其の八 誕生
「──すると川上から、
どんぶらこ、どんぶらこと、
二つの大きな桃が流れて来ました──」
──古の語り部の言
「──両方とも、なんと美味しそうな桃だろう。
しかし、とても二つは抱えられない──」
──とある老婆の言
「胎内記憶」と呼ばれる言葉がある。
明確な根拠は不明だが、胎児に意識があり、出生前のことを鮮明に憶えているというものだ。多くの場合、その記憶は四歳頃を境にやがて消えてしまうという。
躰が七尺にまで成長した桃次郎が、未だにそれを保ち続けているのは実に驚きだ。けれども、本人はあまり良いことだと思ってはおらぬ。
──辛い経験がフラッシュバックするからである。
*
一番最初の記憶は、温かさだ。
まるで甘い蜜のような羊水に包まれ、一本の細長い臍帯で母のような存在と繋がっている。その安心感は地上のあらゆる快楽、あるいは愉楽よりも尊い。
──いつまでもこのままで──
ふと、そんなことを願ったような気もする。
隣には、自分と同じくらいに育ったもう一人の兄弟。
ごく細く、とてもわずかだが、彼とも大いなる命の幹を通して繋がっているのが感じられる。
──ブツン。
突然、連帯感が消えた。
暖かな母との繋がりも、もう感じられない。
──いやだ! 怖い!
ざぶん。
何か荒々しくうねる、水の中に落ちた。
自身は羊水に浸かっているので、はっきりとは解らない。
それでも外界を隔てる厚い羊膜を通して、水の冷たさが伝わってくる。
──いやだ、いやだ! 助けて!
小さく、短い四肢を何度もバタつかせる。抵抗は虚しい。
──ふふっ。
誰かの笑い声が聞こえた気がした。
無邪気なような、それでいてこちらを嘲っているような、そんな声。
羊水を伝わり、羊膜を越えて、すぐ近くからそれは聞こえた。
──そうか。
──兄弟も、一緒に落ちたんだ。
*
水の流れに身を任せている内に、兄弟の声は聞こえなくなった。
ほんの一瞬、年老いた女の声を聞いたようにも思ったが、気のせいかもしれぬ。
急こう配の激しい流れに差しかかるたび、羊膜が水の底近くに沈み込み、もう浮き上がれないのではとの恐怖が襲う。
天地が逆さになり、もみくちゃにされる不快感。
頭のどこかで、なんとなくこれは罰なのだろうかと考える。
──母から遠く離れてはいけなかったのだ。
一際、激しい揺れ。
川底から張り出した硬いものに羊膜がぶつかり、かつ引っかかってしまっている。
冷やされてゆく羊水。酷く寒い。
──誰か、助けて──
急に、躰が浮き上がる感覚。
外気に触れたからか、少しずつ寒さも和らいだ。
羊膜のすぐ向こう──本当に近くから、酷くしわがれた女の声。
「──うわあ。なんて薄汚い桃だろうねえ! ボロボロじゃないか」
*
「──まったく、アンタなんか拾って来るんじゃなかったよッ! 本当に大失敗さね!」
すき間風の差し込む薄ら寒い屋内に、老婆の声が響く。
「あたしはね、たんに桃が食べたかっただけなんだ。それなのに出てきたのは赤ん坊。果肉はちっともありゃしない! ためしに皮のあたりを齧ってみたら、吐き気がするほど苦いときた。いいかい? アンタは厄介者。──失敗作の苦い桃さねッ!」
風の強い戸口に立ち、桃次郎はその叱責に黙って耐えていた。
何か口を挟めば、そのときは厳しい罰が飛んでくる。年老いて痩せこけた老婆の力は大したことはない。恐ろしいのは夫の方で、そいつはたいてい何か道具を使う。
外から引き戸が開き、大きな雪片とともに冷気が舞い込んだ。
「邪魔だ」
背中に強い衝撃を受け、桃次郎の小さい躰は前のめりに土間へと倒れ込む。蹴った相手は戸を閉めようとはせず、耳元に口を近付け、言い放つ。
「何度教えたら解る? お前の場所はここじゃない。さっさと出ろ」
刺激しないようにゆっくりと立ち、なるべく視線を避けた。
老婆の夫である老人──同じくらい痩せこけている──は、桃次郎の目を嫌っている。反抗的で酷く薄気味悪いらしい。
かつて二人の間には、長男がいたと聞いた。流行り病ですぐに亡くなったようだが、それと比べて、桃次郎はあらゆる面で劣っているのだという。
外に出ると、乱暴に引き戸が閉め切られた。
辺りは一面の雪景色。
吐く息はどこまでも白く、躰は自然と震え出して止まらない。
厚く雪の積もった藁ぶき屋根の軒下で、桃次郎は唯一の楽しみである夕食を待つ。
やがてさっきと同じように、乱暴に引き戸が開いた。
びちゃびちゃと音を立てて、雪の上に残飯がばら撒かれる。
大喜びで、それを貪る桃次郎。
育ち盛りの子供には、とても足りぬようにしか見えぬ。
──にもかかわらず、
一口食べれば一口だけ、二口食べれば二口だけ、躰は大きくなっていくのであった。




