リメンバー
なずなは静かに目を開けて、天井を見つめた。
まどろみの中に残っていた声は、もう聞こえなかったけれど、
胸の奥にふわりとあたたかい余韻だけが残っていた。
「ボクを、きっと探し出して……」
小さくつぶやいてみる。
そう言っていたのは、あの子だったのだろうか。
ぬいぐるみの姿。
小さな体、まるい耳、ふわふわの毛並み。
まだ名前は思い出せない。でも、たしかにあの子は、自分を見つめていた。
なずなはそっとベッドから起き上がった。
欠片は、机の上にある。
光を受けて、淡くバラの模様が浮かび上がっていた。
この欠片がきっかけだった。
これに触れたときから、すべてが少しずつ動き出していた。
今なら、きっと。
何かを、思い出せる気がする。
なずなは机の上の欠片を手に取り、そっと指先でなぞった。
バラの模様が、柔らかい午後の光に淡く浮かび上がる。
いつだったか、小さなティーセットで遊んでいた記憶が、かすかに胸の奥に触れた。
誰かと一緒に。
笑いながら、お茶を注いで、ケーキのふりをした消しゴムを並べて。
――誰だったのかは思い出せない。
けれど、その隣にいつもいたのは、あのぬいぐるみだった気がする。
なずなは立ち上がった。
何かを探さなければならない。
きっと、あの声がそう言っていた。
「ボクを、きっと探し出して……」
声が、まだ心に残っている。
だから――
行こう。
その声の、続きを探しに。
昔の写真に、たしか写っていた気がする。
なずなは棚の奥を探り、引き出しの中から小さな封筒を取り出した。
その中には、色あせた何枚かの写真。
そのうちの一枚に、見覚えのあるぬいぐるみと、自分が写っていた。
私には、両親がいなかったから、ずっとおばあちゃんとふたりで暮らしていた。
このぬいぐるみは、おばあちゃんが縫ってくれたものだった。
友達がいなかったわけじゃない。
でも、放課後も休日も、誰かと過ごすことはほとんどなかった。
だからきっと、私にとっての1番の友達はこの子だったんだと思う。
写真の中の私は、ぎゅっとぬいぐるみを抱いて、笑っていた。
忘れていたけれど、たしかに私は、この子と一緒に生きてきたんだ。
夢や記憶を辿っていくうちに、気がつけば夜になっていた。
静かな部屋。
窓の外では、風がそっとカーテンを揺らしていた。
なずなはベッドに身を横たえ、そっと目を閉じる。
あの声を、もう一度聞ける気がした。
気づけばまた、あの霧の空間にいた。
柔らかな灯りに包まれた部屋。
棚の上には欠片、椅子の上には――あの子が座っていた。
小さな体、まるい耳、優しい目。
「……トゥルル」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥があたたかくなった。
「やっと、思い出してくれたね」
トゥルルが小さく笑った気がした。
子どものころ、たしかに私は、あなたと一緒にいた。
悲しい日も、寂しい夜も、あなたはいつもそばにいてくれた。
「ありがとう。忘れてしまっていて、ごめんね」
「いいんだよ。ちゃんと思い出してくれた。それだけで、うれしい」
なずなはゆっくりとうなずいた。
心の中の空白が、少しずつ埋まっていくのを感じた。
「でも、もうすぐ私は……」
言葉を続けられなかった。
「わかってる。だから、次に行くね」
「次?」
「うん。君と似た瞳をした、小さな手のもとへ」
なずなは涙を浮かべながら微笑んだ。
この子は、これからも誰かの心のなかで、生き続ける。
たとえ、自分の旅が終わっても。
「ありがとう、トゥルル。ずっと……ありがとう」
トゥルルが静かにうなずいた。
その姿が、淡い光に包まれて消えていく。
病室の窓から、春の陽が差し込んでいた。
カーテンがふわりと揺れ、部屋の中をやさしい光が包んでいる。
ベッドの上には、静かに目を閉じたなずな。
その手には、小さなぬいぐるみ――トゥルルがそっと抱かれていた。
傍らには、まだ幼い孫の姿。
ぬいぐるみの手を握るおばあちゃんの手を、小さな手がぎゅっと包み込んでいた。
「おばあちゃん……」
かすかにまぶたが動き、なずなはゆっくりと目を開ける。
「……来てくれたのね」
「うん。トゥルルもずっと一緒にいたよ」
「そうね……ずっと、ありがとう。ママにもらったのね…あなたも……どうか、トゥルルを大切にね」
それが、なずなの最後の言葉だった。
その瞬間、トゥルルの瞳がふわりと光を帯びたように見えた。
まるで、なずなの“最後の想い”を受け取ったかのように。
そして、ぬいぐるみは変わらずそこにいた。
新しい手の中で、またひとつ、記憶を見守り始めていた。




