忘れ物預かり所
中はしんと静かだった。
古い図書室のような匂いと、ほんのり紅茶のような香りが混ざっている。
棚には、整然と並べられた箱や袋、小物たち。
名前のない持ち主たちの品々が、静かにこの空間を埋めていた。
「なずな……迷い込みましたか?」
その声に、びくっとした。
部屋の奥――古びたカウンターの向こう側に、ひとりの人のような影があった。
小さな体に、真っ白なシャツと外套を纏っている。
穏やかだけど、どこか人の目を見ないような、遠くを見るような視線。
その姿には、懐かしさと違和感が不思議に入り混じっていた。
そして今、私の名前を呼ばれた気がした…
「ここ……なんですか?」
思わずそう訊ねると、彼は一瞬だけ考えるように沈黙し、ふっと微笑んだ。
「ここは、忘れられたものたちの仮の居場所です。
持ち主が思い出してくれるまで、しばらくのあいだだけ、ね。」
「思い出すまで……?」
「はい。ときどき、それが必要な人が現れるんです。」
その言葉の意味を考える前に、視線が自然と棚のほうへ向いた。
そこに並ぶのは、壊れた腕時計、使いかけのリップクリーム、片方だけのイヤリング――
どれも、どこにでもありそうで、だけど“どこかに意味がありそう”なものばかりだった。
「これ、触ってもいいですか?」
私がそっと聞くと、管理人は一度だけゆっくりまばたきをしてから、言った。
「どうぞ。ただし――あなたが、その重さを受け取れるなら。」
その声は優しくて、どこか切なげだった。
管理人の言葉に小さくうなずいた私は、そっと棚に並んだそれに手を伸ばした。
小さな皿の欠片だった。
おままごとで使うような、子ども向けのティーセットの一部かな。
表面には、色あせたバラの花が描かれていて、
裏には、うっすらと手書きの文字――「N &」の隣に、かすれたようにして、もうひとつの文字が消えていた。
どうしてこれに惹かれたのか、わからない。
だけど、指先が触れた瞬間、胸の奥で何かが小さく、静かに音を立てた気がした。
それは記憶じゃない。懐かしい景色が浮かぶわけでも、音が聞こえるわけでもない。
ただ、理由もないのに、その欠片を手放してはいけない気がした。
ほんの欠片にすぎないのに。
意味なんてないかもしれないのに。
それでも私は、目をそらせなかった。
「……持っていても、いいですか?」
気がづけば、私は管理人にそう尋ねていた。
彼は静かに瞬きをして、わずかにうなずいた。
「もちろん。ボクは、あなたがそれを、必ず選ぶと、信じていました。」
その言葉を聞いたとき、何かが心の奥で、音もなくほどけたような気がした。
私は欠片をそっと両手で包んだまま、静かに立ち上がる。
管理人は何も言わず、ただ見送るように、少しだけうなずいた。
ドアを開けると、そこにはうす曇りの空と、静かな路地が広がっていた。
振り返ったとき、扉の向こうにはもう、あの部屋の気配がなかった。
誰かがそっと布をかぶせたように、全体が霞の中に沈んでいくような、そんな静けさだった。
私は欠片を手の中に握りしめたまま、何も言わずに、その場をあとにした。
⸻
夕方、駅を出る前に、私は忘れ物センターに立ち寄った。
白いカウンターの向こうで、駅員さんが淡々とパソコンを操作している。
壁際の棚には、似たような傘や、透明な袋に入れられた落とし物が並んでいた。
「昨日の夕方ごろ、ワイヤレスのイヤホンを落としたんですけど……」
「場所は?」
「えっと、たぶん5番線あたりです」
検索されたデータには、イヤホンらしきものはなかった。
掲示された拾得物の一覧にも、それらしいものは見つからない。
「申し訳ありません。届いていないようですね。」
私は「ありがとうございます」と頭を下げて、その場を離れた。
でも、なぜだろう――
自分が何を探していたのか、それすらもぼやけてしまっていた。
ポケットの中で、手が何かを握っているのに気づく。
取り出すと、それは小さな陶器の欠片だった。
バラの模様の皿の一部。
裏には「N &」と、その隣にもうひとつ何かが刻まれていたようだったけれど、
それはすっかりかすれて、読むことができなかった。
――いつ、これをもらったんだろう?
覚えていない。
けれど、不思議と不安ではなかった。
この欠片は、たしかに私のものだ。
その理由がわからなくても、そう感じていた。




