探し物
私はまた“あの場所”に立っていた。
白く霞んだ空間。
どこまでも続いているようで、どこにも繋がっていないような、静かな世界。
足元には、薄く霧が漂っている。
(……また、ここだ)
前にも来た。
それは確かな感覚として、体の奥に残っていた。
手の中には、バラ模様の皿の欠片。
いつのまにか握っていたそれが、ほのかに温かい。
そのとき、かすかな足音が霧の向こうから聞こえてきた。
「お戻りになったのですね」
振り返ると、そこに“あの人”がいた。
長い外套を纏い、霞の中に静かに佇むその姿。あの管理人だ。
顔ははっきりとは見えない。
けれど、声だけは、前よりもずっと近く感じた。
「あなたは、何を探しているのですか?」
その声は、ただ穏やかに響いただけだったのに。なずなは、胸の奥が、かすかにざわめくのを感じた。
探しているもの。
それは、日々の生活の中で忘れていたはずの何か。
大切だったのに、置き去りにしてきたような――そんな気がした。
「……わかりません」
しばらく考えて、ようやく絞り出した答えはそれだけだった。
でも、管理人は首を横にも縦にも振らず、ただその言葉を受け止めたようだった。
「それでも、あなたは来たのです。その欠片を持って。」
なずなは、手の中のバラ模様の欠片を見下ろした。
それは、前よりも少しだけ、重たく感じた。
なずなが欠片を見つめていると、管理人がもう一度口を開いた。
「その欠片は、あなたが選んだものです。誰かに教えられたわけでも、偶然拾ったわけでもない。」
「……でも、私はこれが何かも分からなくて……」
「わからないからこそ、あなたは持ち続けているのでしょう?」
霞の奥にいるその人の声は、相変わらず静かだった。
けれど、言葉のひとつひとつが、なずなの心の奥に小さな波紋を広げていく。
「あなたが見失っているものは、
必ずしも過去にあるとは限りません」
その言葉に、なずなは顔を上げた。
「……それって、どういう……」
問いかけようとしたとき、管理人はふと姿勢を変えた。
白い霧が、また少しだけ濃くなっていく。
白い霧が、静かに流れていく。
言葉を探していたなずなに、管理人はそっと言葉を落とした。
「思い出すときが来たら、きっと“その名前”が、あなたを呼び戻します」
なずなは、目を見開いた。
けれどその瞬間、霧がふわりと濃くなり――
視界がぼやけ、声も、姿も、遠ざかっていった。
「……その、名前?」
自分の声が、霧に吸い込まれていく。
その瞬間だった。
――ふっと、まぶたが開いた。
⸻
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
まだ夢の中にいるような気がして、なずなはしばらくぼんやりと天井を見つめた。
手の中には、もうあの欠片はなかった。
けれど、胸の奥に残る感触だけが、やけに確かだった。




