第25話 ありがとう、レクス
黒爪猩型魔物が倒れたあと、山裾村は、息を忘れたみたいに静まり返っていた。
さっきまで木を裂き、土を抉り、食料庫を潰そうとしていた巨体が、荷車の残骸の向こうで動かなくなっている。黒く伸びた爪は、食料庫の扉まであと一歩のところで止まっていた。
扉の横には、深い爪痕が刻まれている。砕けた木片。泥に伸びた切れたロープ。潰れた浅い穴。破れた餌袋からこぼれた穀物。
全部、壊れていた。
でも、食料庫は立っていた。
誰も、すぐには声を出せなかった。
村人たちは、倒れた黒爪猩型魔物を見ていた。食料庫を見ていた。包帯に血を滲ませながら膝をつくレクスと、その横で治療するノエルを見ていた。
ユリウスは、少し離れた場所で地図を握ったまま座り込んでいた。
泥だらけの膝。土のついた袖。震える手。さっきまで村全体へ指示を飛ばしていた声は、もう掠れている。
彼は食料庫を見て、壊れた荷車を見て、倒れた黒爪猩型魔物を見た。
「……残った」
声が震えていた。
レクスが、治療されながら顔を向ける。
「壊れなかったぞ」
ユリウスは笑おうとした。けれど、口元がうまく動かなかった。
「荷車は壊れた。ロープも切れた。穴も潰れた。餌袋も破れた。俺たちが作った形、半分以上壊れた」
リシアが、荷車の影で肩を上下させながら息を整えていた。
狐耳は伏せ、肩にも力が残っていない。それでも、彼女は口だけは動かした。
「でも、使ったでしょ。壊れた後まで」
ユリウスは、泥のついた地図を見下ろした。
「……そうだな。壊れてからが、本番だったな」
レクスは目を輝かせた。
「ユリウス、すごかったぞ!!」
その声は、傷だらけの身体から出たとは思えないほど真っ直ぐだった。
ユリウスが目を見開く。次の瞬間、顔をくしゃっと歪めた。
「やめろ!! 今それ言われたら、本当に泣く!! 俺、さっきから膝に力が入ってないんだよ!!」
「泣いていいぞ」
「村人に見られるだろ!! 指揮してた人間が、戦闘後に泣くのは格好がつかないだろ!!」
ノエルが治療しながら冷静に言った。
「すでに声は震えています」
「ノエル!! 今くらい見逃してくれ!!」
「治療対象が増えそうなので観察しています」
「俺の心も治療対象になりそうだ!!」
レクスが真剣にユリウスを見る。
「ユリウスも寝るか?」
「お前と同じ扱いになるのは嫌だ!!」
重かった空気が、ほんの少しだけ揺れた。
けれど、リシアは笑わなかった。
彼女は倒れた黒爪猩型魔物を見つめていた。自分の幻惑が、最後に爪を半歩ずらした。食料庫ではなく、死ぬ場所ではなく、生き残る方へずらした。
その事実が、まだ身体の中で落ち着かない。
レクスがリシアを見る。
「リシア、ずれたぞ」
「……見れば分かる」
「死なない方へずれたぞ」
リシアは口を開いた。
いつものように皮肉を返そうとした。
けれど、言葉が出なかった。
手首の鎖跡を握りかけて、途中で止める。狐耳が小さく震えた。
「そういうの、すぐ言うのやめて……」
「思ったから言ったぞ」
「だから、それが嫌なのよ……」
リシアは顔を背けた。
でも、逃げるような背け方ではなかった。
「……私の幻で、死なない方へ行ったのね」
「うん。リシアがずらした!」
「……ほんと、簡単に言う」
リシアはそれ以上言わなかった。
食料庫の前で、老婆が動いた。
彼女は震える足で扉に近づき、黒い爪痕の横へ手を添えた。厚い木の扉には傷が走っている。けれど、まだ閉じている。鍵も壊れていない。
「……開けるよ」
老婆の声に、村人たちが息を呑んだ。
村長が頷き、若者たちが壊れた荷車の残骸をどかす。老婆は震える手で鍵束を取り出し、食料庫の鍵を開けた。
扉が、重い音を立てて開く。
中には、穀物袋があった。
干し肉が吊られていた。
塩漬けの魚も、根菜の箱も、薪も、家畜用の餌も、冬越しのために刻まれた木札も残っていた。
老婆は膝をついた。
そのまま、目の前の穀物袋を両手で抱きしめる。
「残ってる……」
その声は小さかった。
けれど、村中に届いた。
「食料庫が残った。これで、まだ冬を越せる……!」
子どもを抱えていた母親が、声もなく泣き出した。ロープを握っていた若者は、自分の裂けた手も忘れて地面に座り込む。村長は食料庫の中を見て、何度も息を吸った。
レクスはその光景を見て、傷の痛みも忘れたように笑った。
「よかったな! 食い物は命だからな!」
ユリウスが鼻をすすりかけて、慌てて咳払いした。
「こういう時でも食い物の話なんだな……でも、今回は本当にその通りだ!」
ノエルが治療の光を保ったまま頷く。
「食料と栄養は、生存に直結します。特に冬は、備蓄があるかどうかで生き残れる人数が変わります」
リシアが呆れたように目を細めた。
「治癒役さん、真面目に食べ物の話へ乗らないで。せっかくしんみりしてたのに」
「事実確認です」
「事実確認で感動を台無しにしないで」
レクスが首を傾げる。
「でも、食い物は大事だぞ?」
「分かってる。そこは否定してない」
リシアはそう言ってから、食料庫を見た。
守る小屋がある人たち。
少し前なら、そう皮肉を言っていた。
でも今は、その小屋が残ったことで泣いている人たちがいる。食料庫を抱きしめる老婆がいる。子どもを強く抱く母親がいる。
リシアは何も言わなかった。
村人たちの視線が、ゆっくりとレクスたちへ戻ってきた。
村がすべて変わったわけではない。
倒れた黒爪猩型魔物を見る目には、まだ恐怖が残っている。レクスの牙に肩を震わせる者も、リシアの狐耳を見て子どもを少し下げる者もいる。
狼の耳の子。
山の子。
獣人混じり。
化け物。
昨日までの言葉は、まだ村の中に残っていた。
それでも、今その言葉を口にする者はいなかった。
子どもが、母親の腕の中から顔を出した。
「耳の人……」
母親が反射的に抱きしめ直そうとした。
けれど、その手が途中で止まる。
レクスは治療されながら、いつもの調子で答えた。
「レクスだぞ!」
子どもはびくっとした。
でも、逃げなかった。
母親は震える手で子どもの肩を抱いたまま、レクスを見た。
食料庫を見て、倒れた黒爪猩型魔物を見て、最後にレクスの傷へ視線を落とした。
唇が震える。
怖さは、まだあった。
レクスの耳も、牙も、血の匂いも、彼女にとって見慣れたものではない。
それでも、彼女は一歩だけ前に出た。
「……ありがとう、レクス」
村の空気が止まった。
ユリウスが息を呑む。
ノエルの治療の光が、一瞬だけ揺れる。
リシアの狐耳が、ぴくりと動く。
レクスは、母親を見た。
耳を見て呼んだわけではない。
狼の子でも、山の子でも、化け物でもない。
その声は、レクスに向いていた。
名前だった。
「今、俺の名前を呼んだのか?」
母親の目に涙が浮かんだ。
「呼んだよ。あなたが、守ってくれたから」
レクスは何も言えなかった。
口を開けたまま、目を見開いている。いつもならすぐに返事をする。分からないことは聞く。嬉しいことはそのまま言う。
けれど今は、言葉が見つからなかった。
ユリウスが立ち上がりかけ、膝に力が入らず少しよろけた。それでも、泣き笑いの顔で叫ぶ。
「呼んだよ!! お前の名前だよ、レクス!!」
レクスは胸元を握った。
「俺……レクスって呼ばれたぞ」
声が震えていた。
「化け物じゃなくて、レクスでいいのか?」
ユリウスは歯を食いしばり、顔を歪めた。
ノエルは目を伏せたまま、治療の光を絶やさない。
リシアは顔を横へ背けた。
その問いに、軽く返せる者はいなかった。
母親は涙を拭いながら、もう一度言った。
「……レクス。ありがとう」
レクスは、ゆっくり息を吸った。
傷の痛みより、身体強化の反動より、ずっと熱いものが胸の奥に残った。
リシアが小さく言う。
「よかったじゃない……レクス」
レクスの目が輝く。
「じゃあ、リシアも呼べるぞ!」
「調子に乗らないで!」
「でも今、レクスって言ったぞ!」
「言っただけ!! 呼んだわけじゃない!!」
ユリウスが泣きそうな顔のまま身を乗り出した。
「いや、今のはかなり良い流れだったぞ!! リシア、もう一回言ってやれよ!!」
「言わない!!」
ノエルが静かに言う。
「耳は動いています」
「見ないで!!」
リシアが両手で狐耳を押さえる。
その姿に、子どもが小さく笑った。
母親は、今度はその子どもを強く引き戻さなかった。ただ、抱きしめたまま、レクスたちを見ていた。
村がすべて変わったわけではない。
まだ距離を取る者はいる。リシアを見て警戒する者もいる。レクスの身体強化を思い出して、顔を強張らせる者もいる。獣人戦争の傷も、昨日までの言葉も、簡単には消えない。
それでも、一つだけ変わった。
レクスは、この村で初めて名前を呼ばれた。
ユリウスは泥だらけの地図を拾い上げた。まだ手は震えている。けれど、目にはさっきとは違う光が戻っていた。
「父上に報告しないとな」
レクスが顔を向ける。
「グラントにか?」
「ああ。黒爪猩型魔物を倒したこと。食料庫を守ったこと。村人と一緒に防衛線を作ったこと。……ただ魔物を斬った、で終わらせちゃ駄目なやつだ」
ノエルが静かに続ける。
「王都に対して、言い返す材料になります。ヴァルクハイン家の管理下で、村を守る実績を出した。そう報告できます」
リシアが皮肉っぽく笑おうとして、少しだけ失敗した。
「ましな鎖の材料ってわけね」
レクスは食料庫を見た。
黒い爪痕の残る扉。
その奥にある冬越しの食料。
泣いている母親。
笑った子ども。
自分の名前を呼んだ声。
「でも、俺は王都に言うために守ったんじゃないぞ」
ユリウスは頷いた。
「分かってる。でも、それを父上がどう使うかは別だ。お前が守った理由と、父上がそれを盾にすることは、両方あっていい」
「盾?」
「王都に奪われないための盾だ。お前がここで誰かを守ったって事実は、武器にも盾にもなる」
レクスは少し考えた。
「食料庫を守ったら、俺も守られるのか?」
ユリウスは少し笑った。
「そういう言い方をすると変だけど、まあ、近い」
ノエルが治療を終え、包帯を巻き直す。
「ただし、守られるためにも生きてください。実績を作った直後に倒れる人は、非常に困ります」
「分かった。寝るぞ」
「今度は本当に寝てください」
「食ってからでもいいか?」
「少量なら許可します」
リシアが呆れたように言う。
「この流れで食べ物の話に戻るの、ほんと山育ち」
レクスは笑った。
「食い物は命だからな」
その言葉に、老婆が食料庫の前で小さく頷いた。
レクスは傷だらけの食料庫を見た。
胸の中で、さっきの声が何度も響いていた。
レクス。
化け物ではなく。
狼の血でもなく。
山の子でもなく。
レクス。
その名前で呼ばれたことが、傷の痛みよりずっと熱く残っていた。




