「今日はまだマシだよ。雨の日とか最悪じゃん。人口密度も高いし」
「まーな」
雨天は普段外に出ている部活が体育館や校舎の中で筋トレなり階段昇降なりしているから、狭い体育館が余計に狭くなる。
窓も開けられなくて、夏場は本当に苦痛だ。
一応、扉の前では業務用の大きな扇風機が回っていることもあるけれど、残念ながら送られてくるのは熱風。熱いことに変わりなはない。
そんな話をしながら、いつもと同じ道を歩く。
駅までの距離はおよそ三分。
都心に向かう方のホームはそこそこ同じ高校の生徒の姿も目立つけど、山に向かうこっちの方面は全然だ。
私たちは駅の改札を通って二番ホームに立ち、運良くすぐにやってきた電車に乗り込んだ。
相変わらず時間の割にガランと空いた電車には、会社帰りらしいサラリーマンが数人、目をつぶりながらゆられているだけ。
私たちは扉のすぐ横の座席に二人並んで座った。
「そういえば今日、持田さんと付き合ってるのかって聞かれた」
「奇遇だねぇ。私も似たようなこと言われたよ」
「んー、やっぱ周りにはそう見えんのかな?」
「何も知らなければ、仕方ないんじゃない?」
「そんなもんかねぇ」
椎堂くんが頭をかく。
そんなもんなんだよ、残念ながら。
――電車は、特にトラブルもなく車輪を回し、定刻通りに降車駅で扉を開けた。
少しは止まってくればいいのに、なんて願いは今日も叶えられなかったらしい。
時間に正確な日本の鉄道をちょっと恨めしく思う。
私は仕方なく立ち上がった。
「じゃあね」
「また明日な」
「うん」
「負けんなよ」
「ありがとう」
また明日。
負けるなよ。
ありふれた言葉だけど、椎堂くんはいつもそう言って力をくれる。
顔もそこそこで、性格もイケメンって、ちょっとずるくないですか。
好きになったりは、しないけど。
錆び付いた柵で囲まれた駅の駐輪所から、自転車を漕ぐこと十五分。
同じような作りの家々が立ち並ぶ一画に、現在の私が住んでいる家がある。
そこそこ大きい方だと思う。
庭なんて大層なものはないけれど、周りと比べれば一回り以上は横に広いし、不自然に細長くない。
もちろん以前暮らしていたアパートとは段違いだ。
私は自転車を止め、玄関の扉を開けた。
靴を脱ごうと下を向くと、男物の革靴が目に入る。
わかっていたこととはいえ、元々低いテンションは余計に下降した。
「おかえり」
階段を登るためにリビングに入った私に、そう声をかけたのは母ではない。
私の父でもない。
あえて言うのならば、椎堂くんの父だ。
「……ただいま」
「あ、美幸。すぐご飯だからね」
「ん」
母に空返事しながら、私は階段を登り、一番奥の部屋に入った。
電気を着け、家具ばかりが見慣れた、私のものではない私の部屋に鞄を降ろす。
ここは、この家で私が落ち着ける唯一の空間だ。
昔見た映画のポスターを長いこと貼っていたらしい壁の四角い白い跡が、はっきり目に入る。
母はこれに少し不満があるそうで、不恰好だから何か適当に同じサイズのポスターでも貼りなさい、と言っていたけれど、私はあえてそのままにしていた。
これが、椎堂くんがここにいた何よりの証。
ひいては、私が「椎堂美幸」なんかじゃなくて、「持田美幸」のままでいることを、許してくれる気にさせるもの。
私は飛ぶようにしてベッドへ転がった。
思い出すのは一月前。
椎堂くんに、初めて一緒に帰ろうと誘われた時のことだった。
あの日は、金曜日だった。
私は部活が終わり、みんなが表門へ行く中、一人憂鬱さを抱えながらも彼女らと別れ、裏門へと向かっていた。
もちろん、家に帰るためである。
重くながらも足はしっかりと動いていて、私はまだ練習を続ける野球部を尻目に帰路へと一直線に就いていた。
一歩、二歩、砂に隠れた煉瓦の道を歩く。
校舎の影はすぐに抜けて、後数メートルも歩けば学外だった。
そのとき、薄闇の中、門の側にある生け垣の煉瓦に無理矢理腰掛けていた椎堂くんの姿が、目に入ったのだ。
私は思わず息を呑んで、歩みを止めた。
立ち上がって目の前までやってきた彼に、運動したときのものとは違う種類の汗が噴き出る。
けれども椎堂くんはそんな私に気づきもしないといった風に、私の目をまっすぐ見ていた。
「持田さん、だよね。はじめまして」
「……はぁ」
他に、どう言えば良いのかがわからない。
私は彼から目をそらし、彼のアクションをただ待った。
「俺、椎堂 冬馬。戸籍上はもう名前変わってるんだけど、学校ではまだ……」
「うん……」
「――俺の父親、今は持田さんの父親なんだよな?」
「……そう、だね」
飛んでくるのは罵声か侮蔑を込めた視線か。
無意識の内に、私は息を殺していた。怖くて、やり切れなくて。
ただ、次に彼が発した声の柔らかさは、想定していたのとは正反対のものだったけれど。
「だったら俺ら、ギキョウダイみたいなもんじゃん。仲良くしようぜ」
私は呆れてしまった。
正直、意味がわからなかった。
「……あのさ」
相変わらず椎堂くんの目を見ることも出来ず、私は彼の首元を所在なく見つめて、ため息をこらえる。
私は、彼に会いたくなど無かったのだ。
理由は、明白である。
「こんなこと言うのもあれだけど、うちの母親、人様の家庭を泥沼に追い詰めて、あなたの父親を略奪した張本人だよ? その娘と“仲良く”って……本気?」
椎堂くんの両親が離婚したのは、春休み。
そして椎堂くんの父親が私の母親と再婚したのは、夏休みが始まった頃だ。
母は、私がそれを知っているとは思っていないだろうけど。
私の母親は、ずるい。
いい年して妻子ある男に手を出して、再婚して。
そのくせ、私にはただのバツイチ同士の恋愛の末の結婚だと思わせようとしている。
自分が不倫していたことを、絶対に言わないのだ。
隠し通せると思っているのだ。
高校生の娘に対して、汚いことをしておきながら、その汚さをひた隠しに出来る訳がないことを、わかっていないのだ。
そんな母の汚さを、私は嫌悪した。
家庭がある身で母に手を出した義父よりも、私に優しい母親の面しかみせようとしない、女のずるさが気持ち悪くてしかたない。
義父の好物を毎日嬉々として作る女としての母が、私にはとても汚らわしく見えた。
そんな女を母親を持つせいで、私は椎堂くんと椎堂くんのお母さんに恨まれなければならないのか。罪悪感を抱かなければならないのか。
形だけでも、あの女の代わりに謝らなければならないのか。
そんな思いが根底にあったから、笑顔で近づいてきた椎堂くんが、私にはとてもうさんくさく感じた。
友好的な彼に対し、まずは皮肉と拒否から入ったのも、仕方が無いと思って欲しい。
私は、夏休みの一月ですっかり卑屈者になりはてていた。
けれどもそんな私に対し、椎堂くんは、夏の太陽が似合いそうなさわやかな笑みを浮かべていた。
ひょいと身をかがめて、私の目を下からのぞき込む。
「やっぱり持田さん、そんな風に思ってたんだ」
そうして、無理もないと思うけどね、と肩をすくめた。
「俺のこと避けてたでしょ? 夏休みの間、部活の休憩時間とかに声かけよっかなぁ、って思って近寄ろうとしのに、すぐどっか行っちゃうし」
「……そりゃ、そうでしょ」
「俺は別に、持田さんに恨み言とかないんだけどな。むしろ、かわいそうだなって思うよ」
「かわいそう……?」
私は鼻で笑った。
それは、周囲から彼が言われるべき言葉だ。
間違っても彼が私に言うべきことじゃない。
けれども当の本人である椎堂くんは、そうは思っていないらしい。
「かわいそうだよ、客観的に見ればさ。俺も、持田さんも――。少なくとも俺は、大人の泥沼に振り回されてもうめちゃくちゃ」
椎堂くんが肩をすくめる。
「先生たちもけっこう気を使ってるみたいだよ。俺たちが鉢合わせとかしちゃわないように」
「……うん」
「でも俺は、持田さんも、持田さんのお母さんのことも、別に何とも思ってない。それだけは誤解しないで欲しくてさ」
「……椎堂くんって、お人好しなんだね」
「えー。そんなことないと思うけど」
私は、薄く笑った。
空は灰色を帯びて青く、風はまだ生暖かい。
これが、私たちの出会い。
ある意味で、私たちのすべてでもあるのだと思う。
彼と帰り道を共有するようになって、私も母も恨んでいないと言った椎堂くんの真意が、段々わかってきたような気がする。
つまり彼は、それ以上に実の父親に対して不信感を抱いているのだろう。私が母を汚らわしいと思うように。
彼は知っている。本来ならば安らぎを得るはずの家が、息苦しくてたまらないあの空気を。
立ち位置も環境も全く違うのに、私は段々と彼に何か自分に通ずるものを感じずにはいられなかった。
多分、とても異様なことなのだろうけど。
義父とも母とも一言も話さず夕食を終え、私はシャワーを浴び、ドライヤーを部屋に持ち込んだ。
テレビの音が階下から聞こえてくるけれど、私には関係ない。
そういえば、母と二人で暮らしていた頃は、ドラマなり、バラエティーなり、歌番組なり、毎日何かしら見ていたような気がするけど、今やさっぱりだ。
あんな息苦しいところで過ごすくらいなら、何もせず部屋に引きこもっていた方がずっとマシだと思うから、当然と言えばその通りか。
私はドライヤーのスイッチを入れた。
「――――ねえ、美幸。ちょっといい?」
すると、ほとんど同じタイミングで階段を上がってきたらしい母が部屋の扉を開けた。
私は母を一度睨むようにして見つめ、無言でドライヤーを動かす。
母は初めから私の許可など求めていないようで、扉を閉めると「あのね」と話し始めた。
「あのね、美幸。もう少し、お父さんと仲良くなれないかな?」
私は髪を乾かす。
母は話を続けた。
「そりゃ、いきなり新しい父親なんていってもすぐには受け入れられないと思う。でも、このままほとんど喋ることもなく一緒に暮らしていくのも窮屈でしょ? だから、ゆっくり歩み寄っていきましょう?」
私はドライヤーの電源を切らない。
母の顔を見ない。
ドライヤーの音がうるさくて、何も聞こえない。
「美幸、聞いているの?」
母は、さすがにむっとしたようだ。
「ちゃんと聞いて!」
少し声を荒げて、私の手からドライヤーを奪い取った。
――――嗚呼、もう、だめだ。
とたん、私はせき止めていた何かが決壊するのを感じた。
泣き顔なんて絶対に見られたくないのに、涙を止められそうにない。
――――なんで、どこまで、この女は……!
母に顔を背け、立ち上がり、スマホ一つ持って部屋を出て行く。
母の呼ぶ声も聞こえない。
義父は風呂に入っているようで、顔を合わせずにすんだことにほっとした。
玄関でサンダルをひっかけ、家とも呼びたくない家を出る。
そのまま走っても走っても、嗚咽は止まらない。
呼吸は乱れ、胸が苦しかった。
母にあんな風に言われたことが、悲しいんじゃない。
私の気持ちを理解してくれない母への失望感が、あまりにも深く、重く、ショックで、決定的だったのだ。
「家出しちゃった」とラインで呟けば、彼はすぐに心配してくれた。
同時にあれよあれよという間に今いる場所も教えてしまい、彼から「今から行く」と返事が届いたときは、さすがに頭も冷えていて、私はなんでこんな迷惑をかけているのだろうと、頭をかきむしりたくなった。
「あー、もうっ」
誰もいない深夜の公園のベンチに腰掛ける。
自分に腹が立った。
なにをやっているんだ、私は……。
今まで味わったことのない、心臓を暗闇に握りつぶされるような絶望感に、衝動的に椎堂くんへメッセージを送ってしまった。
時間はもう九時を過ぎている。
彼の迷惑なんて一つも考えていない。
せめて、長袖を着て来れば良かった……。
風呂上がりの私は半袖半パンの部屋着のままで、髪も乾ききっていない。
さすがに寒くて鳥肌が立つ。
身体を丸めて、腕をさすった。
泣きすぎて、頭が痛い。
「持田さん!」
そんな風にして、何分くらい待っていただろう。
思っていたよりもずっと早くに、椎堂くんの声が聞こえた。
「椎堂くん……」
「大丈夫?」
しゃがんで、椎堂くんが私の顔をのぞき込む。
私は申し訳なさに、ごめんね、と謝ることしか出来なかった。
「いいよ、そんなの。とにかくさ、ここは冷えるから移動しよう?」
「でも、どこに……」
こんな時間に、高校生が二人で入れる店もない。
第一私は財布すら持っていないのだ。
「持田さんがよければ、うちに来る?」
「え?」
「実は、ここまでは母さんが車で送ってくれたんだ。だから、こっちは気にしなくていいよ」
椎堂くんの、お母さんが……?
痛む頭でも、それがどれだけのことかは理解できる。
私は反射的に断ろうとした。
椎堂くんのお母さんにまで会うくらいなら、ここで一晩過ごす方がまだ楽に思えた。
けれど、椎堂くんはそれを見越してしまったらしい。
私の鳥肌が立ったままの手をつかんで、
「ほら、やっぱり冷えてるし。風邪引く前にとりあえず車ン中入ろう」
と引っ張って行ってしまった。
でももだっても、言う前に封じられた。
「俺の母親は、関係ない持田さんにまで怒るような人じゃないから」
そんな風に言われてしまったら、信用していないみたいで断ることすら出来ない。
結局公園の入り口まで引っ張られた私は、止めてあった赤い軽自動車の前に立っていた。
椎堂くんが後部座席の扉を開け、私に乗るように声をかける。
私は躊躇いながらも、覚悟を決めてそこに身をくぐらせた。
車の中は、暖かかった。
運転席のミラー越しに、椎堂くんのお母さんと目が合う。
彼女は、椎堂くんと同じ柔らかい微笑みを浮かべていた。
「あの、すみません、こんな夜中に……」
「いいのいいの、気にしないで。持田さんのことは、トーマから聞いてるし」
椎堂くんのお母さんは、椎堂くんに、どことなく似ている。
綺麗な人だ。
椎堂くんが、私の隣に座る。
「どうするの? うちに行く?」
「まだ決めてない。とりあえず寒そうだったから、こっち来たけど……」
「じゃあ、私は飲み物買ってくるから、その間に決めておきなさい」
「俺、コーラな」
「こんな寒いのに? 若いわねぇ」
運転席のランプが鈍く光る車内で、椎堂くんとお母さんのやり取りだけが明るく弾む。
私は後部座席で身を縮ませ、太ももの上で指を組んでいた。
「持田さんはどうする?」
「あ、いえ、大丈夫です……」
「じゃ、何か暖かいもの買ってくるわ」
椎堂くんのお母さんは笑って、財布を片手にドアを開けた。
「何かあったら電話して。トーマ」
「あ?」
「言っとくけど、いちゃついていいのは、自分が買った車ン中でだけよ」
「はぁぁ!?」
私は自分の耳が赤くなるのを感じた。
ドアが閉まり、オレンジのランプが消える一瞬前にちらりと見た椎堂くんの頬も、錯覚でなければ、赤くなっていたと思う……。
とても、静かだった。
時折車が脇を通り過ぎるだけで、後は物音一つ、虫の声一つしない。
近くのマンションから見える灯りはまだたくさん点いていて、起きている人はこんなにもたくさんいるのに、私は狭い車内で椎堂くんと二人きりだった。
「卵焼きがね……」
「うん」
「私は甘いのが好きで、お母さんも、知っているはずなんだ。でも、最近はずっとネギ味ばっかで……」
「ああ、親父が好きなやつね」
「うん。そんな小さなことが、いっつも気になるの。なんか、もう、流せない自分も、嫌で、疲れて」
「そっか」
私は、涙ながらにすべてぶちまけた。
家庭での息苦しさ、母への嫌悪、理解してくれないことへの失望――
ほんとにぜんぶだ。
家でのきっかけも、日常でのささいなことも。
嗚咽と共に洗い出す。
そんなに辛いなら、独立すればいいという人がいるかもしれない。
親に生活の面倒を見てもらって、弁当を作ってもらって、文句を言うなと。
実際、ネットの相談掲示板で、似たような境遇の子が立てたスレッドには、そんな回答がたくさん書き込まれていた。
でも、そういうことじゃない。
そんな綺麗事で片付けないで欲しい。
話すだけで、涙が溢れてしまう“本当に辛いこと”。
友人に話すには重すぎて、大人に話すには立場が違う。
ギキョウダイの椎堂くんにしか言う勇気が持てない私の気持ち。
椎堂くんは、取り留めのない私の話しに相づちを打ち続けてくれた。
今までずっと内に抱えていたものを外に出せて、頭は相変わらず痛かったけれど、私は少しだけ、心が軽くなるのを感じた。
もちろん、これで私の置かれている環境が変わるわけじゃない。
これからも私はあの違和感だらけの家に帰らなければならないし、赤の他人が戸籍上は父親だ。
母はきっと次もネギ味の卵焼きを作る。
私の鬱憤はまた積もるだろう。
でも、私には椎堂くんがいる。
家ではいつも疎外感を覚えるけれど、本当は一人じゃない。
こうして聞いて、うんうん、って、うなづいてくれる。
それが、私にはとても安心できた。
――沈黙の中で、私の嗚咽だけが幾度か繰り返された。
鼻の下が、もらったティッシュでこすりすぎて痛い。
「俺もさ――」
鼻を人差し指でさすっていると、椎堂くんがぽつりと呟いた。
「俺も、家が息苦しかったよ。親父も母さんもぴりぴりしてて、すぐ喧嘩はじめるし。しかも原因はいい年した親父の浮気だろ? なんかさ、ほんとふざけんなって思った。親に左右されてる自分の状況も腹立ったし」
「うん」
今度は、私が相づちを打つ番だった。
「でも、持田さんだから言うけどさ……俺が多分、一番傷ついたのは、親が別れたとかそんなんじゃなくて、親父の裏切りだったんだと思う。俺、もう高校生だし、親なんてたいしたことないって思ってた」
「うん」
「でも、やっぱ違うんだよな。俺、親父のことを親として信頼してたんだ。だからいっちょまえに反抗期してたって、当たり前みたいに信じてた。家族としてさ。それが一転」
椎堂くんは、深くため息をついた。
「親父もさ、人間なんだよな。分かってはいたんだけど、実感してなかった。それがショックでさ」
「うん、わかるよ……」
「母さんも荒れに荒れて、機嫌の悪い日とか、リビングにいるのもしんどいから引きこもってた。休みの日はバンバン予定入れて」
「あの、さっきの人が?」
私は驚いて目を見開いた。
椎堂くんのお母さんは優しそうで、実際こんな私を助けてくれて、とてもそんな風に見えないのに。
そう思っていると、椎堂くんはぽりぽり、と罰が悪そうに首の後ろをかいた
「こんなことを言うとマザコンみたいでやだけどさ……離婚した後、俺、母さんに言ったんだ。すごく息苦しかったって。そうしたら、あの人沈んだ顔して、ごめんって謝ってきて。で、言うんだよ。自分も親父も人間だ、そういうこともあるのが現実だ、とか、夫として親父は最低だったけど、だからって俺まで親父のことを嫌いになる必要はないとか、そんなこと」
「…………」
「ほら、自分の親を本当の意味で嫌いになるって、なんだかんだできついだろ? だから持田さんもそんだけしんどいんだろうし。母さんはさ、人間にはいろんな一面があるから、どっかが許せなくても、どっか好きな部分があっていいんだって言ってた。親父に裏切られたのは事実だけど、それで、尊敬できるところとか、全部なくなるわけじゃないって。俺それ聞いてさ、恥ずかしいけど、泣いたね。やっと自分のもやもやの落としどころを見つけたっていうの?。今はもう、なんだかんだあるけど、まあ父親だし、って感じ。だからさ」
椎堂くんは笑った。笑って、私の頭に手をポンと置いた。
「持田さんも、どっかで落としどころ、見つかったらいいな」
私は、また涙が込み上げてきた。
私も彼みたいになれるだろうか。母を嫌いだと思うことも、そう思う自分に傷つくこともなく。
また前みたいに、笑いあえる日が来るだろうか。
――そうなればいい。
久しぶりに、そう思うことができた。
「本当にいいの? 一晩くらい泊めてあげようか?」
椎堂くんのお母さんはそう言ったけれど、私は首を振って断った。
これ以上、迷惑をかける訳にはいかない。
母からは、たくさんの着信とメッセージが届いていた。
その中には、私に対する謝罪めいたものもあって。
私は泣きはらした目を押さえて、椎堂くんを見た。
「ありがとう、椎堂くん。私、もう少し頑張ってみるね」
「応援してる。なんかあったらまたラインしてよ」
「ありがとう」
笑顔を浮かべると、椎堂くんも笑い返してくれた。
最後、椎堂くんのお母さんが車に入って、私たちは真っ暗の道路に二人きり。
「あのさ」
最後に、椎堂くんは、声を潜めるようにして言った。
「俺たちの関係に、親は関係ないからな」
街灯に照らされた頬は赤く色づいていて。そうして彼は、言い逃げる様に車に乗り込んでいった。
私が、彼の言葉の意味に気が付いたのは、それから数秒後――。
今度は、私の頬が真っ赤になっていた。