隣の部署は青いです
アヴェイルの夜は、昼間とはまるで別の顔を持っていた。
石畳の道にはランタンの灯りが揺れ、古びた木造の建物の影を長く伸ばしている。
通り沿いに並ぶバーや酒場からは、笑い声や歌声が響き、客引きのバーテンダーたちが呼び込みをしていた。
香ばしい肉の焼ける匂いが漂い、路地裏の屋台では濃厚なスープや果実酒が振る舞われている。
店の前には、仕事を終えた商人や労働者たちが集まり、杯を傾けて談笑していた。
「……こういう雰囲気を楽しめる仕事がしたかったんです」
アリス・エンフィールドは、深いため息をつきながらリンコの隣を歩く。
「は?」
「例えば、観光部なら夜市の運営や酒場の振興支援ができますし、魔法上下水道部なら水道管の管理や魔法灯の点検をする程度で済みますよね?」
「それが?」
「……なんで私はよりによって迷宮管理部 冒険者支援課に入ったんでしょう……?」
アリスはうなだれながら、酒場で盛り上がる人々を横目に歩く。
彼らは仕事を終え、酒を飲み、楽しそうに語り合っている。
一方で自分は、今から迷宮に潜る準備をしている。
有給を使ってまで。
「お嬢ちゃんたち、元気ないねぇ。肉でも食って元気出しな!」
突然、屋台の親父が笑いながら串焼きを差し出してきた。
「今なら一本おまけしておくぜ?」
「いえ、私は――」
「買うわよ、アリス」
リンコが無言で財布を取り出し、アリスの分まで支払った。
「えっ?」
「どうせ迷宮に入るんだから、腹ごしらえくらいしときなさい」
「……ありがとう、先輩」
二人は焼き串を食べながら、迷宮へと続く道を歩く。
「それで……どうやって迷宮に入るつもり?」
リンコが何気なく尋ねた。
「……もちろん、合法的に です!」
アリスは自信満々に答える。
「規則では、公務員は許可なく迷宮に入れませんが……例外があるはずです!」
「例外ねぇ……」
リンコは呆れたようにため息をついた。
「アリス、あんた迷宮管理部にいて、まだそんな甘いこと言ってるの?」
「えっ?」
「迷宮探索は、許可制。公務員は原則として踏破を目的とした探索をしちゃいけない」
「そうです。でも、何か方法が――」
「ないわよ」
リンコはピシャリと言い切った。
「特例申請? そんなの上層部が認めるわけないでしょ」
「けど、違法許可証が出回っているなら、取り締まりのための調査――」
「そのためには正式な調査許可が必要。でも、許可が下りるのは**“特定の部署”に所属している人間だけ** なの」
「……え?」
「例えば、調査課。あるいは救難課や生態課・・はぁ、うらやましいわよね」
アリスが驚いた顔をすると、リンコは軽く笑った。
「……実は私、異動願いを出してるのよ」
「えっ……?」
「冒険者支援課じゃなくて、調査課か魔法技術部 転異課に異動しようと思ってね」
「な、なんでですか!?」
「そりゃあ、迷宮の本当の謎を調べる方が楽しいからよ」
アリスはリンコを見つめた。
(……先輩は、迷宮に何を求めているんだろう?)
「先輩って、やけに迷宮のことに詳しいですよね?」
「ま、役所で働いてりゃね」
「でも、なんだかそれ以上に知識があるような……」
「……さぁ?」
リンコは意味ありげに微笑んだ。
何かを隠しているような、そんな表情。
迷宮前に到着
やがて二人は、巨大な石造りの門の前に立った。
「90の迷宮」――アヴェイルの未踏破迷宮のひとつ。
入り口には魔法陣が刻まれた門があり、通常の公務員なら入れないように結界が張られている。
しかし、違法許可証を持つ者なら、そこを突破できる。
つまり、バルドもここから入ったのだ。
「さて……どうやって入る?」
リンコが問いかける。
アリスは結界の前で立ち止まる。
「規則では、私はここから先に進むことはできません」
彼女はいつもの口癖を呟いた。
「けど、規則だけでは解決できない問題もあるでしょ?」
リンコはアリスのメガネを軽く弾いた。
「さて、お役人さん。あんた、本当に入る覚悟はあるの?」
アリスは小さく息を吸い、迷宮の門を見上げる。
(……この先に、バルドがいる。そして、何かがある)
「……はい。行きます」
彼女は、胸の奥で決意を固めた。