表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もう一度  作者: ショコラ
5/8

呼びかけ

朝の光が部屋に満ちていた。

なずなは、眠気を引きずったまま支度をしていたけれど、どこか心が落ち着かなかった。


「……その名前、って……誰の?」


つぶやいた言葉に、自分でも驚いた。

でも、なぜか口から“ル”の音だけがこぼれそうになる。

何度も出かけようとしては、ふと立ち止まってしまう。


なずなは、デスクの上に置きっぱなしだった封筒を整理しようと手を伸ばした。

すると――カサッ、と何かが落ちた。


「あ……」


それは、バラ模様の小さな陶器の欠片だった。


夢の中で握っていたはずの、それとまったく同じもの。


その瞬間、脳裏に、ふわっと“部屋”の映像が浮かんだ。

柔らかな光、木の家具、そしてベッドの上にぽつんと座る――ぬいぐるみ。


耳の奥で、何かが響いた。

それは音というより、“呼吸に近い記憶”だった。


「ト……」


小さな声。誰かの名前を呼ぼうとしている。


やわらかくて、少し甘えていて。

でもどこか、必死だった。


「……ル……」


その名前を呼ぶことで、何かが始まるような気がした。

それなのに、声はそこで途切れてしまった。


なずなは息をのんだ。

でも、名前は出てこない。


ぽつんと取り残された感覚だけが、胸に広がっていく。


その夜、なずなは久しぶりに、深く眠りに落ちた。


いつもの夢とは少し違った。

音もなく、ただ静かに霧がゆれている。

そこには、また“あの空間”が広がっていた。


白い柱。やわらかい絨毯。霞む灯りのなか、ひとつだけはっきりとした姿があった。


「また、お会いしましたね」


霧の奥から、管理人が現れた。

その姿も、言葉も変わらないのに、どこか違って見える。

なずなが何かに近づいていると、本人よりも先に空間が語っているようだった。


「少しだけ、思い出しかけたようですね」


「……名前は、まだ。でも……」


なずなは、夢の中で胸に触れた。

なにかを思い出しそうで、まだ届かない。

けれど――目の前に、それはいた。


絨毯の端に、ぽつんと座っている小さなぬいぐるみ。

まるい耳。ふわふわの毛。

どこか懐かしくて、でも今はまだ“名前のない”その姿。


「この子……」


なずながそう口にすると、管理人はやわらかく頷いた。


「あなたが手放したはずの、大切な友人です」


「……友人……」


言葉が静かに夢の空間に溶けていった、そのとき、なずなは目の前の管理人を見つめなおした。


その姿は霧に包まれ、細部までは見えない。

けれど――


「……あなたのその姿……」


なずなの声がかすれた。


はっきりとした証拠は何もない。

でも、背の高さや、立ち方、ふとした手の動き。

それが、記憶の中のぬいぐるみの“しぐさ”と重なったような気がした。


「……まさか……」


言葉の続きを飲み込んだなずなに、管理人はただ微笑んだ。

なにも肯定も否定もせず、淡く霧にまぎれていくように。



なずなは、その場に立ったまま動けなかった。


霧の中の管理人の輪郭が、少しずつ揺らいでいるように見えた。

でも、それは自分の心が揺れているせいだと、どこかでわかっていた。


「……あなたは……もしかして……」


言いかけて、声が詰まる。

けれど、なずなは逃げなかった。


「あなたは……あのぬいぐるみ……なの?」


ほんのわずかの沈黙のあと、霧の奥で小さな音がした。

それは、まるで微笑んだときの、布がふわりと動くような音。


管理人は、何も言わなかった。

ただ、静かにその場を見つめていた。


「……違う、かな。でも……なぜか、そう思ったの」


胸の奥で、ずっと忘れていた感情が、あたたかく膨らんでいた。

確信ではない。けれど、不思議と、怖くなかった。



そのときだった。


霧の向こうから、声が聞こえた。

今度は、はっきりと。


「ボクを……きっと探し出して……」


なずなは、はっとして顔を上げた。

だけど、そこにはもう、誰の姿もなかった。


白い霧だけが、静かにゆれていた。


その揺らぎに包まれるようにして――

なずなは、ふっと目を覚ました。


天井。

かすかに開いたカーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。


鼓動が速かった。

でも、不思議と苦しくはなかった。


夢の中の言葉が、まだ耳に残っている。


「ボクを、きっと探し出して……」


なずなは、ゆっくりと身を起こした。

どこかで、もう一度その声に会える気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ