序幕
慶長十年十一月九日。
秋風の冷たさが肌を刺すこの頃、大和国(現在の奈良県)において一人の男が、静かな最期の刻を迎えようとしていた。
彼の名は、前田慶次郎利益。
かつては、加賀百万石で知られる前田利家の甥として、その武勇を存分に振るい、晩年は会津藩(後に米沢藩)上杉家に仕えた武士である。
関ヶ原の戦いの際に出羽国で勃発した『慶長出羽合戦』では、敗北した自軍の大将であり、莫逆の友でもあった直江兼続を逃す為、自慢の愛馬・松風と共に皆朱の槍を振るい、最上伊達連合軍を退けた。
そんな彼もまた、人の子であった。如何に優れた武勇があれど病が相手では些か分が悪かったのだ。
腹の病に侵された慶次は、大和国の地に建てた『無苦庵』にて余生を過ごしていた。
「慶次様。御加減は如何ですか?」
「知通か……夢を、見ておった」
「夢、ですか?」
床に伏し、天井を朧気な瞳で見つめる慶次。
「それはそれは、見事な金糸の髪を持つ……透き通る肌の女人であった」
まるで目の前にその女人がおり、震える手で掴もうとする慶次の姿に、家臣である野崎知通は苦笑を浮かべる。
「ふふ……こんな時にまで、おなごの夢でございますか。なんとまぁ慶次様らしい。しかし、それは良き夢でございましたなぁ!」
「それと、かつて共に戦こうた者達も、現れてのう……」
「それは……どの戦いで御座いましょう? 慶次様は多くの武功があります故、思い出すだけでも大変ですな」
「…………」
「それにしても今日は冷えますなぁ。もうすぐ粥も出来ます故、いましばらくお待ちください」
「…………」
「おや……慶次様? はは、またいつもの悪戯ですかな。流石に死んだふりなど縁起でも、な……け、慶次様!? 誰か! 誰かー!!」
知通が粥の準備をしている間に、慶次はひっそりと息を引き取った。
慶長十年。御歳七十三歳。
多くの戦いで武功をあげ、奇抜な姿と振る舞いを好む傾奇者として、世に名を知らしめた前田慶次郎利益。
その最期は、実にあっけのないものであった。
徐々に遠ざかって行く、知通の声。
久遠の眠りに就こうとする暗闇の中で、慶次は最後の願いを強く想う。
(あぁ……病になど、負けたくはなかった。死すならばせめて戦場で……いや、違う。生きたい。生きて、この世をもっと楽しみたい。
もっと……俺は、あの夢の女人のような美女を抱き、旨い酒を飲みたかったのだ)
それは、最後の願いとしてはあまりにも俗なものである。しかし……
『貴方の願いの声が聞こえました』
無法天に通ず。一見すると無作法なものであっても、時には天に通ずることもある。
天より伸びてきた女人の手が、慶次の身体を掬い上げた。
慶次は少しの戸惑いを見せながらも、眼前の女人へと問いかける。
(この透き通る程に美しい声……淡雪の如く白い肌。お主は……夢に出た女人。いや、その怪しいまでの美しさ……。まさか、お主は物の怪の類いなのか?)
『ふふ、違います。私は、運命を司る女神。貴方の生きたいという強い想いが、他の想いと交わりあってゲートを開いたのです。さぁ、行きましょう人の子よ。
この世界とは異なる世界、アンドアの地へ……』
女人がそう言いながら腕を振るうと、慶次と女人の姿は淡い光に包まれ、霞となって消えてしまった。
「うぅ、慶次様……あ、あれ? 慶次様!?」
知通が人を呼びに行って戻ってきた時には、既に慶次の姿は無かった。
確かに、先ほど慶次は息を引き取った。その最期を確かに確認したはずなのに、肝心の亡骸がそこにはないのだ。知通は狐につままれたような思いであった。
結局、その後も慶次の遺体は見つかることがなく、苦心の末に知通は慶次の墓についてこう残した。
『則刈布安楽寺に葬る。
其林中に一廟を築き、方四尺余高五尺の石碑を建つ。
銘に、龍碎軒不便斎一夢庵主と記せり。
生前の姓名及び没した年号月日は訳あって記ず』
慶次が死んだのかどうかも判らず、また自身が使える主人の遺体を納めていない墓に、慶次の名を記すことを躊躇った為だ。
こうして、七十三歳で病によりこの世を去った天下無双の傾奇者、前田慶次。
その新たな物語が、いま静かに幕を明けようとしていた。
※以前執筆していた物をブラッシュアップして投稿していきます。こちらは不定期掲載で、一話のボリュームも多めになります。




