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モラハラ婚約者から助けてくれたのは悪い公爵様でした

作者: 黒江零

「お嬢様、これは……とても申し上げにくいことなのですが」


 子爵家令嬢エステル・ド・リュミエールの書斎、その机に封筒が置かれる。気まずそうに顔をしかめている探偵を見上げて、エステルは拳をぎゅっと握った。

 ああ、やっぱりそうなのね……そう確信しながら封筒を開けたエステルは、出てきた写真を見て吐きそうになる。

 数枚の写真には、どれも同じ男女が映っていた。カフェで手を重ねながらお茶をする姿。身を寄せ合って歩く姿。着飾って歌劇場に入っていく姿。まるで恋人同士のようだった。

 けれどこの写真は罪の証拠。なぜなら、映っている男性はエステルの婚約者なのだから。


「アルベール様はこちらの女性と頻繁に出かけておられます。撮影した日時と場所、それ以外の情報も、同封した書類にまとめています」

「ありがとう。ごめんなさいね、こんな見苦しい仕事をさせてしまって」

「いえ……」


 探偵は苦々しい表情で口を閉ざし、意を決したように顔を上げる。


「失礼を承知で申し上げますが、婚約破棄の手続きを進めるべきです。確かに、アルベール様は伯爵家の嫡子で、子爵家よりも格上のご身分。ご両親がお決めになった婚約で、しがらみもあるかと思います。ですが、このままでは」

「いいのよ」


 エステルはうっすらと笑みを浮かべて、探偵を見上げた。


「あなたは優しいのね。評判通りだわ」


 そう告げると、エステルは用意していた封筒を机の上に置いた。探偵に差し出すと「これ以上の詮索は無用よ。どうもありがとう」と釘を刺す。報酬を受け取った探偵の悲しげな表情に、いくらか心が救われた。


「本当によろしいのですか?」

「ええ」


 にっこりと微笑んで、探偵を見送る。

 彼がいなくなった後、エステルは息を震わせて顔を覆った。

 十二歳の頃に決まった婚約。恋愛感情のない結婚でも、夫と力を合わせて幸せになりたいと、そう思って努力をしてきた。なのにその結果が、浮気。

 エステルはこれまでの出来事を思い出して、深いため息をついた。


 大好きだった文学サロンでの活動。本を愛し、仲間と共に作品を書く喜びもあった。それを「陰気くさい趣味」「聞いただけで気が滅入る」と否定されてから、仲間との交流も、作品を生み出す喜びも、全て遠ざけた。アルベールの前で本のことを口にするのもやめた。


 エステルは人と話すのがあまり得意でなく、パーティに苦手意識を持っていた。けれど社交の場を好むアルベールに、いつも連れまわされていた。伯爵家の妻になるのだから、慣れるべきだと自分に言い聞かせてきたが……服装に文句を言われ、派手に着飾ることを強いられるのは、とてもつらかった。それでも理想の妻になるために我慢した。


 けれど、何よりも心苦しかったのは、それらではない。


 幼い頃からずっと仲の良い親友、ヴィクトリア・ド・コレット伯爵夫人。彼女を非難されることが、一番つらかった。


 確かに彼女は淑女らしくない、快活ではっきりとした性格の女性だ。しかし、そんな彼女を見ていると、元気を分けてもらえるような……そんな気持ちになる。内気な自分にはない強さが眩しくて、大好きだった。憧れの女性だった。

 だというのに「あんな女と付き合うな」「お前までああなったら恥ずかしくて外に出せなくなる」などと、ひどい言葉を浴びせられてきた。反抗すれば「ほら、毒されているじゃないか」と言いくるめられ、これ以上ヴィクトリアを否定されたくなくて口を閉ざした。


 アルベールはいつも冷たくて、そうさせているのは気弱な自分のせいなのかと、そう思ってきた。今回の浮気だって、エステルに愛想をつかしたからだろう。魅力のない自分が恥ずかしくてたまらない。

 写真に映る女性は、赤みのある茶髪を美しく結った、可愛らしい人だった。華やかな金髪と青い瞳を持っていても、それを際立たせる能力がないエステルとはまるで違う。

 考えれば考えるほど悲しくなって、エステルは写真を封筒に戻して引き出しの奥へ隠した。

 一人で抱えるには、あまりにも大きすぎる悩み。思い浮かんでいたのは、かけがえのない親友の姿だった。




「ちょっと、それどういうことよ」


 色白の肌を赤く染めて、つぶらな黒い瞳を吊り上げている親友を前にして、エステルはしおしおと体を丸めてしまう。こんなにも怒っている姿を見るのは、いつぶりだろう。ああそうだ、アルベールの言いつけで会うのを避けていたと知られた時以来だ。

 あれから疎遠になってしまったが、どうしても会いたくなって彼女の暮らす屋敷を訪ねた。急な訪問だというのに、彼女は快く出迎えてくれた。けれど期待を裏切る話題になってしまって、ますます申し訳なくなる。

 ヴィクトリア・ド・コレット伯爵夫人は、談話室のテーブルに荒っぽくティーカップを置くと、一気にまくし立ててきた。


「婚約中なのに浮気だなんて許せないわ! エステルのことを馬鹿にしてるのね、本当に信じられない! さっさと証拠を叩きつけて別れちゃいなさいよ! あの男のことは前からずぅぅぅぅっと気に食わなかったの! 上から目線で偉そうにしちゃって!」

「あなたの気持ちは分かるけど、そんな簡単に婚約破棄だなんて」

「証拠が! あるんでしょうが!」

「うん……」


 自分の代わりに怒ってくれる親友に、戸惑いながらも救われた気持ちになる。悲しむばかりのエステルに、怒ってもいいんだ、と思わせてくれた。

 けれど、どうしてか立ち向かう力が出てこない。支えを失ってしまったかのように、ずっと落ち込んでいた。何をしても無駄だと、そう感じてしまうのはなぜ?


「わかってる、そうした方が自分のためになるってことも。結婚式の予定も迫っているし、早く動くべきだって、ちゃんと分かってるの。でも、今は何をする気も起きなくて……」


 ほろり、と瞳から涙がこぼれ落ちる。雨のようにぱらぱらと落ちるそれは、止まる気配がない。力なくうなだれていると、ヴィクトリアがそっとエステルの両手を握った。


「今のあなたに必要なのは、休息ね。つらかったでしょう、気づいてあげられなくて、ごめんね」


 優しく微笑まれた瞬間、涙が溢れて俯いた。ヴィクトリアが隣へやってきて、励ますように抱き締めてくれる。

 しばらくの間、そうして甘えさせてもらっていると、ヴィクトリアが言った。


「アルベールが好き勝手しているのに、あなただけ我慢しているのっておかしいと思わない? 久しぶりにサロンへ行きましょ。みんなあなたのこと、ずっと気にかけてたんだから」

「でも」

「言ったでしょ、休息が必要だって。それに事情を聞いてもらったら、助けてもらえるかもしれないわ」


 こんなみっともない話、ヴィクトリア以外の誰かに聞かせるなんて、無理だ。みんなに努力が足りないと非難されるに決まっている。


「……顔を出すだけなら構わないわ。でも相談はしない」

「あなたがそうしたいなら、それでもいいと思う。でもね、誰かを頼るのは決して悪いことじゃないわ。それだけは覚えておいてね」

「ええ」


 もう一度だけヴィクトリアをぎゅっと抱き締めると、エステルは微笑んだ。


「話を聞いてくれてありがとう。おかげで楽になったわ。急に来ちゃって、ごめんね」

「いいのよ。私のこと、頼ってくれて嬉しかった。アルベールの言うことを聞いたまま、ずっと会えなくて絶交される、なんてことにならなくてよかったわ」


 互いに笑うと、すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干す。


「ちょうど明日の午後に集まりがあるの。場所と時間はいつも通り。体調と予定に問題がなければ、ぜひ来てちょうだい。みんなには私から言っておくから」

「ありがとう、ヴィクトリア」


 手を握って感謝の気持ちを伝えると、彼女は安心した様子で頷いた。




 翌日、エステルは縦長の古い家の前に立っていた。

 多くの人が行き交う街中に、目立たずひっそりたたずむ姿は、どこか自分に似たものを感じさせる。

 深呼吸をして胸に手を当てると、エステルはドアマンに会員証を見せ、階段を上がって室内に踏み込んだ。

 ここはアパートとして使われていた建物なので、部屋数は多い。文学サロンの主催であるガブリエラ夫人が買い取った物件で、部屋はサロンメンバーの各部門代表が許可を得て利用していた。

 小説を書いて発表する者もいれば、推し作家について語る者もいる。それぞれが喧嘩をしないようにという、ガブリエラ夫人の優しい心遣いだ。

 けれど最上階の広間だけは、特別な場所。そこには交流を目的としたメンバーが集まり、お茶とお菓子を楽しみながらくつろいでいる。ガブリエラ夫人もおそらく、そこにいるはずだ。

 久しぶりの訪問に、彼女はどんな反応をするだろう。あまり考えたくない。

 緊張しながら階段を上がり、とうとう最上階に着いてしまうと、ソファや椅子に座ってくつろいでいた人々の視線が集まった。エステルの姿を確認すると、賑やかだった空間がしんと静かになってしまう。


 ああ、やっぱり来るべきじゃなかったんだわ。


 後ずさって逃げかけた時、奥のソファに座っていた女性がすっと立ち上がった。

 蜜色の髪を美しく結い、真珠の耳飾りをした彼女が、赤い唇に笑顔を浮かべる。


「あなた、エステル? 見間違いではなくて?」

「え、ええ……もちろんです、ガブリエラ夫人」

「よかった! 本当に来てくれたのね!」


 ガブリエラ夫人がとびきりの笑顔で喜ぶと、周りにいたサロンメンバーが拍手をしてくれた。


「待ってたよ、エステル君」

「もう二度と会えないんじゃないかと思ってた」

「続きが読みたいって、ずっと言ってたもんな」


 それぞれが口にする言葉は、どれもエステルの訪問を歓迎するものばかり。戸惑っていると、隅の方からヴィクトリアが駆け寄ってきた。


「いらっしゃい。ほら、こっちに来て」


 手を握られて、そのまま連れられる。ガブリエラ夫人の近くにあるソファに二人並んで座ると、ヴィクトリアがお茶を淹れてくれた。


「二年ぶりかしら。もう二度といらっしゃらないかと思っていたけれど、こうして会えて本当に嬉しいわ」

「ご無沙汰して申し訳ありません。夫人はいかがお過ごしでしたか?」

「もちろん、元気よ。でもあなたの作品が読めなくなって、楽しみが一つ減ってしまったわ」


 残念そうに言われて、エステルは照れくさくなる。


「そんな風に言ってもらえて嬉しいです。けれど、小説やエッセイはもう書いていなくて」


 瞬間、周りにいた人々がどよめく。


「ペンを置いてしまったの?」

「ええ……婚約者が、あまりよく思わないので」


 うつむいて膝の上に重ねた手を握ると、残念がる声が次々に上がった。


「優れた書き手の損失だわ」

「なんてもったいない、あまりに惜しすぎる」


 身に余る評価に、エステルはますます居心地が悪くなってしまった。すると、ガブリエラ夫人が「まったくね」と言って扇を広げ、口元を隠す。ぴりぴりと吊り上がった眉から、怒りを感じた。


「ひとの趣味に口を挟んで否定するなんて、あまりにも無粋だわ。それを受け入れてしまっているのも、本当に許せない」

「ご、ごめんなさい……」

「謝らないで。あなたはとても繊細で、だからこそ素晴らしい作品を生み出せる。悪いのはその性格を利用して、いいように扱っているアルベール様よ」


 どうやら彼の評判は、とても広く知られているようだった。

 妻になる者として、きちんと正せていないことに恥ずかしさを覚える。


 アルベールは子供の頃から尊大な人だった。

 従ってくれる者にはとても親切で甘かったが、そうでない者にはひどく冷酷だった。

 いじめられた子は今でも根に持っており、自分の利になることだけに敏感なアルベールの態度は、気高い紳士達に軽蔑されている。

 けれど、何も知らない若い令嬢にはとても人気があった。アルベールは公の場だと人当たりがよく気品もあり、白金の柔らかな髪と端正な顔立ちも相まって、貴公子のようだと何度も羨ましがられた。

 ……ヴィクトリアだけは例外だったが。


「ほら、言ったとおりになったでしょう」


 ヴィクトリアがそう言って、お茶を勧めてくる。カップを受け取ってひと口飲むと、少しだけ気持ちが落ち着いた。


「結婚したら、持ち物にまで文句をつけるようになるわよ。あなたの書斎だって、彼と住む屋敷に作ってくれるとは思えない。そうなったら、あなたは何を楽しみに生きていくの? ずっと言いなりになるの?」


 ヴィクトリアの率直な言葉が、深く胸に刺さった。

 自分にとっての楽しみ。もうずっと、長いこと忘れてしまっていた気がする。前は小説やエッセイを書いて、サロンで発表するのが趣味だった。感想をもらえると嬉しくて、ますますペンが心地よく走った。あの感覚が思い出せなくなるくらい、遠ざかっていたことを知る。


「そう……そうね……きっとそうなってしまうわ」


 想像した途端に恐ろしくなる。アルベールに叱られ、選択する自由を奪われ、ずっと下を向いて死んだように生きていく。そんな人生をこの先もずっと歩んでいくなんて。

 がたがたと震えるエステルに、ガブリエラ夫人が言った。


「ねぇ、エステル。実はあなたに、紹介したい人がいるの」


 顔を上げると、穏やかに微笑まれた。


「人との交流を好まない方で、いつもこっそり遊びに来ているのだけど。彼、あなたのファンなのよ。だからあなたが来なくなって、とても残念がっていたわ。ちょうど今、遊びに来ているから……もしよければ、だけど」


 控えめな提案だが、その人に会ってほしいという意思を感じる。何か考えがあってのことなのだろうか。


「……わかりました。私もお礼を伝えたいので、ぜひ」

「ありがとう」


 ガブリエラ夫人が席を立ったので、エステルも従う。ヴィクトリアに見送られて階下に向かうと、奥の角部屋に案内された。

 ドアの前に立つと、ノックを五回。不思議に思った時、中から「どうぞ」と男性の声が聞こえてきた。ガブリエラ夫人と共に室内に入ると、ピアノの心地よいメロディーと、紅茶の香りが出迎えてくれる。

 分厚いカーテンを閉めて、間接照明だけが灯る薄暗いその部屋は、沢山の本棚に囲まれていた。中央に置かれた机で、ひとりの男性がずっと本を読んでいる。


「またこんな暗い部屋で過ごしているのね」

「見通せる部屋と、開け放った窓は恐ろしいんだよ」


 甘みのある低い声。彼が顔を上げた瞬間、目が合った。

 艶のある黒髪と、灰色の瞳。眼差しは鋭く、がっちりとして大きな体格も相まって、妙に恐ろしい。とても近寄りがたい雰囲気だった。

 着崩したシャツにベストを合わせただけの軽装は、貴族というより商人のような印象を受ける。ガブリエラ夫人のように、財を成した平民なのかもしれない。


「そちらのお嬢さんは?」

「あなたがずっと会いたがっていた先生よ」

「うん?」


 彼がきょとんと目を丸くする。意外と可愛らしい表情に、少し胸が高鳴った。

 ガブリエラ夫人に背中を押されて、エステルは彼の前に進み出る。


「はじめまして。エステル・ド・リュミエールと申します」


 そう言ってドレスの裾を持ち、丁寧にお辞儀をすると、彼が笑って「かしこまる必要はない」と言った。


「俺のことはベルトランと呼んでくれ。それよりも、今言ったその名前……もしかして『日々歳月(ひびとしつき)(あゆ)む』を執筆した、あのエステルさんかい?」


 随分と前に書いたエッセイの題名を言われて、顔から火が出そうになった。


「え、ええ……そうです」

「本当かい!?」


 身を乗り出して驚くベルトランに、ガブリエラ夫人が呆れた様子で肩をすくめた。


「もう認めているでしょうが」

「いやだって、まさか会えるとは思っていなかったんだぞ。それもこんな急に」

「出会いとはいつだって突然なのよ」


 ガブリエラ夫人の砕けた態度に、エステルの口元がふふっと緩む。どうやら、ベルトランと親しい間柄のようだった。

 すると、ベルトランが立ち上がってエステルの前にやってくる。そうして胸に手を当てると、恭しく礼をしてくれた。


「お会いできて光栄だ。君の作品は全て読んでいるよ。どれも面白かったし、エッセイは特に気に入っているんだ。俺とは違った物の見方で、世の中の移り変わりをよく観察している。君にはきっと、美しい世界が見えているんだろうと……そんな風に思いながら、読ませてもらった」


 丁寧な感想と褒め言葉を同時にもらってしまって、エステルはもう胸がいっぱいになってしまった。なんて素敵な人なんだろう、と感心してしまう。


「こちらこそ、楽しんでもらえて光栄です。趣味の作品だというのに、こんなにも褒められてしまって……どうお返ししたらよいのか」

「ならぜひ、新作を」


 そこでエステルはぎくりと強張ってしまう。

 アルベールの不機嫌そうな顔とため息が、鮮明に思い出された。


「……それはきっと、難しいことです。ごめんなさい」

「やはり結婚を機に、ペンを置いてしまったのかな」

「いえ、そうではないのですが」

「婚約者が嫌がるんですって。文学のよさが分からないなんで、もったいない人だわ」


 慌ててガブリエラ夫人を見たが、彼女はすまし顔で扇を取り出し、口元を隠す。

 困惑したのもつかの間、ベルトランが「それは聞き捨てならないな」と冷ややかな声を出した。


「何かお困りなら、力になろう。このご婦人はいつだって、俺にそうした案件を持ってくるんだ。今回だってそうなんだろう」


 頼もしく笑ってみせた後、ベルトランがじっとガブリエラ夫人を見つめる。彼女は目を細めて、その視線に応えていた。

 やはり、ガブリエラ夫人はエステルの悩みに気づいて、ベルトランを紹介してくれたらしい。その心遣いを無下にするのはよくないが、見苦しい話を聞かせてもよいのか迷った。

 するとベルトランが言う。


「夫人、席を外してもらえるかい?」

「この子に悪さしないでしょうね」

「婚約中の乙女に手を出す、狼のような悪い男だとでも?」


 ガブリエラ夫人が「後のことは任せるわ」と言って笑った。そうして素直に部屋から出て行く。ひとり残されると、急に心細くなった。見上げるほど背が高い彼は、やはり威圧感があって顔も恐い。美形ではあるが、圧倒されて逃げたくなる感じだ。


「さて、これで話を聞くのは俺だけになった。それでもやはり、話したくないかい?」


 気遣うような素振りが誘惑してくる。つい甘えて喋りたくなるような、不思議な力を持った人だ。

 それでもじっと口を閉じていると、ベルトランが笑って「それじゃあ仕方ない、本の話でもしようか」と言った。ソファを勧められて、端にちょこんと座ると、彼が本を持って反対側の端に座る。そうしてエステルに持ってきた本を見せた。


「これが何か、分かるかな?」

「いえ……好きな作家の、おすすめの書籍でしょうか」

「まぁ、正解だな」


 ベルトランに本を渡されて、受け取ったエステルは「ヒッ」と声を上げてしまった。


「これ、私の書いた小説じゃないですか!」

「大正解だ」

「なんで持っているんですか!? 作品は私が保管しているのに!」

「あまりにも素晴らしいので、複写したんだ。そのままじゃ見栄えがよくなかったから、印刷所に頼んで本にしてもらったんだよ」

「聞いてませんよ!」

「言ってないからな」


 さらっと開き直らないでほしい。


「安心してくれ、個人で楽しんでる。誰にも読ませてない」

「いえ……そういう問題ではなくて……」


 するとベルトランがふはっと噴き出した。


「君、大人しそうな感じだったのに、意外とやるな」

「あなたこそ、勝手に複写するような人だとは思いませんでした」

「悪かったって。ほら、素直に白状したんだから許してくれよ」


 垂れ目で愛嬌のある瞳が、じっとエステルを見つめてくる。最初は恐ろしく感じられたのに、今は異なる印象を抱き始めていた。


「……わかりました。でも、そうまでして手元に置きたかったのですか?」

「ああ。疲れた時に読んで、元気をもらってた」


 優しい声色に、心が揺れる。


「だからこそ、お礼がしたいんだ。素敵な作品を生み出した人が悩んでるのに、何もしてやれないのは心が痛む。少しでもいい、俺に出来ることはないか?」


 エステルは膝の上で重ねた手を握り、じっと考える。彼になら、話してみてもいいんじゃないか……そう思う自分がいる。商会の女主人として手腕を振るうガブリエラ夫人と懇意にしているのだから、身元はしっかりしているはずだ。この文学サロンだって、入会には審査がある。通過している時点で、相当な身分や地位を持っていることは明らかだ。

 何より、他の人に話を聞かれないよう、配慮してくれる心遣いに信頼を寄せ始めている。

 このまま放置していても、良い方向には転がらない。ならいっそ、ここで話を聞いてもらうべきではないのか。そんな風に思ったところで、心が定まった。


「このことは、どうか他言無用でお願いします」


 そう前置きをすると、エステルはこれまでのことを……アルベールの横柄な振る舞いや、浮気のことまで、何もかも正直に話した。

 ベルトランは一切口を挟まず、黙って耳を傾けてくれる。そうして長い長い話が終わると、彼がため息をついた。


「なるほど、そんなことが。アルベール君の話は耳にしていたが、まさか結婚前に妾を作るようなマネをしていたとは」

「彼をご存じだったのですか?」

「ああ。仕事柄、いろんな情報が耳に入ってくるのさ」


 そう言ってベルトランがにっこりと笑顔を浮かべる。記者か探偵をしている、なんてことはないだろうか。けれど調査のために探偵を調べていた時、彼の名前を知ることはなかった。

 するとベルトランが腕を組み、エステルを見据える。


「それで、君はどうしたいんだい?」

「えっ」

「別れたいのか、それとも関係を修復したいのか。復讐するという選択もあるが、君の将来を考えれば、決しておすすめしない。そんな無駄なことに貴重な時間を使うなんて、愚かにもほどがある」


 ベルトランの言葉を聞いて、自分が何を望んでいるのかをきちんと考える。けれど、さほど時間はかからず、答えはすぐに出た。


「別れたいです。あんな人とはもう、関わりたくない。今はそう思っています」

「婚約破棄した令嬢という、不名誉な傷跡が残ったとしても?」

「はい」


 両親は怒るだろう。簡単に認めてくれるとは思えない。それでも、アルベールと夫婦になって生きることだけは嫌だった。なぜ、エステルだけ我慢を強いられて、彼は自由に振舞っているのか。考えるほどに理不尽な仕打ちが思い出されて、目が覚めたような心地になる。

 エステルの気持ちを確認したベルトランが「わかった」と頷いた。


「安心してくれ、君の願いはきっと叶う。約束しよう」

「……本当に可能なんですか?」

「ああ。任せてくれ」


 穏やかに微笑むと、ベルトランが席を立って「お茶はいかがかな? それともお菓子の方がよかったかい?」とたずねてくる。迷っていると、彼がティーセットと缶詰を運んできた。缶詰に描かれたラベルを見た瞬間、エステルはぱっと目を輝かせる。


「それ、ブラン・ロゼの」

「さすがお嬢様。よくご存じでいらっしゃる」


 老舗菓子店ブラン・ロゼ。誰もが愛するその店は、焼き菓子が特に評判だった。クッキー缶は入荷するたびに即日完売。手に入れることが難しく、ブラン・ロゼのクッキー缶は持っているだけでちょっとした自慢になる。エステルも誕生日に一度だけ買ってもらったことがあり、中身がからっぽになっても大事に保管した。

 ベルトランがそんなクッキー缶を開けて、惜しげもなく皿の上にざらざらと広げ始める。バターの香りが広がって、こくんと唾を呑んでしまった。


「さぁ、悲しい話はここまでにしよう。好きなだけ食べてくれ」

「いいんですか?」

「もちろん。尊敬する作家が目の前にいるんだ、これくらいはしないとな」


 おずおずと手を伸ばして、クッキーを頬張る。バターとミルクの濃い味わいが、口の中を優しく満たしていった。余計な香りづけをしていない紅茶が、クッキーの美味しさをより引き立ててくれる。

 ほっと心和ませていると、ベルトランと目が合った。甘やかすような眼差しに、心臓が跳ねる。

 アルベールと別れるつもりとはいえ、婚約中の身なのに。

 そう思いながらも、エステルはすっかりベルトランに心を許してしまっていた。




 そんな出会いから、半月ほど過ぎた頃。

 書斎で読書をしていたエステルの元に、執事が血相を変えて飛び込んできた。


「お嬢様。今すぐこちらの手紙をお受け取りください」


 齢五十を過ぎ、慌てることなど滅多にない彼が、脂汗を滲ませて一通の手紙を差し出してくる。怪訝に思いながら素直に受け取り、どこから送られた手紙なのかを確認したエステルは、ぎょっと目を見開いた。


「これって……」


 上等な紙を用いた封筒に、黒の封蝋。押された刻印は剣と狼。これが意味するものは、王族の傍系――すなわち、公爵家からの正式な手紙である、ということ。

 エステルは引き出しからペーパーナイフを取り出すと、すみやかに開封して中身を確認する。そこには一枚のカードが入っていた。


『敬愛するエステル様へ

 我が公爵家にて、お茶会を催すことにいたしました。

 ご都合がよろしければぜひ、婚約者のアルベール様といらしてください。

 ブラン・ロゼの菓子を用意してお待ちしております。』


 簡潔で丁寧なお誘いの後、日時と場所、それから「この招待状を必ず持参するように」と記載してある。

 最後に差出人を確認したエステルは、さらに驚いた。


 ベルトラン・ド・エスポワール


 名前だけは聞いたことがある。公爵家を継いだばかりの、若き当主だ。彼には様々な噂話があり、公の場に現れることは滅多にない。誰と繋がりがあるのかさえも不明だった。


 その謎の公爵の正体が、文学サロンで知り合ったベルトランだというの?

 同じ名前というだけでなのではないか。そう思おうとしたけれど、カードに書かれている内容が答えであることは、明白だった。

 

 エステルはますます混乱し、落ち着こうと胸を押さえる。

 彼は一体何を考えているの。戸惑うエステルを急かすように、執事が「いかがいたしましょうか」と言う。悩んだが、エステルはあの日出会ったベルトランに賭けることに決めた。


「公爵様のお屋敷に招待されたわ。アルベール様もご一緒に、とお誘いされたから、彼の予定を確認しないと。すぐに出かけるわ」

「かしこまりました。」


 執事が慌ただしく去っていくのを見送ると、エステルは緊張で震えながら、公爵からの招待状を封筒の中へ収めるのだった。




 それからさらに、半月。ベルトランとの出会いから、ひと月が過ぎた。

 エステルは新しく仕立てたブルーのドレスを着て、公爵家に訪問している。これまで数多くの屋敷を見てきたけれど、公爵家は圧倒的に格が違っていた。まるで城塞のような豪邸には騎士が闊歩し、働いているはずの使用人は一切、客の前に出てこない。厳しく教育されているのだろう。他の貴族とは比べ物にならない程の威厳を感じる。


 アルベールが同行していたら、一体どんな顔をしていただろう。エステルは誘いを断った婚約者のことを思い出し、密かにため息をつく。


 招待状に書かれていた以上、アルベールを無視して行くわけにもいかなかった。あの後すぐ、エステルが彼の屋敷を訪ねて誘ってみたところ「どうしても外せない用事があるんだ」と断られてしまった。

 相手は公爵だというのに、惜しむ素振りもなく。不思議に思ったけれど、彼がいなくてよかったと、少し安心している自分もいる。


 屋敷を案内してくれた使用人は、エステルをとある部屋の前まで連れてくると、一歩身を引いた。恭しく礼をされ、ここがお茶会の場所なのだと理解する。

 深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、エステルは背筋を伸ばした。使用人が室内に呼びかけ、扉を開けてくれる。

 そこで目にした光景に、エステルは再び混乱することになった。


「えっ」


 入室してきたエステルを見て、真っ先に反応を示したのは――アルベールだった。

 金髪と青い瞳を目立たせるため、今日も白いスーツに身を包んでいる。けれど貴公子のような雰囲気はどこにもなかった。現れたエステルに動揺し、目を泳がせている。

 その奥、アルベールの隣に座っている女性には見覚えがあった。探偵が撮影した写真に映っていた人――ミラ・ド・フルール。男爵家のひとり娘だ。アルベールと揃いの白いドレスに身を包んで、じっとエステルを睨んでいる。

 その眼差しで分かった。彼女はエステルの存在を知っていてなお、アルベールに手を出しているのだ、と。


「ふふ、特別なサプライズです。気に入っていただけましたか?」


 聞き覚えのある声で我に返る。アルベールとミラの対面にあるソファに、ひとりの紳士が座っていた。

 短い黒髪と灰色の柔和な目。上等な三つ揃いのスーツを着ていても、誰なのかちゃんと分かる。見間違えるはずもなかった。

 すると公爵――ベルトランが立ち上がり、エステルの元へやってくる。恭しく礼をすると、彼がエステルの手の甲にキスをした。以前とは違って、気品に満ち溢れる所作に戸惑っていると、あの時と変わらない笑顔を向けられる。そうしてベルトランが、アルベール達にエステルを紹介した。


「最後のお客様は、私の尊敬する淑女――エステル・ド・リュミエール様です。アルベール様なら、よくご存じのはず」

「え、ええ……もちろん」


 しかし、アルベールは決して「婚約者です」と言わなかった。ミラの表情がますます険しくなったが、それも一瞬のこと。すぐに穏やかなものへ切り替わる。


「まぁ、とてもお美しい方。透き通るような金髪は、まるで絹のようですわ。お召し物も、とてもよくお似合いです。鮮やかなブルーがより一層、あなたの髪と肌を美しく」

「おっと、茶番はここまでにしようか」


 ミラの言葉をさえぎって、ベルトランが鼻を鳴らす。気品ある雰囲気が、一気に塗り替わるのを感じた。


「エステルさん、こちらへ」

「はい」


 ベルトランにエスコートされて、彼と共に並んで座る。アルベールのいる場で、彼と離れて座るのは初めてのことだった。けれど、ベルトランの隣は不思議と心強い。

 向かい合ったアルベールは、手を組み合わせて唇を舐めていた。エステルの方を見ようともしない。


「さて、これでお茶会のお客様は全員揃った。楽しいひと時にしようじゃないか」


 ベルトランが明るく言うが、楽しいなんて雰囲気ではない。


「今日のために、あらかじめブラン・ロゼに予約をしていたんだ。手土産にクッキー缶も用意してある。どうか受け取ってほしい」


 そう言って彼が目の前のテーブルを示す。純白の皿に、様々なケーキが並んでいた。瑞々しい果実を贅沢に使ったものばかりで、つい手が伸びそうになる。


「エステルさん、遠慮はしないでくれ。君に食べてほしくて用意したんだ」

「私に、ですか?」

「ああ。言っただろう、尊敬する人にはこれくらいしないと」


 にっこりと微笑まれて、エステルはためらいながらも小皿を手に取った。好きなものを三つ選ぶと、まずは苺のタルトを頬張る。クリームとカスタードのこってりとした甘さに、苺の酸味が心地よい。サクサクのタルト生地も最高だ。


「口に合ったかな?」

「ええ、とっても美味しいです」

「それはよかった」


 さぁお二人も、とベルトランに勧められて、アルベールとミラもケーキを取り始める。しかし、どちらも浮かない顔で、居心地が悪そうにしていた。

 それもそうだろう。婚約者の誘いを断って、他の女性と外出しただけでなく、揃いの服まで着て現れたのだ。どうやってこの状況を作り出したのかは疑問だが、公爵に出し抜かれたことだけは分かる。

 微妙な空気の中でティータイムを楽しんでいると、緩みかけた空気を引き締めるようにベルトランが足を組んだ。


「エステルさんとは先月、文学サロンでお会いしたんだ。彼女が書いた作品はどれも素晴らしくてね。ずっと感想を伝えたかったんだが……まさかサロンに来なくなってしまうなんて、予想外だったよ。二年もの歳月を経て、やっと伝えられたんだ」

「あら、お忙しかったのでしょうか」


 ミラの問いに「いいや」とベルトランが首を振る。


「俺も気になって質問してみたんだ。結婚を機にペンを置いたのか、と。するとエステルさんは心苦しそうにしていてね。話を聞いてみると、婚約者に趣味を非難されたらしいんだ。それでも彼女は健気に、婚約者のことを考えていたよ。楽しい趣味を諦めるほどに」


 最後の言葉は、アルベールに諭すような口ぶりだった。彼はそれでも目を逸らしている。


「尊敬する書き手が、そんな理由でペンを置いていただなんて信じられなかったよ。あまりにも惜しすぎる。でもエステルさんがそれでいいと言うのなら……婚約者に大事にされているのなら、俺も納得すべきだと思ったんだ」


 残念そうに目を伏せた後、ベルトランが鼻を鳴らす。


「まぁ、結果はご覧の通りだがな」


 穏やかさが一瞬で消え失せる。威圧するような声色に、エステルまで怯えた。アルベールとミラは、真っ青な顔をして下を向いている。


「さぁ、お茶会の招待状を出してもらおうか」


 唐突な命令だった。エステルは一瞬戸惑ったが、持参するよう言われていたことを思い出し、すぐにハンドバッグの中を探る。ベルトランに招待状を渡すと、彼は満足した様子で受け取った。

 しかし、アルベールとミラは招待状を出そうとしない。焦っているが、応じるわけにはいかないと、拒んでいるようだった。するとベルトランがため息をつく。


「公爵の命令が聞けないと。なるほど、そうか。ならば反抗の意思ありとみなして、それ相応の対応をするしかなくなるな」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 血相を変えたアルベールに、公爵は無情にもカウントダウンを始める。


「五……四……三……」


 アルベールがジャケットの内側から招待状を取り出し、すぐさまベルトランに渡した。ミラはというと、全身を強張らせて拳を握りしめている。

 アルベールの招待状を受け散ったベルトランは、それをエステルに渡した。


「え?」

「宛名と内容の確認をしてほしい。読み上げるんだ」

「わかりました……」


 一体どうして、と思ったが、すぐに理解した。


「宛名はアルベール・ド・リュクス様。内容は、今から読み上げる通りです。

 親愛なる友 アルベール殿へ

 先日お会いしたパーティーでは、楽しいひと時を過ごしましたね。

 特にワイナリーの話はとても魅力的でした。伯爵家が代々受け継いできた酒造の技術と、振舞っていただいた伝統のワイン。思い出すだけで恋しくなります。

 あまりにも素晴らしい味わいでしたので、我が公爵家も力になりたいと思い、こうして手紙を送らせてもらいました。

 実は、知り合いに酒を扱う商人がいるのですが、もしよろしければ会ってみませんか?

 もっと多くの人に、リュクス伯爵のワインを知ってもらいたいのです。

 商談の場を設けますので、ぜひいらしてください。」


 最後に今日の日付と、エステルに指定された予定時刻より少し早い時間、公爵家の場所が記載されている。封蝋も公爵家のもので間違いなかった。


 ――ああ、そういうことだったのね。


 エステルは強い失望と共に、アルベールを軽蔑した。

 婚約者に黙って、商談を優先した。事情を説明することもなかった。共に出向き、婚約者を紹介することだって出来たはずなのに。それどころか、浮気相手を連れて揃いの服まで着ている。


 アルベールはエステルのことを、最初から切り捨てる気でいたのだ。ミラを妻にしたい、そう思っているからこそ、堂々と彼女を連れてきている。


 それなのに馬鹿みたいだ。こんな人に従ってめそめそ泣いて、助けようとしてくれる人の手を無視するところだった。ベルトランと出会わなかったら、一体どうなっていたことか。それは彼も同じ気持ちだったのか、ため息をついて言う。


「俺は心底がっかりしたよ。将来は伯爵家の跡を継いで、陛下に忠誠を誓うはずの人物が、まさかこんなにも堕落していただなんて」


 するとアルベールが目を吊り上げた。


「僕を陥れた公爵様に、そんなことを言われたくはありませんね。平気で嘘をつき、脅して、人を操って。卑怯だとは思わないんですか?」


 エステルはぎょっと目を見開いた。この人は何を言っているの?

 するとベルトランがはっきりと言い返す。


「俺は陛下を守る(つるぎ)だ。そのためならなんだってやる。自分のために人を騙して嘘をつき、脅して操ってきたのは、あんただろ」

「うるさい! 公爵だからって偉そうに! エステル、お前もだぞ!」


 怒りで顔を真っ赤にしたアルベールが立ち上がり、エステルに掴みかかろうとした。が、その手はベルトランによって素早くねじ伏せられ、アルベールの細い体が床に叩きつけられる。

 うめくアルベールにのしかかると、ベルトランが低い声で言った。


「あんたの評判はずっと前から知っていた。その傲慢さが破滅を招いたんだ、牢屋の中で悔い改めろ。そして外の世界に出た時、あんたを守ってくれるやつはもういない。リュクス家の爵位は今この瞬間に、剥奪されたからな」

「王族でもないやつに、そんな権限があると思うなよ!」

「そうだな。だが世間は許しちゃくれない。公爵家で暴行未遂、婚約者への裏切りとこれまでの悪辣(あくらつ)な経歴。たっぷりと蓄えた恨みが、アルベール君の未来を決めるだろう」

「おやめください!」


 突然悲鳴にも似た声が響いて驚く。声を発したのは、今までずっと黙り込んでいたミラだった。彼女は立ち上がると、目に涙を浮かべて話し始める。


「アルベール様は私のお願いを聞いてくださっただけなのです。また公爵様とお会いするなら、ぜひご一緒したいと……」

「ほう。それで、アルベール君がミラさんと個人的に会っていた証拠を、わざわざ喋ってくれる意図は何なのかな?」

「悪いのは私です。私が彼を惑わせてしまったから……」


 つぶらな瞳から涙をこぼし、ミラが懸命に話を続ける。


「彼に婚約者がいることは知っていました。でも決して、間違いは犯していません。よき友人として、親しくさせていただいただけなのです」


 エステルはたまらず、声を荒げた。


「嘘をつかないで! 探偵に何もかも調べてもらったわ。二人きりで何度も会っていることも、彼の屋敷を出入りしていることも、全て知っているわ。写真だってあるのよ」

「それが間違いを犯した証拠になるのでしょうか? 最初から疑ってかかるなんて、ひどい方」


 冷ややかな声で切り返される。するとベルトランが言った。


「人の物を盗んではいけない。それは子供でも知っている法律だ。男爵家のお嬢様は、そんなことも知らないのか」


 ミラの顔が真っ赤に染まる。

 するとベルトランが指笛を吹いた。と、同時に室内に騎士がなだれこんでくる。アルベールだけでなくミラも拘束し、あっという間に二人を部屋から引きずり出した。


「私は違うでしょ! なんで連れていかれなきゃいけないのよ! 離せ!!」


 ミラの口汚い叫び声は、扉が閉まってもしばらく聞こえてくるほどだった。騒然とした現場を見ていることしか出来なかったエステルの元に、ベルトランがやってくる。彼は目の前でひざまずくと、一言「すまなかった」と謝罪を述べた。

 エステルは少し考えて、不敬ながらも、彼の肩に手を添えて労う。


「約束を守ってくれて、ありがとうございます」


 そう言って、エステルは穏やかに笑った。




 騒々しいお茶会の一件から、さらに三か月が過ぎた頃。

 冬の気配をにじませる冷たい風が、エステルの金髪を揺らした。ぶるっと震えると、対面の席に着いたベルトランが「外でのお茶も、さすがに今日までか」と苦笑する。

 公爵家の庭でお茶会をしていた二人の手元には、いくつか本が積まれていた。こうして趣味に没頭できるようになるまで、こんなに時間がかかるなんて。エステルは思い出したくもない記憶に触れてしまい、ため息をつく。


 アルベールはこれまでの行いに婚約者への裏切りと精神的な暴力も上乗せされ、爵位を剥奪されることになった。おかげで彼は一族からも恨まれ、今は消息不明。生きているのか、死んでいるのか、それは神のみぞ知る。


 ミラもまた、断罪から逃れることは出来なかった。

 数多くの紳士と交友を持ち、教養を身に着けた彼女だったが、その中には妻子ある人も含まれていた。社交界、特に淑女の世界では「下品な雌猫」と評されていたらしい。

 涙を浮かべて必死に抵抗していたが、探偵に調べてもらった事と、ベルトランが実際に見聞きした情報が決定的な証拠となった。彼女は修道院に送られ、華やかな貴族社会に戻ることは永久に叶わなくなった。


 こうして二人の処遇が決まると、今度はエステルに注目が集まる。


 婚約者に裏切られた悲劇の子爵令嬢、謎の公爵との繋がり……様々なゴシップが飛び回ったせいで、屋敷に引きこもるしかなかった。

 けれどそんな状況でも、親友のヴィクトリアは手紙やプレゼントを送ってくれた。それがどれほど励ましになったことか。心の傷はゆっくりと癒えて、エステルは再びペンを持つことが出来るようになった。


 ベルトランについては、今の状況が全てを物語っている。もう二度と会うつもりがなかったが、彼は何度もエステルに手紙を送り、おすすめの本を届けてくれた。執筆を再開したことを伝えると「完成したら真っ先に読ませてくれ」と懇願された日が懐かしい。


 だからもう、過ぎたことはもう忘れよう。大切にすべきは、今この時間。


 エステルはそう結論付けると、テーブルの上に置いた本をベルトランの方に押し出す。


「この前借りていた本、お返しするわ。それと、こっちが紹介したい本」

「いつも助かるよ。多忙なもので、本屋に行く暇もない」


 疲れた様子で、ベルトランがため息をつく。

 最近こっそり教えてもらったのだが、なんとベルトランは王太子の近衛騎士(このえきし)だった。二人は幼馴染で、共によい国をつくっていこうと約束しているらしい。アルベールの一件は、将来の王……親友に影響しかねないことだったため、エステルからの相談は待ちに待ったチャンスだったようだ。ここぞとばかりに追い込んで、爵位を剥奪することに成功している。

 上手く転がされたような気もするが、ベルトランは結果として、二人の人間の将来を明るいものにした。彼を責めるどころか、感謝している。

 エステルはコホンと咳払いをすると、隠し持っていた冊子を本の上に置いた。


「時間がかかってしまったし、腕も落ちているだろうけど……やっと新作が完成したのよ」


 瞬間、ベルトランが冊子を手に取って中身を確認した。しばらく読み耽っていたかと思うと、感極まった様子で頷く。


「ずっと読みたかったんだ。今までの努力がやっと、報われたような気がするよ」


 嬉しそうに笑っているベルトランを見て、エステルは顔が火照ってくるのを感じていた。けれどこの想いは叶わない。公爵と子爵では、あまりにも身分が違いすぎる。だからせめて、善き友人であろう。憧れの作家でいよう。そうすればいつまでも、この優しい人を慈しむことが出来る。

 そう思っていると、今度はベルトランが咳払いをした。


「なんですか、私のまねなんかして」

「俺も特別なサプライズを用意してたんだ」


 彼のサプライズという言葉には、ちょっと怯えてしまう。なんだかよくないものを披露されそうな雰囲気があるのだ。

 するとベルトランがジャケットの内ポケットから、ちいさな箱を取り出した。エステルの前に置くと、目の前で開いてみせる。

 箱の中にあったのは、漆黒のオニキスをあしらったネックレスだった。銀のチェーンが陽光を受けて光っている。とても高価そうな品だった。

 まじまじと眺めているエステルに、ベルトランが言う。


「公爵家では代々、求婚の際に宝石を贈る風習がある」


 エステルは息を呑んだ。ベルトランがさらに甘い言葉を続ける。


「こんなにも心安らげる女性は、きっとエステルだけだ。結婚するなら、君としたい」


 そう言って手を握られるものだから、ますます恥ずかしくなってしまった。


「返事は?」

「急に言われたって、そんな」


 とっくに心は決まっているけれど、受け入れてもいいのか分からない。するとベルトランの右手が、エステルの顎に添えられた。顔を上向かせられ、目と目が合う。


「君が好きだ。君の笑顔をずっと見ていたい。そうなるように努力する」

「……約束できるの?」

「ああ。任せてくれ」


 あの日と同じ言葉。わざとなのか、無意識なのか。

 エステルがそっと目を閉じると、彼の唇がファーストキスを奪った。

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