其の九 人買い
「──赤子は、一杯食べれば一杯だけ、二杯食べれば二杯だけ大きくなりました。
一つを教えれば十の八十乗まで解ってしまうほどです。
三日後、彼は社の境内で、神職たちを相手にむずかしい議論を始めていました。
取り巻く見物人はみな、彼の知恵と答えに舌を巻くほどでした──」
──古の語り部の言
年老いた養父母の態度は日に日に変わっていった。
ことある毎に折檻を繰り返していた老人も、徐々にそれをしなくなった。
──普通の童とは明らかに違う、異常な成長スピード。
その身長はまだまだ低いものの、二人に迫ろうとしている。相変わらず老婆の罵倒は留まることはなかったが、彼らが自分を恐れているのは子供心にも何となく察せられた。
ある夕刻、老夫婦に言いつけられた毎日の雑用──柴刈りや、洗濯など──から戻ると、家の戸口の前に二人の男がいた。
一人は括袴を締めた中年。
もう一人は、実に短い小袖をまとった髭面だった。
「──よう、兄ちゃん」中年が言った。
「これからオジサンたちと一緒に、良い所へ行こう」
「そうだぞ」
進み出て、髭面も言う。
「給金もいっぱい出て、爺ちゃんや婆ちゃんにも楽をさせてやれるんだ」
全然、話が見えなかった。
ただ立ち尽くしていると、髭面が近付いてきて桃次郎の肩をつかんだ。
「──おい。気付けや、アホ。お前は売られたんだよ」
とっさに相手の腕を払い、その腹に向かって手を突き出していた。
夫婦からほとんどまともな教育を受けていない桃次郎。商いはおろか、貨幣、まして人買い商人のことなど知る由もない。
軽く小突いたつもりだったが──髭面は盛大にぶっ倒れた。
桃次郎は我が事ながら驚いた。暴力とは振るわれるものであって、振るうものではなかった。まさか自分に、こんなにも力があったなんて──
「このクソガキ!」
髭面が起き上がり、飛びかかってくるがひらりとかわす。
突き出された拳を払うと、また相手は倒れ、地面を転がった。
自然と、笑みがこぼれていた。
自分の中の本当の自分──
長らく隠され、縛り付けられていたものが今、
ゆっくりと解き放たれようとしている。
言葉ではなく、ただそう感じるのだ。
ずっと忘れていて、しかし一番大切な何か。
大いなる幹に連なる原初のもの。
それがあと少し、本当に、手の届きそうなところにある──
「バカタレ! この出来損ないがッ!」
乱暴に戸口が開き、老婆が飛び出してきて怒鳴った。
瞬間、目覚めそうだった何かは霧散し、桃次郎は抵抗を止めた。
条件反射であった。
生まれ落ちた瞬間から繰り返された、折檻を伴う躾。
夫婦の怒鳴り声を聞いたら黙り、目を合わさず、ただ従う──
すべての動きを止めた桃次郎に、髭面の拳がめり込んだ。
硬く握られた大人のゲンコツ。一発や二発でなく、容赦のない連打。目の前が眩み、もう立っておられぬ。
地に伏せると、今度は蹴りがきた。こちらもまた容赦がないが──道具を使う養父に比べれば幾らかマシである。
「商品を壊す気かッ! やめやがれ!」
括袴の男が駆けてきて、髭面を止めた。
あちこちが痛み、くらくらとする意識の中、老婆の低くしわがれた声がこだまする。
「──いいかい、桃次郎? 今度からその人たちの言うことをよく聞くんだ。勝手に逃げ出して、あたしたちに損をさせたら承知しないよッ!」
*
墨を流したような夜空に上弦の月が覗いていた。
疎らに灌木の生えた林の中の一角。男たちはさっきから焚火に枯れ枝をくべ、暖を取っている。桃次郎はといえば、両の手首に荒縄、口には猿ぐつわという格好。躰は一本の大きな木に幾重にも結えられていた。
痛みはずいぶん引き、腫れも治まってきてはいるが、空腹でかなわぬ。
ただでさえ、普段から腹いっぱいの食事は与えられていない。
グウと鳴り出すこちらの腹を尻目に、彼らは包みから干し肉らしきものを出してむしゃむしゃ食べ、また道中の畑で盗んだ生の野菜をバリバリと齧る。
食い物の恨みは恐ろしいというが、間違いではない。
今は殴られたことよりも、食事を与えられぬことの方が腹が立つ──
「──どうだ、兄ちゃん。お前も食うか?」
括袴の男が、目の前にしゃがみ込んでそう言った。
差し出しているのは残飯──ではなく、男たちが食べているのと同じ肉や野菜だ。
「実は冗談で、やっぱり飯抜き!」
どうせそんな展開だろうと思っていたら、男はしっかりと猿ぐつわを外してくれ──手首の縄は解かなかった──、広げた手には食べ物を握らせてくれた。
──まさか毒でも入っている?
しばらく悩むも食欲が勝った。噛み千切り、咀嚼する。
変な臭いや味は、特別感じなかった。
「──おい。必要ねえだろ?」
焚火の向こうで、髭面が言った。
「食い物がもったいねえ。そんなガキ、飢えさせときゃいいんだ」
「いいから黙ってろ!」
括袴の男が怒鳴った。
あまりの剣幕に、髭面は驚いたような、少しムッとした顔をする。
やや口調を和らげ、括袴の男は続けた。
「いいか、相棒? コイツに飢えられちゃ困るんだよ。なにせ俺たちは──最大最強の大当たりを引き当てちまったんだからな?」
「──大当たり? どういう意味だ?」
括袴の男がニヤつきながら答える。
「──都の東に現れた奇跡の桃の御子の話、聞いたことねえか?」
瞬間、桃次郎はぴたりと咀嚼をやめた。
「なんでもその童、一度に十人の声を聞き分けたとか、躰が金色に光って見えたとか、嘘か真か未来を予知しただとか──
まあとにかく、大人顔負けの神童なんだそうだ。
噂じゃ、川に流れているのを拾われたって事らしいんだが──
どうやらコイツも、その同類に違いない」
括袴が、ぐっと桃次郎を見た。
「──そんな胡散臭い話、本気で信じてるのか?」と髭面。
「そりゃあ俺も、ついさっきまで信じていなかったさ。けれど、腕っぷしの強いお前が簡単に投げ飛ばされるのを見りゃ、考えも変わる。それに老夫婦から聞いたコイツの経緯は、まさしく噂に酷似したものだった──」
「話が見えねえ。──むしろ薄気味悪いだけだろ?」
「いいか、相棒? こういう奇々怪々な童──神だか仏だか、あやかしだか知らねえが、世の中にゃ喜んで金を出す好事家ってのがいるんだよ。例えば俺の知ってる野郎なら、老夫婦に払ったお銭の百倍、いや、下手すりゃ千倍で売れるぜ?」




