ワンタンスープのなみだ
そのあとは、小火の煙が一気に家を駆け巡り、大火事を起こすみたいに、ケイちゃんの悪口は教室中に広がった。「今日けいちゃんが黒板消しを触った」「けいちゃんの字が汚い」「音楽の時間、ケイちゃんが1人だけ、ピアニカの音をはずしていた」そんな小さな出来事が、大スクープみたいに取り上げられて、それを耳にした子たちは「えーっ」「気持ち悪いね」と大げさに感嘆してみせた。
わたしは同意を求められると、ばれないように目玉だけをぐるりと動かして教室を見渡してから、こっそり、素早く頷くようにしていた。お願い、どうか、ケイちゃんが聞いていませんように…。それでも、ケイちゃんの悪口に頷くたびに、ケイちゃんの放つキラキラが遠のいて行くようだった。ピーターパンが大人には見えないように、ケイちゃんのキラキラが、私には見えなくなっていく気がして、私は怖くなってケイちゃんを直視することをやめた。
言葉だけでは満足できなくなった人たちも出てきた。ある日、給食の時間、ケイちゃんのワンタンスープに具が入っていなかったのだ。わかめ色に染まった透明のスープをじっと見つめたケイちゃんは、黙って先生の机へ向かい「先生、すこし少ないみたいなので、自分で足します。」と了承を得た後、申し訳なさそうに寸胴のふたを取って、ちゃぷん、とお玉をスープに沈めた。
みんながお喋りや食べるのに夢中になる中、ケイちゃんの行動に目をやっていたのは私だけではなかったはずだ。何にも気づかないようなふりをする教室全体を見渡したあと、私はそれを振り払うようにコッペパンにかじりついた。それでも、スープをよそうケイちゃんの後姿が脳裏に焼き付いていた。熱いスープの蒸気を受け取って、びしょびしょに濡れたふたの内側。そこから滴り落ちた大きなしずくの粒を、わたしは忘れることができなかった。