表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
英雄の子レクス 〜化け物と呼ばれた山の子は名前を取り戻す〜  作者: むぎ
山から来た子

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/30

第25話 ありがとう、レクス

 黒爪猩型魔物くろづめしょうがたまものが倒れたあと、山裾村は、息を忘れたみたいに静まり返っていた。


 さっきまで木を裂き、土を抉り、食料庫を潰そうとしていた巨体が、荷車の残骸の向こうで動かなくなっている。黒く伸びた爪は、食料庫の扉まであと一歩のところで止まっていた。


 扉の横には、深い爪痕が刻まれている。砕けた木片。泥に伸びた切れたロープ。潰れた浅い穴。破れた餌袋からこぼれた穀物。


 全部、壊れていた。


 でも、食料庫は立っていた。


 誰も、すぐには声を出せなかった。


 村人たちは、倒れた黒爪猩型魔物を見ていた。食料庫を見ていた。包帯に血を滲ませながら膝をつくレクスと、その横で治療するノエルを見ていた。


 ユリウスは、少し離れた場所で地図を握ったまま座り込んでいた。


 泥だらけの膝。土のついた袖。震える手。さっきまで村全体へ指示を飛ばしていた声は、もう掠れている。


 彼は食料庫を見て、壊れた荷車を見て、倒れた黒爪猩型魔物を見た。


「……残った」


 声が震えていた。


 レクスが、治療されながら顔を向ける。


「壊れなかったぞ」


 ユリウスは笑おうとした。けれど、口元がうまく動かなかった。


「荷車は壊れた。ロープも切れた。穴も潰れた。餌袋も破れた。俺たちが作った形、半分以上壊れた」


 リシアが、荷車の影で肩を上下させながら息を整えていた。


 狐耳は伏せ、肩にも力が残っていない。それでも、彼女は口だけは動かした。


「でも、使ったでしょ。壊れた後まで」


 ユリウスは、泥のついた地図を見下ろした。


「……そうだな。壊れてからが、本番だったな」


 レクスは目を輝かせた。


「ユリウス、すごかったぞ!!」


 その声は、傷だらけの身体から出たとは思えないほど真っ直ぐだった。


 ユリウスが目を見開く。次の瞬間、顔をくしゃっと歪めた。


「やめろ!! 今それ言われたら、本当に泣く!! 俺、さっきから膝に力が入ってないんだよ!!」


「泣いていいぞ」


「村人に見られるだろ!! 指揮してた人間が、戦闘後に泣くのは格好がつかないだろ!!」


 ノエルが治療しながら冷静に言った。


「すでに声は震えています」


「ノエル!! 今くらい見逃してくれ!!」


「治療対象が増えそうなので観察しています」


「俺の心も治療対象になりそうだ!!」


 レクスが真剣にユリウスを見る。


「ユリウスも寝るか?」


「お前と同じ扱いになるのは嫌だ!!」


 重かった空気が、ほんの少しだけ揺れた。


 けれど、リシアは笑わなかった。


 彼女は倒れた黒爪猩型魔物を見つめていた。自分の幻惑が、最後に爪を半歩ずらした。食料庫ではなく、死ぬ場所ではなく、生き残る方へずらした。


 その事実が、まだ身体の中で落ち着かない。


 レクスがリシアを見る。


「リシア、ずれたぞ」


「……見れば分かる」


「死なない方へずれたぞ」


 リシアは口を開いた。


 いつものように皮肉を返そうとした。


 けれど、言葉が出なかった。


 手首の鎖跡を握りかけて、途中で止める。狐耳が小さく震えた。


「そういうの、すぐ言うのやめて……」


「思ったから言ったぞ」


「だから、それが嫌なのよ……」


 リシアは顔を背けた。


 でも、逃げるような背け方ではなかった。


「……私の幻で、死なない方へ行ったのね」


「うん。リシアがずらした!」


「……ほんと、簡単に言う」


 リシアはそれ以上言わなかった。


 食料庫の前で、老婆が動いた。


 彼女は震える足で扉に近づき、黒い爪痕の横へ手を添えた。厚い木の扉には傷が走っている。けれど、まだ閉じている。鍵も壊れていない。


「……開けるよ」


 老婆の声に、村人たちが息を呑んだ。


 村長が頷き、若者たちが壊れた荷車の残骸をどかす。老婆は震える手で鍵束を取り出し、食料庫の鍵を開けた。


 扉が、重い音を立てて開く。


 中には、穀物袋があった。


 干し肉が吊られていた。


 塩漬けの魚も、根菜の箱も、薪も、家畜用の餌も、冬越しのために刻まれた木札も残っていた。


 老婆は膝をついた。


 そのまま、目の前の穀物袋を両手で抱きしめる。


「残ってる……」


 その声は小さかった。


 けれど、村中に届いた。


「食料庫が残った。これで、まだ冬を越せる……!」


 子どもを抱えていた母親が、声もなく泣き出した。ロープを握っていた若者は、自分の裂けた手も忘れて地面に座り込む。村長は食料庫の中を見て、何度も息を吸った。


 レクスはその光景を見て、傷の痛みも忘れたように笑った。


「よかったな! 食い物は命だからな!」


 ユリウスが鼻をすすりかけて、慌てて咳払いした。


「こういう時でも食い物の話なんだな……でも、今回は本当にその通りだ!」


 ノエルが治療の光を保ったまま頷く。


「食料と栄養は、生存に直結します。特に冬は、備蓄があるかどうかで生き残れる人数が変わります」


 リシアが呆れたように目を細めた。


「治癒役さん、真面目に食べ物の話へ乗らないで。せっかくしんみりしてたのに」


「事実確認です」


「事実確認で感動を台無しにしないで」


 レクスが首を傾げる。


「でも、食い物は大事だぞ?」


「分かってる。そこは否定してない」


 リシアはそう言ってから、食料庫を見た。


 守る小屋がある人たち。


 少し前なら、そう皮肉を言っていた。


 でも今は、その小屋が残ったことで泣いている人たちがいる。食料庫を抱きしめる老婆がいる。子どもを強く抱く母親がいる。


 リシアは何も言わなかった。


 村人たちの視線が、ゆっくりとレクスたちへ戻ってきた。


 村がすべて変わったわけではない。


 倒れた黒爪猩型魔物を見る目には、まだ恐怖が残っている。レクスの牙に肩を震わせる者も、リシアの狐耳を見て子どもを少し下げる者もいる。


 狼の耳の子。


 山の子。


 獣人混じり。


 化け物。


 昨日までの言葉は、まだ村の中に残っていた。


 それでも、今その言葉を口にする者はいなかった。


 子どもが、母親の腕の中から顔を出した。


「耳の人……」


 母親が反射的に抱きしめ直そうとした。


 けれど、その手が途中で止まる。


 レクスは治療されながら、いつもの調子で答えた。


「レクスだぞ!」


 子どもはびくっとした。


 でも、逃げなかった。


 母親は震える手で子どもの肩を抱いたまま、レクスを見た。


 食料庫を見て、倒れた黒爪猩型魔物を見て、最後にレクスの傷へ視線を落とした。


 唇が震える。


 怖さは、まだあった。


 レクスの耳も、牙も、血の匂いも、彼女にとって見慣れたものではない。


 それでも、彼女は一歩だけ前に出た。


「……ありがとう、レクス」


 村の空気が止まった。


 ユリウスが息を呑む。


 ノエルの治療の光が、一瞬だけ揺れる。


 リシアの狐耳が、ぴくりと動く。


 レクスは、母親を見た。


 耳を見て呼んだわけではない。


 狼の子でも、山の子でも、化け物でもない。


 その声は、レクスに向いていた。


 名前だった。


「今、俺の名前を呼んだのか?」


 母親の目に涙が浮かんだ。


「呼んだよ。あなたが、守ってくれたから」


 レクスは何も言えなかった。


 口を開けたまま、目を見開いている。いつもならすぐに返事をする。分からないことは聞く。嬉しいことはそのまま言う。


 けれど今は、言葉が見つからなかった。


 ユリウスが立ち上がりかけ、膝に力が入らず少しよろけた。それでも、泣き笑いの顔で叫ぶ。


「呼んだよ!! お前の名前だよ、レクス!!」


 レクスは胸元を握った。


「俺……レクスって呼ばれたぞ」


 声が震えていた。


「化け物じゃなくて、レクスでいいのか?」


 ユリウスは歯を食いしばり、顔を歪めた。


 ノエルは目を伏せたまま、治療の光を絶やさない。


 リシアは顔を横へ背けた。


 その問いに、軽く返せる者はいなかった。


 母親は涙を拭いながら、もう一度言った。


「……レクス。ありがとう」


 レクスは、ゆっくり息を吸った。


 傷の痛みより、身体強化(しんたいきょうか)の反動より、ずっと熱いものが胸の奥に残った。


 リシアが小さく言う。


「よかったじゃない……レクス」


 レクスの目が輝く。


「じゃあ、リシアも呼べるぞ!」


「調子に乗らないで!」


「でも今、レクスって言ったぞ!」


「言っただけ!! 呼んだわけじゃない!!」


 ユリウスが泣きそうな顔のまま身を乗り出した。


「いや、今のはかなり良い流れだったぞ!! リシア、もう一回言ってやれよ!!」


「言わない!!」


 ノエルが静かに言う。


「耳は動いています」


「見ないで!!」


 リシアが両手で狐耳を押さえる。


 その姿に、子どもが小さく笑った。


 母親は、今度はその子どもを強く引き戻さなかった。ただ、抱きしめたまま、レクスたちを見ていた。


 村がすべて変わったわけではない。


 まだ距離を取る者はいる。リシアを見て警戒する者もいる。レクスの身体強化を思い出して、顔を強張らせる者もいる。獣人戦争の傷も、昨日までの言葉も、簡単には消えない。


 それでも、一つだけ変わった。


 レクスは、この村で初めて名前を呼ばれた。


 ユリウスは泥だらけの地図を拾い上げた。まだ手は震えている。けれど、目にはさっきとは違う光が戻っていた。


「父上に報告しないとな」


 レクスが顔を向ける。


「グラントにか?」


「ああ。黒爪猩型魔物を倒したこと。食料庫を守ったこと。村人と一緒に防衛線を作ったこと。……ただ魔物を斬った、で終わらせちゃ駄目なやつだ」


 ノエルが静かに続ける。


「王都に対して、言い返す材料になります。ヴァルクハイン家の管理下で、村を守る実績を出した。そう報告できます」


 リシアが皮肉っぽく笑おうとして、少しだけ失敗した。


「ましな鎖の材料ってわけね」


 レクスは食料庫を見た。


 黒い爪痕の残る扉。


 その奥にある冬越しの食料。


 泣いている母親。


 笑った子ども。


 自分の名前を呼んだ声。


「でも、俺は王都に言うために守ったんじゃないぞ」


 ユリウスは頷いた。


「分かってる。でも、それを父上がどう使うかは別だ。お前が守った理由と、父上がそれを盾にすることは、両方あっていい」


「盾?」


「王都に奪われないための盾だ。お前がここで誰かを守ったって事実は、武器にも盾にもなる」


 レクスは少し考えた。


「食料庫を守ったら、俺も守られるのか?」


 ユリウスは少し笑った。


「そういう言い方をすると変だけど、まあ、近い」


 ノエルが治療を終え、包帯を巻き直す。


「ただし、守られるためにも生きてください。実績を作った直後に倒れる人は、非常に困ります」


「分かった。寝るぞ」


「今度は本当に寝てください」


「食ってからでもいいか?」


「少量なら許可します」


 リシアが呆れたように言う。


「この流れで食べ物の話に戻るの、ほんと山育ち」


 レクスは笑った。


「食い物は命だからな」


 その言葉に、老婆が食料庫の前で小さく頷いた。


 レクスは傷だらけの食料庫を見た。


 胸の中で、さっきの声が何度も響いていた。


 レクス。


 化け物ではなく。


 狼の血でもなく。


 山の子でもなく。


 レクス。


 その名前で呼ばれたことが、傷の痛みよりずっと熱く残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ