其の七 乙姫
「リュウグウノツカイ」という魚がいる。
長くて紅い背びれ・腹びれを持ち、全長はおよそ十尺(約3m)。大きいものは二十六尺(約8m)にまで及ぶ大型深海魚である。
桃次郎の目の前には、まさにそのリュウグウノツカイがいた。
ただし、顔面の部分が、というべきであろう。
薄っぺらく、細長い魚の頭──それがなんと、筋骨隆々の人間の肉体の上に載っかっている。その肌はつるつるとした微細なウロコに覆われ、妖しい光沢があった。胸板は厚く、手足は石柱のように太い。
肉づき、身体つきから、かろうじて雌だと解る。
すべてが──桃次郎の四倍だ!
おおーおっうろおおっうおおろろろおおおおぉーーーん!
魚の口が開き、咆哮が飛び出した。
空気は震え、まるで荒れ狂う海風か嵐のよう。凄まじい風圧に、桃次郎が一瞬目を細めたその瞬間、頭上から巨大なパンチが降ってきた。
「っぐう!」
とっさに両の腕をクロス。
受け止めるが──額に激しい衝撃。二本の腕が頭にめり込んだと錯覚したほどだ。急に視界がかすみ、頭はふらふら。足元もおぼつかぬ。
若干怪しい呂律で、桃次郎は鬼の呪言を口にする。
けれどもそれを阻止するかのように、今度はもう一つの拳が真横から飛んできた。
一瞬、何が起こったのか解らなかった。
ただ身体は宙にあり、すっ飛ばされて行く浮遊感。
やがて肩や後頭部、背中に激痛が走った。六角柱の壁面に激しく叩き付けられたのだ。
──ズズン、ズズン。
地面を揺らしながら、半魚巨人が迫り来る。
自身の躰を見やると、鬼化は中途半端に終わっていた。
ところどころ肉が盛り上がったり、皮膚の表が硬質化しているだけだ。
それでも鬼の気と血液が、痛みをかなり和らげている。
ズウン。
半魚巨人が足を止めた。両の拳を握り合わせると、そのまま天井高く振り上げる。
桃次郎は早口に、もう一度呪言を唱えた。
ぐうるるうるるるうるううう!
こちら目がけて振り下ろされた両の拳。
それをパンプアップした鬼の両腕で受け止める。
が──かなり重い。
鬼化したとはいえ、相手との身長差はおよそ十五尺(約4.5m)。
筋肉量がそもそも違い過ぎる!
屈めた腰はさらに下がり、やがて限界を迎えた。
「ぐおおッ!」
潰される虫みたいに、躰が岩盤の床に打ち付けられた。
握り合わされた拳は、桃次郎の胸から腹の上半分を覆っている。
まるで巨大な岩の重量感。自分の腕は、胸と相手の拳との間にはさまれ──もう力が入らぬ。
「──ねえ、今、どんな気持ち? どぉんな気持ちいいいいいい?」
遠くから、魚クンの声。
「──母上はお目覚めになったばかりで、とてもお腹が空いていらっしゃる。
つまり──これからテメエは、生きたまま食い殺されるってことだ──ボゲェェ!
──楽に死ねると思うなよ?」
光沢を帯びた巨人の顔が、ゆっくりと上から迫って来た。
躰を動かそうとするが、ビクともせぬ。脚をバタつかせて蹴ろうとするも、相手はそこに膝を折り曲げ、押さえ込まれてしまった。
ひし形の魚の顔面──その下に結ばれている、への字口。
それが徐々に開く。上から下ではない。全方位に開いて行く。
現れたのは──格納されたもう一つの口だ!
ホホジロザメの下顎みたいに、鋭い歯が二重、三重に並んでいる。
ガチガチガチガチガチガチガチ!
凄まじい高速運動をしながら、それが前進してきた。
堪らず、桃次郎は別の呪言を試みようとする。しかしいま鬼化を解くならば、通常の筋肉で巨人の体重を受け止めるに等しい。最悪、圧死は必至──
──いや、待てよ。
二つの呪言を織り交ぜながら唱えたとしたら──?
格納された口があと三寸(約10cm)に迫ったとき──
桃次郎の口から、燃え盛る三つの炎が吐き出された!
熱気の中、半漁巨人は見たであろう。
喰わんとした相手の顔が、犬のような鬼のような、得体の知れぬものに変わったのを──
おっおっーうおっおろろろおおおおぉーーーん!
叫び声と共に、握り合わされた拳がゆるんだ。
鬼の躰を揺り動かし、自由になった腕で押し退ける。脚の上には、未だ膝。
食らえとばかりに新たな炎を追加する。
赤、黄、橙。
三色のうねりは巨人の腕を這い登り、肩を焦がし、すでに燃えている顔面を再び火達磨にした。
──ズズ、ズウン。
後ろへ崩れた拍子に、膝が離れた。
飛び起き、一度身をよじる。脚の骨に違和感。折れているのかもしれぬが、もう知ったことか。辺りに広がるのは、香ばしい焼き魚の匂い──
「──お前。顔に似合わず──美味そうだな」
岩盤に伏し、巨体を揺すってのたうつ半魚人に、桃次郎は言う。とはいえあらゆる海の生き物は、その躰に潜り込んだ寄生虫が怖い──
「──しっかりソテーしてやるぜ!」
鬼のような犬の口から、青い炎がほとばしる。
一直線の火炎放射に無数のウロコは弾け飛び、パチパチと火花を散らす。剥きだされた魚皮は瞬時に黒く焼け焦げ、悪臭を発した。消えぬ炎にその奥は、一度真っ赤に輝くと、まるで火葬の煙のごとく気化、あとにはただ白い灰が残るばかり。
「おっと。いけねえ、いけねえ」
桃次郎は火を止めた。
気持ち良くなってやり過ぎてしまった。危うく、肝まで焼き尽くすところだ。
ほぼ胴体だけの丸焼きとなった巨人。
早速いつもの作業に掛かろうかと考えていたら──目の端に動くもの。
見やると、背を低くし、こそこそ逃走を計ろうとする魚クンである。
「──よう。今、どんな気持ちだ?」
鬼の足でドカリと踏み付けると、魚クンは悲鳴をあげ、
「お、お願いします! なんでもします! ──そ、そうだ! 竜宮城へ案内しますよ。あそこにはまだまだ、たくさん化け物がいるんだ。僕が客人として連れていけば、アイツらはみんな騙されて──」
桃次郎は足を放すと、相手に顔を近付けて言った。
「安心しろ。俺は、キャッチアンドリリースはしない。──親子共々、ちゃんと喰ってやるからな?」
天井高い洞の中、絶叫はどこまでもこだまして行った──




