【01】バグ玉
「やあ、蔦壁。今、ちょっといいかな~?」
いつもと変わらない明るい口調で、『凪早ハレヤ』が呼びかける。
図書室のカウンターの向こう、本を整理していた様子の『蔦壁ロココ』は、その手を止めて振り向いた。
肩あたりで切りそろえられた黒髪がフワリと揺れ、トレードマークとも言える黒縁眼鏡がキラリと光を反射する。背は標準より少し低い方で、インドア派の肌には日焼けの後もない。
白のブラウスの上に濃紺のカーディガン、下はチェックのスカートにひざ下までの黒の靴下、そして黒の革靴を履いている。すべて、高校の制服として売られているものだ。
見た目は、どこにでもいそうな優等生っぽい地味めの女子高生。同じクラスの女子でもさほど目立たない存在だ。
「……えっと、凪早くん?」
言いながら、トコトコと早足でカウンターの手前まで近づいて来た。
そっと小さく呟くようなしゃべり方だが、小鳥のさえずりのようなよく通る高い声。凪早ハレヤの耳を心地よくくすぐった。
「そうそう、同じクラスの! やあ、ちゃんと覚えててもらえてたなんて照れるな~」
後ろ手に頭を掻きながら、ニコニコ顔になる。一方の蔦壁ロココは、どこか訝しげな表情だ。
「ごめんなさい、図書館はもう閉館なの。今日は貸出できないから……」
すでに夕刻をすぎ、まもなく学校の正門が閉まる時間だ。図書室はすでに主電灯を落としてあり、カウンターの明かりだけが灯っている状態だった。
薄暗がりに包まれて、図書室はしんと静まり返っている。
「あああ、違う違う! 本を借りに来たんじゃないよ!」
凪早ハレヤの言葉に、蔦壁ロココが小首を傾げる。
「凪早くん、風紀委員だった? 図書委員の仕事はもうあと10分ほどで終わるから、そのあと鍵はきちんと職員室まで……」
「いやいやいや、風紀委員でもないよ! 蔦壁って、真面目だね! 感心感心!」
腕組みをして「うんうん」とばかりに頷く凪早ハレヤ。蔦壁ロココはというと、普段から特に会話を交わすでも無い間柄の二人だけに、他に心当たりが無いといった様子だ。
すぐにでも踵を返そうとする雰囲気を感じて、慌てたように凪早ハレヤがポケットをまさぐり始める。
「蔦壁ってさ、今話題の『ロード・トゥ・ヴォルケーノ』って知ってる? 人気MMORPGを題材にしたライトノベル原作の映画シリーズで、今度、最新シーズンやるじゃん?……あれれ、どこやったかな?」
『ロード・トゥ・ヴォルケーノ』の言葉を聞いて、蔦壁ロココがジト目っぽい視線になった。
その表情を意に介する様子もなく、凪早ハレヤは左右の制服のポケットを覗き込んでいる。
「今回、ファン待望の水着回なんだよね! いつもは性能重視の無骨な鎧に身を包んじゃってるけど、露出度120%って噂だよ! しかも特典でMMORPG内で使用可能な水着アバターコード付きのチケットでさ!」
「……わたし、ああいう作品に興味ないから」
「えええっ、そうなの? ついに辿り着いた理想郷ヴォルケーノ! そこのイケメン領主への玉の輿を狙う助手ブリジットが、自慢のボディを大胆な水着姿で誘惑真っ最中に起きる……」
「……あの、仕事終わらせたいから」
冷たい視線を投げかけて、そっと蔦壁ロココが踵を返そうとしたその時。
カウンター奥の図書整理室から、フワ~~っと黄緑色の光を放つ球体状のモノが漂い出てきた。
「おおおおお??……ひ、人魂っ!?」
びっくりして、思わず一歩、後ずさる。
凪早ハレヤの驚く声に、蔦壁ロココがその視線を追って後ろを振り返った。
「これは……『バグ玉』! いつの間に!」
「ばぐだま?」
驚く二人を見据えるように、黄緑色の光球がフワリと宙で円を描く。
「おろろ?」
光球が天井付近でピタリと静止した時、凪早ハレヤはまるで光球と視線が合ったかのような感覚に襲われた。
「いけない! 逃げて、凪早くん!!」
黄緑色の光球が不意にスッと後ろに下がったかと思うと、凪早ハレヤめがけて突進してきた!
「ちょっ!? うわあああああああああああああああ!!!」
絶叫する凪早ハレヤの胸に、「ドン!」と衝撃が走る!
「ぅぐぶぇっ!!!」
衝撃が全身を駆け抜けるとともに意識がグラリと揺れて、凪早ハレヤは前のめりに崩れ落ちた。
◆
「凪早くん、凪早くん!」
「……ほえ?」
呼びかける声に気づいて、凪早ハレヤは情けない声を上げた。
少し、意識が朦朧としている。
身体の上下の感覚があやふやで、自分がどこにいるのかわからない、そんな気分に陥っていた。
「……あれれ?……なんか……妙にフワフワして……?」
ボヤッとする目をこすり、目をしぱしぱさせてみる。
その時、背中がトンと何かにぶつかる感触がした。
徐々に視界が戻ってくる。
真下に、心配そうな表情で凪早ハレヤを見上げる女子生徒がいた。
蔦壁ロココだ。
凪早ハレヤの意識が戻ったことに、ホッとしたように胸を撫で下ろしている。
「良かった……大丈夫? 怪我はない?」
「うう~ん、と……あ~、痛いところはないよ。でも……」
まだボンヤリしている頭で、辺りを見渡してみる。
「どうなってんの、これ?」
背中に当っているのは天井だ。どこからどう見ても、身体が浮いている。
状況がイマイチ飲み込めないでいると、凪早ハレヤの背後で、天井板がギシっと音を立てた。同時に、一瞬、建物全体が震えた感じがした。
「おおお?」
「凪早くん、天井から離れて」
蔦壁ロココの言葉に、凪早ハレヤは「ハッ」となる。
無意識のうちに平泳ぎをするように手を動かしていた。すると、浮いていた身体がスウーッと宙を滑るように動いた。
「おおお、宙を泳いでるぞ、俺! なんでこんな事になってんだ?」
フワフワする身体で図書室を泳いで回ってみる。まるで波のない水中で泳いでいるのと同じような感覚で動き回れた。
「あっはは~、これはすごい! めっちゃ楽しいな!」
「きっと、『バグ玉』のせい。バグ玉が凪早くんの身体に取り憑いたから……」
「へ~、そうなのか。確かに、ドンっとばかりに俺の胸に飛び込んできたもんな。……あ、蔦壁も俺の胸に飛び込んできていいんだよ?」
ニコッと微笑みながら、凪早ハレヤは両腕を広げてみせた。
「さあ! 遠慮無く、さあ!」
「そんな高いところ、無理だから」
ニヤニヤと笑みを浮かべる凪早ハレヤの頭が、ゴツンと鈍い音を立てて天井にぶつかった。
「いててて……」
片手で頭を抑えながら、慌てて手足をバタバタさせて、天井から離れる。どうやら手足の動きを止めると、身体が少しずつ上昇してしまうようだ。
「なんだか、勝手に身体が浮いちゃうみたいだ! これじゃ安心して寝れないかも!」
「放っておくわけには行かないと思う。他の人に見られたら、騒ぎになると思うし」
立泳ぎのように宙に留まろうとする凪早ハレヤだが、少し休もうと、本棚にそっと手を掛けた。
「ふう、疲れちゃった」
本棚にすがりついて、ホッと溜め息をついたその時だった!
いきなり、すがりついている本棚がガタガタと振動し始める。そのはずみで、バラバラと本棚の本が何冊か床に散乱してしまう。
「あれれ~? もしかして、本棚が浮いてる!?」
「凪早くん、本棚を離して!」
蔦壁ロココの声に、凪早ハレヤがパッと手を離す。すると本棚はドスンと音を立てて床に落ちた。
明らかに、元の場所からズレているが。
「はははっ、触るもの浮かせずにはいられない、って感じだね! 休もうと思って触っただけでもダメなのか~。……バグ玉に取り憑かれたせいだって言ってたけど、これって治せるのかな?」
「凪早くん、いろいろ説明したいことはあるけど、ひとまず……」
蔦壁ロココは「ほう」とひとつ溜め息をつくと、申し訳無さそうな表情で凪早ハレヤを見上げた。
「────わたしと一緒に、異世界に来てもらっていい?」