婚約破棄になる筈が。
私の名前はマリアンヌ・ハーヴィスト。マリーという愛称で呼ばれている。
上流の貴族の家に生まれて、私は立派なお嬢様として育てられてきた。
7つの誕生日を迎えた時には婚約者ができた。相手の名前はロターリオ・ヴァレンタという。
ロターリオ様は私より一つ年上で、整った容姿に加えて頭が良く、ハーヴィスト家と対等に渡り合えるだけの家柄を兼ね備えていた。正に、ハーヴィスト家の娘にはうってつけの婚約者であった。
そんなロターリオ様は内面も素晴らしかった。誠実であり、とても紳士的な態度をとって下さるのだ。
あらゆる面で素晴らしかったが、私は特にロターリオ様に対して特別な感情を抱くということは無かった。
ロターリオ様に一切の非はない。完璧であった。
私が“知っていた”のが理由である。何を知っていたのかというと、ロターリオ様が将来私との婚約を破棄して、別の女性と婚約をするということだ。
何故そんなことがわかるのか。
それは私が前世の事を覚えていて、尚且つその前世でこの世界を舞台にした恋愛小説を読んだ事があるからである。
いきなりこんなことを言っても、恐らく信じてもらえないだろう。少なくとも、普通の人は信じない。私はそう思ったから、今まで誰にも話さずに自分の内に秘めていた。
……とりあえずその話は置いておこう。
して、その恋愛小説では主人公ヒロインのレジーナ・オーグレンがエイセリシュターヴ学園に入学するところから物語が始まった。
レジーナはロターリオ様の二つ年下で、ロターリオ様が高等部三年の時に外部から編入する。そして外部編入生の入学式から数日がたったある日。レジーナとロターリオ様は出会うのだ。
エイセリシュターヴ学園での外部編入生は大抵の場合一般庶民であることが多い。それはレジーナも同じだった。学費免除を受けられる特待生として、絶対に成績を落としたくなかったレジーナは、静かな場所を探し求め、放課後の図書室で勉強をしていた。レジーナはその環境に集中して、すらすらと問題を解いていく。
すると、とある問題につまずいたのだ。参考書を開いてみても、解き方がいまいち解らない。うんうんと唸っていると、そこに現れたのがロターリオ様。
ロターリオ様はその紳士的な態度でレジーナに話しかけ、そしてレジーナのつまづいていた問題をいとも簡単に解いてみせた。解き終わるまでは一瞬で、その後はレジーナに対して丁寧な解説の言葉を付け加える。その解説はレジーナの頭にスッと入り、直ぐに理解する事ができた。
レジーナはロターリオ様に感謝する。心からの感謝の言葉を述べ、後日迷惑でなければと、手作りのクッキーを手渡すのだ。
——それがレジーナとロターリオ様の出会いである。
それからの二人はなにかと関わる事が多くなり、恋に落ち、身分の差から周囲の反対などの様々な障害を乗り越えて、ゴールインする。見事なハッピーエンドである。
そう、“ハッピーエンド”なのだ。あくまで、その二人に関していえばの話だけれど。
当時のロターリオ様には既にマリアンヌ・ハーヴィストという婚約者がいた。けれどもロターリオ様はレジーナとの恋におちる。一緒にいられるようにするためには、誠実なロターリオ様の性格も合わさって婚約を破棄するという選択をとる他なかった。
一方のマリアンヌは、物語の中でロターリオ様に対して恋心を抱いていた。婚約が決まってからというもの、マリアンヌは結婚の日が来ることをいまかいまかと待ちわびていたのだ。なのに突如として現れたレジーナという人物に、ロターリオ様を奪われてしまう。
マリアンヌはひどくショックを受けた。幼い頃から今まで、何度も夢に見ていたロターリオ様との結婚が、危うくなったからだ。このままではいけない。
思い悩んで考えて、マリアンヌは“ロターリオ様を説得する”という手段を用いた。
マリアンヌは、優しかったのだ。優しすぎたのだ。本来ならば、婚約者がいるのに他の女性と恋におちたロターリオ様を責めるなり、その相手であるレジーナに対してキツく当たり、二人の恋路を邪魔するだろう。
けれどもマリアンヌは毎日ロターリオ様の元に出向いては、“ロターリオ様、貴方が愛しているのはどなたでしょうか。……悲しい事に、私わたくしではありませんのね。それは重々承知の上でございます。でも、それでも私はロターリオ様と一緒に居たいのです。どうか、考え直してはいただけませんか”と健気に訴え続けた。何度も何度も。
しかし結局ロターリオ様の心は変わらずに、そのまま婚約は破棄。マリアンヌは悲しみに暮れ、当然レジーナとロターリオ様の結婚式にも出席はしなかった。
これが、物語でえがかれていたマリアンヌの姿の全てである。
私は婚約が決まる一年前の、6つの時の誕生日にこのことを思い出していた。
いずれ婚約が破棄されることがわかっていたからこそ、婚約の日から今まで、ロターリオ様と必要以上に関わりを持つ事も、好意を寄せる事もしなかった。
だが。
最近の私は、大きな疑問を抱えていた。
現在ロターリオ様は高等部三年、私は高等部二年。主人公のレジーナも外部編入生兼特待生として、学園に入学してきた。そこまでは物語と一緒だった。
しかし、入学式から早三ヶ月が経過した今。未だ、ロターリオ様とレジーナとの間に、なにかしらの感情が芽生えたようにはみえなかった。それ以前に、二人が話をしている姿も滅多に見かける事はなかった。
そして物語との最大の違いは、何故か私がレジーナに慕われているようであるということ。
なにがどうしてそうなってしまったのか、私には理解できていなかった。けれども、レジーナに好かれているというのは紛れもない事実であった。
レジーナは、大人しくて優しい子だ。そしてお菓子作りが上手。私の姿をみかければ、笑顔で話しかけにきてくれて、いろんな話題を持ち出してくる。本来であればロターリオ様の役目であろう勉強に関しても、何故か私が教えている。相談事も聞いている。その度にレジーナはとびきり笑顔でお礼を言って、手作りのお菓子を渡してくれるのだけれど、それがまた美味しいのだ。
そんなこんなで私にとってのレジーナは、普通に可愛い後輩となりつつある。自分で言うのもなんだが、とても良好な関係が築けていると思われる。
「マリー様、明日はなにか予定があるんですか?」
現在、私はレジーナと一緒に学園の図書室にいた。勉強を教えていたのだ。それが一段落ついたところで、レジーナが私に質問をなげかけてきた。
「いいえ、明日は特になにもありませんわ」
「それなら! あの、その……私の家に来ませんか」
「あら、私がお邪魔してもよろしいのかしら?」
「もちろんです! マリー様、来てくれるんですねっ!」
「ええ」
本当は明日、ロターリオ様が家にいらっしゃるとのことだったが、今の私の優先順位はレジーナの方が上であった。ロターリオ様には、後でダリスにお詫びの連絡でも入れてもらおう。
笑顔で喜んでくれるレジーナを目の前に、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
——すると頭上から、この場にいるはずのない人物の声が聞こえたのだ。
「マリー。貴方は明日、私との約束がある筈ではないのですか」
え、と思い後ろを振り向くと、そこには端正な顔をした、ロターリオ様が立っていた。気のせいか、いつもあまり表情の変化がみられないその顔には、不機嫌の色が見え隠れしているように感じた。一体なにがあったのだろうか。
「ロターリオ様。今日は武術の稽古があったのではないのですか?」
「マケニス老師が体調を崩されたそうで、今日は休みとなりました」
「まあ、それは大変ですわね」
マケニス老師には私もお世話になったことがある。歳を感じさせない振る舞いをしていて幾らか若く見えはするものの、もう結構なお歳である。時たま、体調を崩されたり腰痛を患ったりしている。本人はいたって平気そうにしているけれど。そうだ、今度お見舞いにでもいくことにしよう。
……ああ、もしかしてそのせいでロターリオ様は不機嫌な様子なのか。マケニス老師のことが心配なのだろうな、と一人納得していると、ロターリオ様が「それよりも」と言った。
……それよりも?
私はキョトンと、間抜けヅラをしていたことだろう。けれど、ロターリオ様はそれについてはなにも言わずに話し始めた。
「明日、先に約束をしていたのは私の筈です。それなのに何故ミス・オーグレンの申し出を受け入れているのですか?」
……言えない。仮にも婚約者である以上、ロターリオ様との約束はもとよりどうでも良かったなどとは言えない。本音を言えば、そのうち婚約破棄される予定だし、レジーナと一緒にいる方が楽しいのだ。
返答の内容にしばらく悩んでいると、おもむろにレジーナが口を開いた。
「あ、あの、マリー様。私の家に来るのは、明日でなくとも、その、いつでも構いませんよ!」
レジーナの言葉は、暗に私に、ロターリオ様との約束を優先させるべきですよと告げていた。
完全にロターリオ様の方を断るつもりでいたのに、これは、なんということだろう。
二人の様子をうかがってみると、レジーナ本人は、どこか“やりましたよ私は!”という達成感に満ち溢れた顔をしていて、ロターリオ様の表情はいぜんとして変わらない。
……っく、致し方あるまい。
「申し訳ございませんが、レジーナの家にお邪魔させていただくのは、また別の日にさせていただきますわ。先程“いつでも”と言っていただきましたもの」
「はい! マリー様なら、いつでも大歓迎です!」
元気良くそう返してくれたレジーナの笑顔が、とても眩しい。
しばらくレジーナと二人顔を見つめて微笑みあっていると、ロターリオ様が割って入ってきた。
「では、マリー。私は明日を心待ちにしています」
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「お嬢様、お茶会の準備が整いました」
「ありがとう、ダリス」
「もうそろそろ、お見えになる頃ですよ。今回もお出迎えはなさらないのですか?」
「ええ」
「そうですか。お嬢様は、今日が一体なんの日なのかをご存知でしょうか?」
「今日?」
執事のダリスにそう問われ、私ははてと首を傾げた。
今日が何の日か……なにか特別な事があっただろうか。しばらくの間考えてみたもののそれらしいものは思いつかない。
メイドのファミヤがやってきて、ロターリオ様が来たと知らせにきたので考えるのは中断することにした。
ファミヤと一緒にお茶会の準備をしてもらった庭に向かうと、そこにはもうロターリオ様の姿があった。
「ロターリオ様。本日はおいでくださいまして、ありがとうございます。どうぞお掛けになってくださいませ」
礼をしながらそう言うと、「では、失礼します」とロターリオ様は席についた。それを確認してから、私も向かい側の椅子に腰掛ける。
ファミヤはティーカップに紅茶を淹れ終わり、軽くお辞儀をして下がっていった。
まずは一口、紅茶を口に含む。うん、美味しい。
「今日は、いい天気ですね」
「ええ、そうですわね」
私はロターリオ様の言葉に相槌をうった。言われたとおり今日は天気が良く、雲ひとつない快晴である。青々とした空がとてもきれいだ。
どちらも話をせずにしばらく間が空いた後、ロターリオ様が口を開いた。
「マリー。来月の終わりに、フェリス公爵宅で舞踏会が開かれるのを知っていますか?」
「ええ、知っていますわ。つい先日、ハーヴィスト家宛に招待状が届きましたもの」
「貴方は出席するのですか?」
「そのつもりですわ」
公爵の位を持つだけあって、フェリス公爵宅の舞踏会はとても豪華だ。装飾もだけど、食事も。
どれも美味しくてついつい手が伸びてしまう。けれど、ハーヴィスト家の令嬢としては、あまりがっつき過ぎるのは厳禁だ。そもそも誰であっても、食事にがっつくなどというはしたないことをすると、マナーがなっていないと冷ややかな目でみられるのが常である。
「ならば、私のパートナーとして出席してくれますか」
「もちろんですわ」
一応、婚約者という関係なので、舞踏会などに出席するのにはパートナーとなるのが一般的である。
了解の返事をすると、ロターリオ様は小さく頷いた。
その後は学園での事や、今話題のお店についてなどの他愛のない話が続いた。
私は、時折紅茶や焼き菓子などを口にしながら受け答えをしていた。途中、この焼き菓子は美味しいな、どこのお店のものだろうという話の内容と全く関係のないことを考えたりもしていたが。
ふと、ロターリオ様が懐から懐中時計を取り出した。時間を確認すると、「もうこんな時間ですか」と小さく呟いた。
「マリー。私はこの後予定が入っているので、この辺で失礼します」
それならば何故わざわざ、今日という日にハーヴィスト家に訪問したのだろうか。こっちは急ぎの用事でもないのに。そもそもここにロターリオ様が来る必要はなかったが。
うっすらとそう疑問を持ちながら、まあいいかと、腰をあげたロターリオ様に続いて立ち上がる。
「とても楽しかったですわ。ありがとうございます」
社交辞令の言葉を口にし、微笑んで軽い礼をする。それにロターリオ様も「こちらこそ、とても有意義な時間を過ごす事ができました」と礼の言葉を綴った。では、と言って背を向け歩き出したロターリオ様。
ーーああ、そういえば。
「お誕生日おめでとうございます、ロターリオ様」
ふと思い出して口にしたのと同時に、今朝ダリスが私に“何の日か”と聞いてきたのがこのことだったのだと気がついた。
そんな私の言葉を聞いたロターリオ様は振り返り、ポカンと驚きの表情を見せた。
そして、とても美しい顔で破顔した。
その姿に私は思わず目を瞠った。あのロターリオ様が、そんな風に笑うだなんて。
ーーこの世界は私の知っている物語とは、少しずつ違っているのかもしれない。