17. 淡い感情
私は尻餅をついた状態で固まってしまった。その人は私の近くにでしゃがみ、私の瞳を覗き込んだ。
心配そうに私を見つめる黒水晶の目、同じくらい深い闇色の髪は形の良いあごのラインをなぞるように揺れていた。
(なんて綺麗な人だろう)
「あ……」
目の前の彼の指がそっと私の頬の涙をぬぐった。いつの間に涙がこぼれていた。自分が泣いていることに自覚すると、どんどん雫が頬をつたっていく。
「大丈夫!?」
慌てた声で彼は言った。どうしよう、止まらない。彼のせいではないのに。
廊下の奥でざわめきが聞こえてくる。どこかの学年の授業が早めに終わったのだろうか。
「──こっちに」
優しく手を導かれて、近くにあった部屋に入って行った。
「落ち着いたかな?」
彼は私の涙が止まり話せるようになるまでずっと待っていてくれた。
「怪我やどこか痛いところはない?」
「はい、大丈夫です。突然すみませんでした」
「本当に?無理しなくてもいいんだよ」
「いいえ。……さっき涙がでちゃったのは、別のことなんです」
私はそっと目を伏せた。
「そのリボンは──1年生だよね?まだ授業中のはずだけど……」
「………」
「今の時期は、ダンスの授業かな?僕で良ければ相談に乗るよ」
この人に相談したら不安や憂いは晴れるかもしれない──私は静かに頷いた。
ダンスがうまくいかないこと、ペアの人と喧嘩をしてしまったこと、ダンス以外の授業でもペアになったときは必ず争いになること──などを話した。
「お互いダンスは初めてだってこともあると思うんですけど……もしかしたら私が下手なだけかも」
「ふぅん……」
話せば話すほど気分が沈む。そして、自分のしてきたことが恥ずかしくなった。どうして認めることができなかったんだろう?素直に受け止めることができなかったんだろう。
私の話を聞いた彼は、考え込んでいたがぽんっと手をたたいた。
「なら、今踊ってみようか」
「えっ!?」
「僕が君のダンスを見てあげるよ。──お手をどうぞ、姫」
彼が跪いて私に手を差し伸べる。女の子だったら誰もが憧れるシチュエーションに、私の胸もときめいた。おそるおそる、その手に私の手を重ねる。
「じゃあ、はじめようか!」
「わわっ」
彼が私の手をやさしく引っ張った。どうしよう、足とかふんじゃったら!
踊りはじめはそんな思いもあったのだが、杞憂に終わった。
(あれ……?)
私、踊れてる?
いつもはぎくしゃくとしており、一度としてうまく踊れたためしがなかった。しかし今はどうだろうか。動きはスムーズで、次の動きも分かりやすい。体の力が抜けていくのがわかる。
くるり、と回る。
足取りは軽やかで、羽が生えたようだった。
(楽しい……!)
ダンスが楽しいなんて、思ったことがなかった。それが、こんなにも楽しいものだなんて。
そっと彼の顔をうかがう。すると、お互いの目があいふわりと微笑んだ。
(───っ!)
顔があげられない。私はこれ以上彼の顔を見れなくなってしまい、そっと視線をはずした。
「君はダンスが下手なんかじゃないよ。上手に踊れたじゃないか」
目の前の彼が悪戯っぽく笑った。
「ダンスはパートナーとの相性もあるからね。初めて同士というのもあるかもしれないけど……。練習すればきっと仮面舞踏会までにはパートナーともうまく踊れるようになるよ」
「……ありがとうございます」
一通り踊り終わり、彼がぽんぽんっと私の頭を撫でた。
「私、パートナーの人に謝ってきます。色々ひどいこと言ったし」
「送っていくよ。もしかしたら探しているかもしれないから」
申し訳なく思いながらも、彼と一緒に部屋を出た。
ダンスのコツなどを教えてもらいながら歩いていると、レオナルドとレイラが何か話しているのを見つけた。
「あ……リリア!!」
2人とも私たちに気づき、こちらに駆けてくる。
「迎えがきたみたいだね。僕はこれで。──またね」
彼はそういうと、手を振って帰っていった。
「リリア、探したわよ。授業中にいなくなったと聞いたわ」
「ごめんね。レイラ」
私は彼女に謝った。──レイラも私を探してくれたんだ。
「あの……」
私はレオナルドのほうへ向き直った。彼には謝らなければいけない。さっきのことは勿論、今までのことも──。意を決して謝罪の言葉を口にしようとしたとき、レオナルドは、ばっと頭を下げた。
「さっきはすまなかった。お前には関係ないこともたくさん言ってしまった」
意外だった。彼から謝るなんて。自分からは絶対に謝らなさそうなタイプなのに。
「私の方こそごめんなさい。……言い過ぎたわ」
私もレオナルドに頭を下げた。
「まだ、俺のパートナーとして踊ってくれるか?」
「うん。私も、まだ一緒に頑張ってもいい?」
「あぁ」
彼はほっとしたように笑った。はじめてレオナルドの笑った顔を見た。──もし先ほどの彼と話していなかったらこんなに素直な気持ちにはなれなかったかもしれない。
(そういえば、彼の名前を知らない)
聞いていなかったことが悔やまれる。ダメ元でレイラたちに聞いてみた。
「さっきの方の名前を知らない?確か……ダークグリーンのタイをしていたわ」
タイの色が違ったのでおそらく他の学年の生徒だろう。期待していなかったが、驚くことに、レイラたちは知っていた。
「べランジエ様だろ」
「彼を知っているの?」
「──あの方はバエリシア地方の次期魔王よ。現魔王はべランジエ様のお父様だわ」
「やっぱり知らなかったか。……ほんとお前って恐ろしい奴だな」
次期魔王の人!!私大丈夫だったかな?不敬罪とか言われないよね!?
そんな驚きもあったのだが。
(彼の名前が知ることができた)
いつかまた会えるだろうか。あの方の名前をそっと心の中で呼んでみる。
(べランジエ様……)
淡い感情が心に広がり、ほんのりとけて、きえた。




