ラジオで「早く誘えばいいのに」と応援していた恋愛相談は、私への片思いでした
『借りた本に、しおりの代わりにクリーニングの引換券が挟まっていました』
私は、口に運びかけたおにぎりを止めた。
『なくすと困るだろうと思って、本と一緒に返しました。ありがとうと言われたのに、こちらこそ、本をありがとうとしか言えませんでした』
イヤホンの向こうで、パーソナリティーの真木さんが笑った。
『それで十分じゃないですか。そこで、本の話をもうちょっとしたかったんですね』
十分じゃないのは、私の頭の働きだった。
休憩室の時計を見る。十二時三十四分。
木曜日。毎週聴いている、地元の小さなラジオ局の昼番組。
引換券なら、月曜日に返してもらった。
薄い緑色の紙。コート一点と、冬物のジャケット一点。受け取り予定日をとうに過ぎていることまで思い出せる。
『ラジオネーム、右のポケットさん。今週も、ありがとうございます』
私は、おにぎりを包み紙の上に置いた。
毎週、応援していた。
早く誘えばいいのに。きっとその人も嫌じゃないよ。
そんなことを思って、先週はとうとう、番組にメッセージまで送った。
右のポケットさん。
あなたの好きな人って、私ですか。
*
最初の相談が読まれたのは、五月の第二木曜日だった。
私は建材を扱う会社で、受注事務をしている。
三浦千紘、二十九歳。今の営業所に来て、今年で六年目になる。
十一時半を過ぎると、午前締めの伝票を入力し、確認し、最後の一件を片づける。十二時を回ったところでようやく席を立てる日が多い。
休憩室でお昼を食べながらラジオを聴くのは、一人暮らしを始めた頃からの習慣だった。
母が台所で流していた局を、今はスマートフォンで聴いている。
真木さんの声を聞くと、冷たいおにぎりでも、お昼ご飯になった気がした。
『さて、木曜の「ひとつだけ相談室」。今日は、お名前を読む前に、この一文から』
真木さんが、わざと少しだけ声を落とした。
『好きな人の髪が短くなっていました。気づいたのに、言えませんでした』
私は、スープの蓋を開けながら笑った。
『ラジオネーム、右のポケットさん。これまでにも、何度か番組にお便りをくださっていますね。ありがとうございます。……なるほど、普段は普通に話せるのに、相手を褒めようと思うと、変に意識してしまう、と』
隣の席で後輩の森さんが、パンの袋を開けた。
私はイヤホンの音量をひとつ下げた。
『いきなり「似合ってます」じゃなくてもいいんじゃないでしょうか。「髪、切ったんですね」でも、そこからお話しできますよ』
それはそうだ。
私は心の中で頷いた。
『……と、私が言ったところで、簡単にできれば相談しないですよねえ』
真木さんの、こういうところが好きだった。
やればいいじゃない、で終わらない。
曲を一曲挟んで、相談へのメッセージが紹介された。
自分も夫の散髪に気づかなかった、という人。髪の話題から交際が始まった、という人。
私は食べ終えたお弁当を片づけながら、続きを聴いた。
『右のポケットさん、来週は、まず一言。髪の話がもうしにくければ、ほかのことでも。またよかったら、お便りくださいね』
控えめな人なんだろうな、と思った。
相手は、どんな女性だろう。
褒められ慣れていて、髪型までいつもきれいに整えているような人を、勝手に想像した。
自分もその前の週末に髪を切っていたことは、そのとき、頭をかすめもしなかった。
*
「三浦さん、これ、ありがとうございました」
翌日の昼休み、休憩室から戻ろうとすると、野口さんが入口に立っていた。
差し出されたのは、先月の月末処理で私が貸した電卓だった。
「ずっと返せなくて、すみません」
「ううん。予備なので」
野口慎吾さん。三十一歳。
業務課で、配送の手配や倉庫との調整をしている。私より二つ年上で、この営業所へ来て二年になる。
電話口では、必要なことをはっきり言う。
けれど雑談の輪では、だいたい聞いているほうだった。
「月末、大変でしたね」
「はい。助かりました」
それで会話は終わるはずだった。
野口さんが、私の手元を見た。
「それ、本ですか」
文庫本の角が、ランチバッグから出ていた。
「休憩のとき、少しずつ読んでて。もう三週間くらい、犯人が捕まらないんです」
野口さんが笑った。
顔が変わった、と思った。
仕事の電話を終えたときの笑い方とも、上司の冗談に合わせるときとも、少し違う。
「三週間、逃げてるんですか」
「私が読むの遅くて」
「どんな話ですか」
私は表紙を見せ、犯人が分からない範囲で説明した。
野口さんは、途中で自分も同じ作家の別の本を読んだことがあると言った。
話しているうちに、廊下の先の時計が一時を指した。
「あ、戻らないと」
「すみません、引き止めて」
「ううん。野口さんも、読書するんですね」
「電車の中で、ときどき」
私は電卓を受け取って、席へ戻った。
午後の伝票を開く前に、ランチバッグから本を出した。
今日の帰りは、もう少し読もうと思った。
次の木曜日、右のポケットさんから、続報が届いた。
『先週、声をかけるきっかけを探していると相談した者です。借りていたものを返すときに、少しだけ話ができました』
よかったじゃない。
私は紙パックのお茶を飲みながら、心の中で拍手した。
『好きな人と話していると、聞きたいことを考えているうちに、時間が終わってしまいます。今度は、相手の好きなものについて、もう少し聞いてみたいです』
真木さんが「いいですねえ」と言った。
『私なんて、自分が喋りすぎて時間が終わっちゃいますけどね。右のポケットさんの話、私も聞きたいです。好きな人には、そちらの好きなものの話もしてみませんか』
私は、野口さんが読んだと言っていた本を、あとで検索してみようと思った。
頭の中で、二つの話が並んでいた。
ラジオの向こうで頑張っている誰かと、先週、廊下で話した同僚。
繋がる理由は、何もないと思っていた。
その日の帰り、エレベーターで野口さんと一緒になった。
「本、進みました?」
「あと三十ページです。今日こそ捕まえます」
彼が笑った。
私は、先に聞こうと思っていたことを思い出した。
「野口さんが読んだ本って、最後、怖いですか」
「怖いというより、嫌な気持ちになります」
「それ、勧めづらくないですか」
「でも、面白かったです。三浦さんのは?」
「たぶん、ちゃんと解決すると思うんですけど」
エレベーターが一階に着いた。
彼が開くボタンを押したまま、私が降りるのを待った。
「読み終わったら、お貸ししましょうか」
口にしてから、まだ借りたいとは言われていない、と気づいた。
野口さんは、すぐに頷いた。
「いいんですか」
「はい。明日には、たぶん」
「じゃあ、僕のも、持ってきます」
駅までの道を、そのまま二人で歩いた。
自分が貸す本の結末より、彼の好きな本を読めることのほうが、楽しみになっていた。
*
三週目の木曜日、私は番組にメッセージを送った。
右のポケットさんの相談は、好きな人と話せるようになったが、誘う口実が思いつかない、というものだった。
『相手は、とても話しやすい人です。でも、親切だから応じてくれているのか、自分との会話を楽しんでくれているのか、分かりません』
分かる、と思った。
私も、野口さんとは本の話ばかりしていた。
月曜日には、終業後に駅前の書店で偶然会った。新刊の棚の前で十分ほど話したけれど、食事へ誘う勇気はなかった。
番組のメッセージフォームを開いた。
『毎週、右のポケットさんの話を楽しみにしています。私にも、最近、本の話をするようになった人がいます。相手から聞いてもらえるのが嬉しくて、また話したいと思っています。右のポケットさんの好きな人も、そうだったらいいなと思います』
ラジオネームは、昼休みは短い。
本名は書かなかった。送信してから、自分の恋の話を他人へするのは、ずいぶん久しぶりだと気づいた。
自分の投稿が読まれたのは、番組の終わり近くだった。
私は、イヤホンの線を指に巻きかけて、ほどいた。
『昼休みは短いさん。お名前、本当にそうですよねえ。……最近、本のお話をする人がいる、と。こちらも、続きが気になりますね』
顔が熱くなった。
真木さんが読み上げているのは、私が送った文章なのに、いざ人の声になると、思っていたよりずっと恋愛の相談だった。
『右のポケットさんにも、このメッセージ、届いているといいですね』
私は、届くといいな、と思った。
その人が一歩進んだら、私も進めるような気がした。
翌日の金曜日、野口さんが、本を読み終えたと教えてくれた。
「面白かったです。最後、そう来るのかと思って」
「私は、あの人が出てきたところで、怪しいと思いました」
「本当ですか。僕は、最後まで違う人を疑ってました」
本は家に置いてきたそうで、週明けに持ってくると言われた。
彼と話すと、読み終わった本が、もう一度面白くなった。
私は彼から借りた本を、返しそびれていた。結末が重くて、読み終わってから、しばらく閉じた表紙を眺めてしまったのだ。
「借りてるほうも、読みました。最後のところ、野口さんに聞きたくて」
話し始めたところへ、営業の人が伝票を持ってきた。
注文内容の訂正があった。野口さんは私の手元を見て、半歩下がった。
「また、あとで」
そう言って、自分の席へ戻っていった。
私は、その「あとで」を、午後のあいだ中、楽しみにしていた。
月曜日の朝、彼が私の机へ来た。
「これ、本に挟まってました」
返しに持ってきてくれた本の上に、クリーニングの引換券が載っていた。
「あ、すみません。しおり代わりにして、そのまま貸しちゃったんですね」
「なくすと困ると思って」
「ありがとうございます。私、まだ受け取ってないんです」
少し端の折れた紙を受け取った。
野口さんは「こちらこそ、本をありがとうございました」と言って、席へ戻った。
お礼なら、金曜日にも聞いたのに。
丁寧な人だなと思いながら、私は引換券を財布へ入れた。
*
そして、四週目の木曜日。
『借りた本に、しおりの代わりにクリーニングの引換券が挟まっていました』
その一文で、おにぎりが食べられなくなった。
髪を切ったのに、言えなかった。
借りていたものを返して、少し話せた。
好きなものの話をするようになった。
先週のメッセージまで、自分の耳に戻ってきた。
『相手から聞いてもらえるのが嬉しくて、また話したいと思っています』
私が、送った。
それを彼が聴いていたかもしれない。
スマートフォンを伏せた。伏せても、声は止まらない。
『右のポケットさん。お礼も言えているし、本の貸し借りもできているし、もう話しかける口実を探さなくてもいいような気はしますけどねえ』
私は片方のイヤホンを外した。
休憩室の入口が開いた。
「三浦さん」
野口さんだった。
私は、スマートフォンの音を止めた。
「来週の入荷予定で、確認したいところがあるんですが。休憩が終わってから、少しお願いできますか」
「はい」
自分の声が、裏返った。
彼が、わずかに眉を上げた。
「急ぎじゃないので」
「はい。あとで、伺います」
野口さんが出ていった。
私は、机に置いたおにぎりを見下ろした。
今の人なのか。
仕事の話なら、あんなに普通にできるのに。
それでも、あの引換券を返したとき、もう少し話したかった人を、私はほかに思いつかなかった。
午後、入荷予定の確認は、普段通りにできた。
数字を読んでいるあいだは平気だった。
野口さんが「ありがとうございました」と言い、それから少し間を置いた。
「この前の本、最後のところ」
私は、その先を聞くのが急に怖くなった。
ラジオを思い出す。
何も知らない顔で、好きな人についての本音を聞いてしまった。
ここで、にこにこしていていいのだろうか。
「すみません。今日、伝票の確認が残っているので」
それは本当だった。
ただ、あと三分話したら困るほどではなかった。
「そうですか。すみません」
彼が、自分の席へ戻った。
私はパソコンへ向き直った。さっき確認した数字が、画面のどこにあるか分からなくなった。
その日の帰り、私は、彼から借りた本を返した。
「遅くなって、すみませんでした」
「いえ。どうでしたか」
「面白かったです」
もっと、いくらでも言いたいことはあった。
主人公の選択に納得できなかったこと。最後の一行だけで、前の場面の見え方が変わったこと。
けれど、彼の前で、うまく言葉にならなかった。
「ありがとうございました」
私は頭を下げて、先に帰った。
*
金曜日も、翌週の月曜日も、私たちは仕事の話しかしなかった。
話しかけられなくなったら、楽になると思っていたわけではない。
でも、野口さんが遠慮してくれるほど、自分から近づく理由を見つけられなくなった。
何度も、番組のアーカイブを開いた。
確かめ直せば、何か勘違いが見つかるかと思った。
引換券の話は、何度聴いても同じだった。
私が番組へ送った文章も、聴き直した。
他人の恋なら、背中を押せた。
相手の女性も嬉しいかもしれませんよ、と言えた。
それが自分だと分かった途端、知らないふりをして、逃げている。
火曜日の帰り、駅前のクリーニング店で、コートとジャケットを受け取った。
店員さんに「お待たせしました」と言われて、こちらこそ、と言いかけた。
店の外へ出て、スマートフォンを取り出した。
野口さんの私用の連絡先は、知らなかった。
会社の連絡用チャットを開きかけて、やめた。
明日、話そう。
帰りに、少し時間をもらおう。
受け取った服を持ち直した。ハンガーが二本、袋の中でぶつかった。
水曜日、定時を過ぎても、野口さんは席にいた。
倉庫からの電話を終え、受話器を置いたところへ行った。
「野口さん。帰り、少しお話ししてもいいですか」
彼は、パソコンの画面から私へ視線を移した。
「はい。あと五分くらいで終わります」
「じゃあ、下で待っています」
言えた。
たったそれだけなのに、エレベーターへ向かう足が震えた。
外へ出ると、まだ明るかった。
私はビルの入口の横で待った。
野口さんが出てきたのは、六分後だった。
「お待たせしました」
「ううん。あの、駅のほうへ歩きながらでも、いいですか」
「はい」
並んで歩いた。
私は、前の人との距離を確かめながら、口を開いた。
「ラジオ、聴きますか」
野口さんの足が、止まった。
私も止まった。
その反応だけで、もう、間違いではないと分かった。
「……聴きます」
彼が、低い声で答えた。
私は歩道の端へ寄り、人の通り道を空けた。
「木曜日のお昼の、真木さんの番組」
野口さんが、私を見た。
「三浦さんも、聴いてるんですか」
「はい。前から」
彼が、手に持っていた鞄を握り直した。
私も、ランチバッグの持ち手を両手で握っていた。
「引換券の話を聞いて、もしかして、と思って」
彼は一度目を閉じ、それから、私へ顔を向けた。
「すみません」
先に謝られ、私は言おうとしていたことを忘れた。
「名前も、仕事のことも、場所も書かなければ、大丈夫だと思ってました。でも、三浦さんが聴けば、分かる話でした」
彼の言葉は、そこでいったん切れた。
信号が変わり、向こう側から人が歩いてきた。
「嫌でしたよね。自分のことを、知らないところで話されるのは」
私は、すぐに首を振れなかった。
嫌いになったわけではない。嬉しくなかったわけでもない。
でも、知らないうちに自分が放送の中にいたと気づいた驚きは、まだ残っていた。
「びっくり、しました」
「はい」
「私の話が流れるとは、思ってなかったので」
野口さんが頷いた。
「もう、三浦さんのことは送らないです」
彼が私を見た。
「それと、放送で分かる形にしてしまって、すみませんでした。本当は、自分で言わないといけなかった」
そこで初めて、私は、自分の聞きたいことを思い出した。
「私、なんですか」
彼が息を止めた。
私は言い直した。
「好きな人って、私で、合っていますか」
野口さんは、鞄を持つ手を下ろした。
「はい」
短い返事だった。
でも、仕事で返される「はい」とは違った。
「三浦さんが、好きです」
今度は、誰かが読み上げた文章ではなかった。
目の前で、彼の口が動いていた。
私は返事をしようとして、うまく息が吸えなかった。
「どうして、ラジオに」
聞きたいことが先に出た。
彼は少し、視線を落とした。
「昔から聴いていた番組で。最初は、髪を切ったことも言えなかった自分が情けなくて、送ったんです。誰かに聞いてもらえたら、少しは動けるかと思って」
彼は口元を手で押さえかけて、やめた。
「読まれたら、来週は頑張ろうって。その繰り返しでした。相談するほうが、三浦さんを誘うより簡単になってました」
私は、彼の靴の先を見た。
自分だって、番組へのメッセージなら送れた。
本人には、本が面白かったとしか言えなかったのに。
「私も、送ったんです」
野口さんが顔を上げた。
「先々週、右のポケットさん宛てに」
彼の眉が、ゆっくり寄った。
「……本の話をする人がいる、って」
「はい。昼休みは短い、です」
彼が黙った。
あまりにも黙るので、私は、やっぱり言わなければよかったかと思った。
「あれ、僕、何度も聴きました」
今度は私が、何も言えなくなった。
「自分に都合よく考えても仕方ないって思いながら、あの人も、そう思ってくれてたらいいなって」
「思ってました」
私は、ようやく彼の顔を見た。
「本の話、もっとしたかったです。野口さんが読んだものも、知りたかったし」
ラジオで聞いた、彼の相談の言葉を思い出した。
私も同じところで、ずっと足踏みをしていた。
「先週、避けてしまって、ごめんなさい。聴いてるって言わないまま、普通に話すのが、できなくて」
「……嫌われたかと思いました」
「違います」
そこだけは、すぐに言えた。
「右のポケットさんが誰か分かる前から、野口さんと話せる日は、嬉しかったです」
彼の顔から、少しずつ力が抜けた。
私も、握っていたランチバッグの持ち手を緩めた。
「私も、好きです」
言えたあと、歩道の向こうで自転車のベルが鳴った。
二人で同じ方向を見て、それから、また顔を見合わせた。
「すみません。こんなところで」
野口さんが言うので、私は笑ってしまった。
「私が、歩きながらでいいって言ったんです」
彼も笑った。
廊下で本の話をしたときの、あの顔だった。
「このあと、時間、ありますか」
彼が聞いた。
私は頷いた。
「あります」
「晩ご飯、一緒に食べませんか」
「はい」
駅へ向けて、また歩き始めた。
さっきまでより、二人の間が少し狭くなっていた。
*
入ったのは、駅前の小さな定食屋だった。
野口さんは鯖の味噌煮を、私は唐揚げを頼んだ。
注文を終えると、また少し黙った。
彼が、水の入ったコップを動かした。
「三浦さん」
「はい」
「僕と、付き合ってもらえませんか」
好きだと言い合ったあとでも、改めて言われると、頬が熱くなった。
「はい。よろしくお願いします」
彼が頭を下げるので、私まで下げた。
ちょうどお水を足しに来た店員さんが、何も言わずに引き返していった。
「明日から、会社で普通にできるかな」
私が言うと、野口さんは困ったように笑った。
「僕は、今までもできてなかったので」
「私は、気づいてなかったです」
「それは、それで」
少し悔しそうだった。
私は、初めて見るその顔が嬉しかった。
ご飯が運ばれてきた。
いただきます、と言ってから、彼が箸を止めた。
「番組には、何も送らないです。三浦さんに、送ってほしいとも言いません」
私は頷いた。
「今は、二人で知っていたいです」
「はい」
聞いてもらった人たちには、お礼を言いたい気持ちもあった。
ただ、今日の言葉や、これから行く場所まで、誰かに説明しなくてもよかった。
「でも、ラジオは、聴きます?」
私が聞くと、野口さんは頷いた。
「たぶん。三浦さんは?」
「私も。真木さんの、魚を焼く話が好きで」
「いつも焦がすやつですか」
「そう。毎回、グリルから離れちゃう」
彼が笑った。
私も、唐揚げをひとつ、口へ運んだ。
*
翌日の木曜日、十二時半。
私は休憩室のいつもの席で、お弁当を広げた。
『さて、今日の「ひとつだけ相談室」は、こちら。ラジオネーム、靴下は片方さん』
右のポケットさんの名前は、出なかった。
番組は、いつもと同じ調子で進んでいった。
相談者は、長く付き合っている恋人と、一緒に暮らす話を切り出したいのだと言った。
真木さんが、うんうん、と相槌を打った。
私は卵焼きを食べながら、続きを聴いた。
十二時五十分、番組が終わった。
イヤホンを外すと、休憩室の入口に野口さんがいた。
彼は私の顔を見て、手元の紙袋を少し持ち上げた。
「売店、寄ったので」
隣の椅子へ座る前に、私を見た。
私は自分のバッグを膝へ移した。
彼が紙袋から、缶コーヒーを二本出した。
「ブラックで、よかったですか」
「はい。ありがとうございます」
会社の中では普段通りにしよう、と昨夜話したばかりだった。
それなのに、缶を受け取る手が、少しぎこちなくなった。
「今日の放送、聴いてました?」
声を落として聞くと、彼は首を振った。
「電話が長引いて。あとで聴こうと思ってます」
「真木さん、また魚、焦がしたそうです」
彼が、ああ、と笑った。
私は缶のプルタブに指をかけた。
「ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「はい」
「右のポケットって、どうしてですか」
彼は、ズボンの右ポケットを指で叩いた。
「前に、探してたイヤホンが、右のポケットから出てきて。それを番組に送ったのが、最初で」
「そんな理由?」
「そんな理由です」
肩の力が抜けた。
知らなかったことを、ひとつ知った。
私は、缶コーヒーを開けた。
「じゃあ、今度からなくしたら、先にそこを見ますね」
「左も、お願いします」
笑い声が重なって、私は慌てて口元を押さえた。
休憩室の向こうで、森さんがこちらを見た。
「何の話ですか」
「探し物です」
私が答えると、野口さんはコーヒーを飲むふりをした。
まだ、笑っていた。
放送では聞けなかった声を、私は隣で聞いていた。
~完~




