【証拠はいらない】親の期待を裏切れない
相談者は、三十手前の女性だった。
服装も、言葉遣いもきちんとしている。
だが、どこか疲れて見えた。
椅子に座ってから、しばらく黙る。
「……贅沢な悩みだと思うんですけど」
「気にしなくていい」
それだけ答える。
彼女は小さく息を吐いた。
「仕事、親の会社なんです」
「そうか」
「進学先も」
「就職も」
「全部、親が決めました」
指先が、膝の上で絡む。
「付き合う相手も」
「親が反対したら、終わりで」
少し笑う。
「ずっと、いい子でした」
その笑いは、乾いていた。
「でも最近」
「このままでいいのか分からなくて」
俺は聞く。
「何が引っかかっている」
彼女は少し迷ってから言う。
「……私の人生なのか」
「親の人生なのか」
沈黙が落ちる。
「家は出られるのか」
「……出られます」
即答だった。
「ただ」
言葉が止まる。
「親が悲しむと思うと」
俺はカップを持ち上げる。
「ひとつ聞く」
彼女が顔を上げる。
「このまま生きて」
「いちばん困るのは誰だ」
言葉に詰まる。
「親は安心するかもしれない」
少し間を置く。
「だが」
視線を向ける。
「君は納得できるのか」
彼女は黙る。
やがて、小さく言う。
「……分かりません」
「そうだろうな」
責める口調ではなかった。
「親に嫌われるのが怖いのか」
彼女は、静かにうなずく。
俺は肩をすくめる。
「親というのは」
少し間を置く。
「子供が思った通りに生きなくても」
「案外、平気なものだ」
彼女が、思わず笑う。
「……本当ですか」
「少なくとも」
視線を外す。
「子供が自分を嫌いになって生きるよりはましだ」
沈黙。
彼女は、ゆっくり息を吐く。
「……一度」
「自分で決めてみます」
立ち上がる。
「失敗したら?」
「その時、また考えればいい」
ドアの前で、振り返る。
「……親に嫌われても」
俺は肩をすくめる。
「自分を嫌いになるよりは、いい」
彼女は、少しだけ笑って帰っていった。
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静かになった事務所で、相棒が言う。
「……親を大切にしたい人ほど、苦しいね」
「ああ」
窓の外を見る。
「だが――」
少し間。
「親の期待する人生を生きる義務までは、ない」
それ以上は言わなかった。
だから――
もう、証拠はいらない。




