序
「──これはたいへん昔の話ですから、あったのか無かったのか定かではありませんけれども、本当のこととして、聞かねばなりません」
──古の語り部の言
「──甘い桃は私のところへ来て下さい。苦い桃はあっちに行って下さい──」
──とある老婆の言
猿山の麓の村人たちは皆、猿のような顔をしており、また酷く毛深かった。特に、通りかかった畠で鍬を振るう男──
褌からはみ出した尻は熟れた桃のように赤く、まるで皮膚病か何かと勘違いするほどである。
「猿山への参拝路はこっちか?」
桃次郎は真っ直ぐに伸びる農道から、畠の中の百姓に向かってそう言った。
七尺(約2.1m)ある桃次郎の躰──
胸板は地侍の甲冑のように厚く、腕は脚のように太い。
その迫力に驚いたのか、百姓は上から下まで舐めるようにこちらを見、
「巡礼の方ですか? しかし、ずいぶんと軽装に見えますが──」と鍬を下げる。
「参拝路はこっちか?」
道の先を指しながら、桃次郎は再度同じことを問うた。
「いけません、いけません!」慌てたように、百姓が続ける。
「そんな草鞋じゃ絶対に危険だ。最近も滑落して亡くなった人がいたんです。よかったら我が家へいらっしゃい。丈夫な麻の綱や、藁の長靴もありますから」
「──お前、登山用品を売ってるのか? ずいぶんと用意が良いな?」
「ええ、もちろんです。なにせ色々やらないと、食えませんから──」
農道の先、藁ぶきの平屋へと歩み出す百姓。
こちらに見せたその毛深い背中──桃次郎は腰の日本刀を滑らせると、縦一文字に斬りつけた。
「キッキィィー!」
甲高い獣の吼え声。
ふり向いた猿顔の百姓は、本当の猿へと変じている。
かつ刀身の先端も、しっかり鍬に受け止められていた。
「──キサマ ドウシテ 解ッタ?」
猿の口から漏れる、モゴモゴとした雑音。
「お前のような人間がいるものか。──ちったあ変化術を磨きやがれッ!」
体重を武器に相手を押しやり、木でできた華奢な鍬の柄を、返す刀で斬り捨てる。
「ゥキイイイイイイイ!!」
猿の右腕が宙を舞い、左手がポトリと地面に落ちた。
ほとばしる鮮血の中に崩れる猿の脳天を、ずぶりと一突きして黙らせる。
けれども騒ぎを聞きつけた村人が、正体を現わして駆け寄ってきた。
雄、雌、あるいは童──
猿共の手に手に握られた鉈や鎌。
なかには巨大な杵を握った猿もある。
「──言っとくがなあ、俺は相手がガキだろうと容赦しねえぞ?」
周囲を睨むも、警告は虚しかった。
口々に奇声をあげ、得物を振り回し、猿共が一斉に飛びかかる。
体毛に覆われた彼らの腕は酷くか細い。が、伸ばせばリーチは長く、首や脚めがけて打ち下ろされる斬撃はまるでしなる鞭のよう。
手首のひねりで日本刀を繰り、一つ一つ受け流すがとても間に合うものではない。閃く白刃を目で追いつつ、桃次郎は呪言を口にした。
「──人世にありて、人身の生き血をすすり──」
果たして猿共の中に、それを理解できたものが一頭でもあっただろうか。
「ただ悪行の限りを尽くし──」
その言葉は人間のものでもなければ、まして猿のものでもない。
隠に由来し、本来は姿見えぬ者──
あるいは地獄の刑務官たる獄卒──
「──やがて真の鬼とならん!!」
──まさに、悪鬼の操る言語であった。
桃次郎の躰がメキメキと音を立てて変化する。
脚のように太い腕は倍の大きさに──脚は胴の太さへと膨れ、今にもはち切れそうに血管が浮かぶ。巨木のごとき首の上、桃次郎の額には二つの角があった。まるで肉食獣の牙のように、緩やかなカーブを描いた皮角であった。
「キッキイイ!!」
鉈と鎌が肉にめり込み、続いて後頭部を杵が襲った。
ペキン、パキン──
よく砥がれ、波紋の浮いた刃先が、まるで板切れのように折れ飛んだ。
杵は一度、どすんと桃次郎を揺らしたが、その拍子に柄の部分が割れ、地面へと転がり落ちる。
猿共は一瞬、動きを止めた。
皆、次にどうすべきか判断がつかなかったのであろう。
しかし桃次郎には、それで充分だった──
*
変化を解いた桃次郎は一人、全裸で畠の中に立っていた。
辺りには折り重なるような原形を留めぬ死骸──
「──キサマ 鬼ノ 仲間 ナノカ──?」
まだ息のある一頭が震える声でそうつぶやく。
桃次郎は転がっていた日本刀を拾うと、そいつに向かって歩み寄り、
「まさか。鬼ヶ島はとっくに征圧した。──全員、肝を喰ってやったさ」刀の先で黙らせた。




