有給に理由はいりません!
アヴェイル――それは、迷宮強国タイア王国の中でも、特異な発展を遂げた自治体である。
この町には、未踏破の迷宮が2つ 存在する。
通常、未踏破の迷宮がある町は危険区域として警戒され、住民の数は自然と少なくなる傾向がある。
しかし、アヴェイルは違った。
未踏破の迷宮があるからこそ、この町は栄えたのだ。
「……90の迷宮、ですか」
アリス・エンフィールドは、迷宮管理部のデータを確認しながら呟いた。
バルド・グレイスが違法許可証を用いて潜ったとされる迷宮、それが「90の迷宮」。
アヴェイルに存在するもうひとつの迷宮、「59の迷宮」と比べると、規模は狭いとされる。
しかし、全容が掴めておらず、59の迷宮よりもモンスターの強さが上回る との資料が残されている。
アリスは端末の画面をスクロールしながら、過去の調査報告を読み込む。
アヴェイルに存在する二つの迷宮
【90の迷宮】
規模は小さいとされているが、未調査の領域が多く、実際の広さは不明。
公式資料によると、出現するモンスターの強さは59の迷宮を上回るとされる。
現在、詳細な調査が進んでおらず、データの信憑性は不確か。
商業的な利用が進められているが、踏破に向けた本格的な探索は行われていない。
【59の迷宮】
90の迷宮より規模が大きいが、比較的安全とされる。
一部の区域では定期的な採掘や商業利用が認められている。
魔導鉱石などの資源が採れるため、経済的に価値が高い。
迷宮の仕組みはまだ解明されておらず、内部の構造は変動する可能性がある。
「……ふむ」
アリスは軽くメガネを押し上げ、改めて90の迷宮の情報を整理する。
規模が狭いと思われているが、未調査部分が多い。
59の迷宮よりも強力なモンスターが確認されている。
さらに、違法許可証を使って未登録の冒険者が侵入した という新たな問題が発生している。
(……バルド・グレイスがどこまで迷宮の情報を知っていたかは不明。でも、彼のような軽い性格の人が、あえて危険な迷宮を選んで潜るとは考えにくい)
迷宮の奥には何があるのか。
バルドはなぜ90の迷宮に入ったのか。
そして、なぜ闇ギルドが違法許可証を発行してまで彼を迷宮に入らせたのか。
「……これ、もしかして普通の違法侵入じゃないのでは?」
アリスは小さく呟く。
90の迷宮には、何かしらの「目的」があったのではないか?
違法許可証を発行する側が、意図的にこの迷宮に人を送り込んでいるのでは?
しかし、今のところそれを証明する材料はない。
現時点でアリスにできるのは、規則に則り、事実を整理し、報告書を作成すること だけだ。
「……とはいえ、このままだと規則上の報告だけで終わってしまいますね」
アリスはため息をつく。
役所の仕事とは、基本的に「処理すること」だ。
冒険者が違法許可証で迷宮に入った?
→ ならば、違法行為として関係機関に報告し、処理を待つ。
救難課が出動?
→ ならば、任務の結果を待ち、適宜次の対応をする。
本来なら、迷宮管理部はそれ以上の関与はしない。
(けれど……)
アリスの頭の中で、昨日の窓口でのやり取りがよみがえる。
「しゃーない、俺はルール守る人だからさ、お役人さんの言うことに従うよ」
バルドの軽薄な笑み。
しかし、その直後、彼は違法許可証を使い、迷宮へと入った。
(……最初からこのつもりだった? それとも、誰かに「入るように仕向けられた」?)
考えれば考えるほど、違和感が募る。
「アリスさん!」
そこへ、またもやクレアが駆け込んできた。
「今、救難課が出動した90の迷宮からの通信が途絶えたって報告が入りました!」
アリスは瞬時にメガネを押し上げた。
「……規則では、通信が途絶えた時点で、即時対応を行うべきです」
「でも、上層部は『しばらく様子を見る』って言ってるんです!」
「……!?」
迷宮での緊急事態発生時、基本的な対応は即時救助 だ。
しかし、救難課が沈黙したまま、役所は「様子を見る」と判断した?
(……つまり、上層部は何かを隠している?)
アリスの中で、公務員的な「冷静な判断」と、個人的な「嫌な予感」が交差する。
(……規則では、私はここで待つべき。でも)
アリスの指が、机の上の「有給申請書」に触れる。
(……もし、ここで私が動かなかったら?)
次の瞬間、アリスの手は迷うことなくペンを取っていた。
「有給申請書 提出理由:個人都合」