舞踏会の夜
ハイラントとの関係が舞踏会というイベントによってまた急転直下の展開を迎えようとしている中、朝一でイースレイ、オリバー、セーラの三人が参内してきてヘンリエッタはちょっと呆気にとられた。本当にみんなして王都にやってくるとは思ってなかったよ。
「いま抱えてる仕事は一段落つけてきたしドラクマン支部長の協力も取り付けたから、二、三日なら南部のことは心配いらない」
「……にしても行動が早すぎない?」
アイオンの執務室を訪れるなりイースレイが悪びれもせず前置きするので、ヘンリエッタは半笑いになった。
イースレイは肩をすくめ、
「君がもはや意味不明なほど見事に陛下との和解を済ませたと報告をもらったときにはもう、近いうちにアイオンが俺たちを一度王都に呼ぶだろうことは予想できたからな。……今になってハイラント殿下が君に復縁を迫ってくるなんて荒唐無稽な展開は想定外だったが。王宮のどこを歩いてもその噂で持ちきりだったぞ、いったいどういうことなんだ?」
うげ。耳が早いと思ったら、執務室に来るまでの道中で知られてしまったらしい。ヘンリエッタは「どうもこうも私だって分かんないよぉお……」と大げさに両手で顔を覆う。
頭が痛そうなイースレイはもちろんのこと、ハラハラと固唾を呑んで待機していたオリバーとセーラも堰を切ったように身を乗り出す。
「ヘンリエッタ様っ、その、受けるつもりなんですか!? お喜びかもしれませんがこれは……急すぎます……!」
「オリバーの言う通りですよ、絶対頷かないほうがいいです! なにか思惑があるに決まってる! 振るも応えるも向こう次第みたいな恋愛じゃ幸せになれませんよ女は!」
「そんな詰め寄らなくても額面通り受け取ったりしないよ~」
どうどうと笑顔でふたりを宥め、よかれと思って浴びせられる言葉の刃を止めさせる。自明のことでも四方八方から改めて苦い現実を思い知らされると結構堪えますのでね。
するとアイオンが見かねたように、
「おい落ち着けよ。今夜の舞踏会が貴族どものお節介で実質兄貴の見合いの場になるらしいから、そこでの出方を見れば兄貴の思惑は分かる。あんまコイツをポンコツ扱いしてやるな」
おぉ助かった。代わりに今の方針を解説してくれたアイオンに、セーラはまだ不完全燃焼感を漂わせて「だって事実ハイラント殿下に関しちゃポンコツじゃないですか」と唇を尖らせる。失礼な、そうかもだけどそうならないように努力はしてるんだよ。
「王宮の舞踏会か」
イースレイが呟き、顎に手を添えて考え込む。
「そういえば社交界デビューの時季だったな。アイオン、君は舞踏会には……」
「俺は欠席」
アイオンはいちおう素知らぬ風を装っているがその答えはかなり食い気味で、イースレイなら彼のどこか自慢げな雰囲気に気づいただろう。ん? と片方の眉をはね上げ、かと思うとヘンリエッタに目で説明を求めてくる。けどここは無視だ。黙秘します。出席しそうだったところを「なんか出てほしくないから」とワガママ言って欠席してもらったなんて、一から説明したらフツーに怒られそうだし。
視線を逸らしたまま口を割らないヘンリエッタに、イースレイは溜め息ひとつで見切りを付けたようだ。恋バナ嫌いの彼はなにか察して深掘りを避けたのかもしれない。
「……今日の王宮は拝謁式と舞踏会で手一杯だな。欠席とはいえ、君も今日ばかりは仕事の能率が上がらないだろう。王都に来てから気を張りっぱなしだっただろうし、いっそのこと休みにしたらどうだ?」
イースレイのこの提案は明らかに同行者であるオリバーとセーラを気遣ったものだ。
子どもたちを伴ってきたウーレンベックのように、ふたりに王都で羽を伸ばす時間を与えようとしている。上司らしい配慮だ。
アイオンはヘンリエッタと顔を見合わせ、それからだるそうに頷いた。
「……そうだな。王宮にいるとまたいつ兄貴が隙を見て接触を図ってくるか分かったもんじゃねぇし、城下町に出てもいいかもな」
「「!」」
背伸びして興味のない振りをしようと試みてはいたみたいだが、オリバーとセーラの目が抑えきれない興奮に輝く。
オリバーは王都を遊び歩けるような半生じゃなかったし、セーラはセーラで貴族のご令嬢だ。噂話と陰口の飛び交う堅苦しい王宮より、娯楽と未知が溢れている街のほうが心引かれるんだろう。アイオンやイースレイは視察などで多少慣れているかもしれないが。
ヘンリエッタとしても、日中だけでもハイラントのいる王宮を離れる口実ができたのはありがたい。
「ねぇアイちゃん、みんなで行くの?」
「せっかくだからな。お前のが町歩きには詳しいだろ? 観光プラン立ててくれよ」
「……ふふ、りょーかい!」
このメンツで観光なんて面白いこと、張り切らずにはいられないよね。でも内緒話みたいに小声で話しかけられるとこう、距離の近さがほんのちょっと、ほんのちょっとだけ気になるかも? けど普通こういうのってアイオンのほうが意識するもんなんじゃないのかなぁ。
この日は風も強くなく、春になって出てきた虫を追う鳥たちものびのびと空を泳いでいた。人々もこの暖かな陽気に活気づき財布の紐が緩むと見て、呼び売りの声にも熱が入る。
ヘンリエッタは四人を色んなところに連れて行った。屋台のパイやハーブティーを試させたり、昼間から営業している煙草の煙でいっぱいのダンスホールを覗かせたり、そのそばの通りで酔っ払いたちが繰り広げている拳闘試合を見物させたり。昔レオナルドと休みの日によく歩いたルートを元にして、人々のたくましさと猥雑さの両方を見られるようにした。
セーラは手押し車の上で歌う路上の歌姫のへんてこな歌詞に興味を示し、オリバーは孤児らしき花売りから花を買い、胸ポケットに差していた。
通りではたまに足早な救貧院の職員とすれ違う。彼らの行く先には身体的に自力で食べていくことも難しい人々がいるだろう。地面に残っている珍しい足跡を辿っていけば、国外からやってきた芸人が動物たちに芸をさせて喝采を浴びる様子が見られる。新聞売りが往来を猛ダッシュしながらヘンリエッタのことを書いた記事を読み上げ、通行人に売りつけていくのに遭遇したときは四人ともに無言で同情されたが、とにかく町には本当に色んな人がいて、それぞれの暮らしを生きている。
夕方になると酒場が開店し始める。
まだ酔いの浅い客たちを相手取ることになるのでこの時間にカードやコイン遊びをしに行くのはあまり賢いやり方じゃないけれど、道順的にちょうどいい店に出くわしてしまった。ここも昔、レオナルドと来たことがある。彼はテーブルに落として手で押さえたコインの表裏を当てるゲームで信じられないくらい負けていた。あれ面白かったなー。
「……あっ表! なによ、確率的にそろそろ裏が来る頃じゃないの……!?」
裏に賭け続けて三連敗中のセーラが、テーブルに載っかったコインを見下ろして歯ぎしりする。完全に熱くなっちゃってるな。
「あっはっはっは! お嬢さんもうやめときな、今日はツキに見放されてるよ!」
当然四人とも身分を隠しているので、対戦相手のおじさんは遠慮なく大笑いしてくれる。
「相手が俺だったのがかろうじてラッキーだったな。もう少しして客が増えてきたら、身なりの良さで目を付けられてカモにされちまうよ。お嬢さんだけじゃなく」
おじさんは一度言葉を切ってアイオンを親指で指さし、
「そこのお兄さん以外は相手になりそうにないね」
「う、うぅっ……」
セーラは絵に描いたような悔しがり方をして、アイオン以外の三人をきっと睨んだ。
「いやでっ……、……!」
思わず殿下と呼びそうになってすんでのところで踏みとどまる。この場でそんな呼び方をしたら一発でアウトだ。
「じゃなくて、この人が全勝した以外は全敗って、どんな低確率引いてるんですか私たち! おかしいです!」
「結局大事なのは動体視力なのかもねぇ」
「私は動体視力検査じゃなくて運試しに来てるんですけど!?」
「終了~賭け金回収~」
上機嫌でテーブルの端に置かれたセーラの小銭を手のひらでさらうおじさんに、じっと勝負を見守っていたイースレイがおもむろに「待て」とやけにシリアスな鋭い声を発する。
「あなたを紳士と見込んで……もう一戦だ……」
「えぇ? そっちのお兄さんも懲りないな」
たかがゲームだろうと先陣を切ったあげくに大敗したせいか密かに熱くなっていたらしいイースレイに、オリバーとアイオンが「紳士?」「暗に手加減してくれって圧掛けてねぇか」と首をひねる。
イースレイはふんと鼻を鳴らし、
「これが本当に運によって決まるゲームなら手加減なんか存在しない。俺はこんなのはいかさまだと言ってるんだ」
しかし海千山千のおじさんがいかさまを指摘されたくらいで動じるはずもない。けろっとしてこう言った。
「そりゃそうだよ、今頃になって気づいたのか? いかさま禁止の公正なゲームは仲間内だけって相場が決まってるだろ。やっぱりお兄さんたち庶民じゃないな。ま、俺は賭け金の思い切りがいいならなんでもいいし、どこの誰だろうと追及もしないがね!」
というわけで堂々といかさまを認められ、いっそうむかっ腹を立てたイースレイはその後も惨敗した。おじさんは仕掛けがないか両手とコインを散々調べられたことにはうんざりしていたが、滅多にないボロ勝ちに喜色満面だ。宣言通りヘンリエッタたちの正体にはいっさい触れないまま、「またおいで~」と手を振ってほどほどのところで四人を帰らせた。
「……なぜ俺はあんなくだらないゲームに無駄な出費を……?」
「あー我に返んないほうがいいわよイースレイ」
これもよくあることで、賭けに負け続ける人間はヒートアップするだけした後に自分の行動を客観視し始め、自分からわざわざ落ち込もうとする。ヘンリエッタはそれを笑って止めながら言った。
「そんなに凹むことないってば~。レオだって大負けしてたんだからさ!」
「……そうなのか」
イースレイはわずかに目を瞠り「なんだ、あいつも結構バカじゃないか」と意外そうな呟きを落とした。
「うーん……手にもコインにも仕掛けはなかったですよね? ならどうやってコインを操作していたんでしょう」
少し前を歩くセーラは釈然としない様子だ。なんでもない振りで歩みを進めながら、さっきまでヘンリエッタとイースレイの会話に注意を傾けていたアイオンがしれっと答える。
「ありゃ種も仕掛けもないただの技術だ」
「えっ?」
「だからコイントス係を担当してる限り、基本あのおっさんに負けはねぇよ」
そう、事前の取り決めでコインの裏表どちらに賭けるかの優先権をこちらに与える代わりに、おじさんはコインを弾く係を担当した。この分担そのものはコインではなく適当に引いたカードの数字の大小を比べて決めたので、この段階で彼がコインを操作できる技術持ちだと見抜くのは難しい。そこさえ乗り切って賭けのテーブルに着かせてしまえば後は楽勝だ。
「おっさんがいかさましたのはどっちがコイントス係をするかカードを引いて決めたときで、コイントス自体は自分の技量で操作してただけだ。どうにかして係を取り上げるか、目で見て裏表を判別すりゃ勝てるぜ」
「は? そんなの君しか勝てないじゃないか」
「……そういうことはもっと早く教えてくださいよ……」
「いかさまを見抜けるかどうかで大盛り上がりしてたのはお前らだろうが。横から俺がネタばらししたら面白くねーだろ」
一番負けん気を出していたふたりが遅すぎる種明かしに恨めしげな顔をするが、アイオンはどこ吹く風だ。
通りでは酒場か小劇場へ向かう人の流れが次第に太くなっていっている。あれだけ声を張り上げていた呼び売り商人もそろそろ今日の仕事を終える頃合いだ。
するとオリバーがすすすとヘンリエッタの隣に寄ってきて、控えめに口を開く。
「……新聞、ヘンリエッタ様の記事ばっかりでしたね」
「ん? あはは、そーねぇ。ホント売れっ子はつらいよー」
でもヘンリエッタの帰還がこれだけ騒がれているんだから、ハイラントの奇行についてはまだ王宮の外へは漏れてないってことだ。それを確かめられたのは純粋に良かったし、ほっとした。たぶん貴族たちが必死で情報をせき止めてるんだろう。
オリバーは困ったように眉を下げて微笑む。
「前に僕も記事にされたことあります。アルトベリ家のアイオン殿下誘拐計画に加担した罪人が、恩赦を受けて殿下の部下に取り立てられるなんてあり得ない。やっぱり王家にはあの護国卿の裏切りを招くような後ろ暗い秘密があって、僕にもその一端を知られてしまったに違いないって決めつけられて」
「うわぁ、そりゃまた勘ぐられたねー。本当にそうならオリバーひとりだけ生かしておくわけないのに」
「はい。でもほとんど妄想みたいな内容なのに信じる人っているんですね。僕のことをなんと書こうが別にいいですけど、大恩ある方々についてあることないこと言われるのは……。恩返しどころか僕のことでこんなに迷惑をかけてしまって、なのに僕はここにいてもいいのか、ずっと悩んでました」
初めて会ったときから、オリバーは自己主張の少ない少年だった。それを思えばこうして苦悩を打ち明けてくれているこの瞬間がいかに貴重かも分かる。
ヘンリエッタは「うん」と穏やかに相づちを打ち、オリバーが話したいように話してくれればいいと伝えた。しかしここにいてもいいのかってのは結構深い問いだよね。そう思っちゃう気持ちは分かんないでもない。
「でも僕、今がとても幸せなんです。ヘンリエッタ様が帰ってきてくださって、殿下にお仕えできて……こんなに幸せなことはありません。きっとこの疑問が完全に消え去ることはないけど、そんなのより遙かに強い気持ちでここにいたいと願っているから」
たった今長い眠りから目が覚めたように清々しくオリバーはそう言った。
「ここにいるためならどんな努力もしようと思えます」
「……私も元気なオリバーと再会できて嬉しいよ。三年前はいいように使っといて何だけどね~」
「とんでもないです。殿下とヘンリエッタ様にはいくら感謝してもし足りません」
へらへら調子よく笑うヘンリエッタにオリバーは大真面目にかぶりを振る。
「ヘンリエッタ様が幸せなら僕も幸せです。だからどうか、ご自分を大切になさってください」
オリバーは真剣な目でそう懇願し、「僭越ですが正直僕もセーラも、ヘンリエッタ様が王太子殿下に絆されてしまわれないか心配なんです」と畏れ多そうに付け加えた。
……私どんだけちょろそうに見えてるの?
◆
日付が変わる頃、ヘンリエッタは王宮の自室にいた。
窓辺に立つと今まさに絶賛開催中の舞踏会の音楽が遠く聞こえる。百人をゆうに超える客人に軽食を用意しなければいけない厨房も給仕もフル回転で、窓を開けていると夜風に乗って香ばしい匂いもかすかに運ばれてくるし、ヘンリエッタでなくても今夜は寝付きが悪いに違いない。
衛兵こそ普段通りの数揃えられているが、他は良縁を求める貴族たちはもちろん下働きに至るまで猫も杓子も舞踏会、舞踏会だ。
みんなで町に遊びに出掛けていた日中は良かったが、ひとたび王宮に戻ってくると部屋に籠もっていようが一大イベントの気配がまとわりついてくる。
ハイラントの縁談、もうまとまったかなぁ。
窓枠に頬杖をついてぼんやり考える。
空に輝く金色の三日月のおかげで灯りをつけなくても充分明るい。
いい人と巡り会うのにぴったりな素敵な春の夜だ。
どっかのご令嬢と幸せそうに腕を組んで歩くハイラントを祝福する未来を頭の中でシミュレートしつつ、自分の心がざわついていないことにほっとする。
これなら大丈夫そうだ。魔力暴走なんかしない。当のハイラントがなにを言ってこようが揺らがずに、いやぁ良かったね、お幸せにって笑って言えるだろう。
……。
こういうことしてると、自分が本当はなにを考えてるのか分かんなくなってくるな。
どのみち結末はもう動かないんだから、いつまでもうだうだ考えるのは良くない。
ヘンリエッタはドツボに嵌まる前に頭を空っぽにしてただ柔らかな夜風に吹かれた。
眠れなくても目を閉じているだけで時間の流れは格段に優しくなる。
ぼんやりと遠くの音楽に身を委ねていたそのときだった。
「……、は、っ!?」
唐突に他人の魔力が火柱のように立ち上り、ヘンリエッタの全身を包む。
つい最近同じ感覚を味わったことがある、と反射的に記憶を遡ろうとしたが、閃光に目を瞑った次の瞬間には両足が草を踏んでいた。
――外だ。
一瞬前とは比べものにならないくらい間近で音楽が鳴っている。きらきらと闇を昼間のように染め上げる照明と大勢が品良く笑い合う声。ヘンリエッタはがくんと揺れた視界を持ち直し、慌てて顔を上げた。
「……ヘンリエッタ?」
「……」
顔に陰が差しそうなほど近くに、ほんの目の前に、ハイラントがいた。
いきなり現れたヘンリエッタに驚いている様子だ。
どうやらここは間違いなく舞踏会の行われている大ホールの裏庭で、ヘンリエッタは誰かの魔術によって転移させられてきたらしい。
誰かの……女王は王宮内から王宮内への移動に限れば自在に転移させられるとは聞いたが、さっきの魔力は彼女のものじゃなかった。王宮のセキュリティを考えれば相当な地位の人物にしか使えないようになっているはずの魔術を、誰が使った? なんのために?
どっと冷や汗がふきだし、安静に保たれていたはずの脳内が一転して大混乱に陥る。
さっきの今で対面するなんて夢にも思っていなかったハイラントがいることがよけい焦りに拍車を掛ける。
不幸中の幸いで周囲にはハイラント以外の人影はない。かといって身体の内側がすっかり凍えたようにすくみ上がっている暇はあまりないように思えた。
「……あ、……えっとごめん、私が忍び込んだんじゃなくて誰かが魔術で私をここへ……陛下に報告しなきゃ、もう行くねっ」
「待って」
素早く身を翻しかけたところで手首を掴まれ、つんのめる。
無理に振り払うこともできずに戸惑っていると、ハイラントが宥めるように言う。
「行かなくていい。気働きのできるギャレイが、誰かに頼み込んで君をここに送ってくれたのかもしれない。先ほどから姿が見えない」
「……ギャレイ宮廷伯が?」
「あぁ。私を気遣ってくれたんじゃないかな」
「……」
私をここへ寄越すことがハイラントのためになる理由ってなに。
本当にギャレイがやらせたことなのか?
ワイヤード団長にせよ女王にせよ、どんなに懇願されたってこんなくだらないことにホイホイ協力するとは思えない。
ヘンリエッタは困惑を深めるばかりだが、ハイラントのほうは同じ懸念に思い至っていないわけがないのに落ち着いている。よっぽどギャレイの仕業だという確信があるのか、ギャレイの名前を出したのが場を収める方便だとしても真犯人を知っているような態度だ。少なくとも、彼は犯人を放置しても害はないと考えている。
ヘンリエッタは視線をうろつかせ、掴まれたままの手首に落とす。
「……手……」
「あ……すまない」
ハイラントは慌ててヘンリエッタの手首を解放し、警戒されないようにあえて少し距離を取った。
……このまま話を続けたいらしい。
いやいやいや冗談じゃないよ、こんなとこ誰かに見られたら逢い引きかなんかだと誤解されるに決まってるじゃない。なんとか角が立たないようにこの場を去って真相を究明しないと。
ヘンリエッタは圧迫感の残る手首をさすりながら愛想笑いを浮かべる。
「も……もう中に戻ったほうがいいんじゃない? 殿下を待ってる人いっぱいいるでしょ?」
急かしてみるがハイラントは動かない。
和気藹々とした会話でも演出したいのか苦笑を浮かべ、
「いないよ。今夜だけで貴族たちから何人も紹介されたけど、ぜんぜん心惹かれなかった。でも断ることに全く罪悪感がないわけじゃないし、気詰まりになって庭に出てきたところだったんだ」
「……へ、へぇ」
思考が止まる。ハイラントはヘンリエッタの反応をうかがうように苦笑を浮かべたままこっちを見つめている。本当にみんな断っちゃったの?
いやちゃんと考えろ、対処しなきゃ。回転の鈍った思考を無理矢理動かす。ハイラントが縁談を断り、それをわざわざ報せたってことはまだヘンリエッタに復縁を申し込んでくるつもりかもしれない。……愛情以外のなんらかの打算によって。
「殿下さぁ、そういうのは私に言わないでよー。まさかとは思うけど断りづらくなるようにプレッシャー掛けてる?」
小馬鹿にしたように笑ってみせれば気分を害して話を切り上げてくれないだろうかと思ったが、その願いは叶わなかった。
ハイラントにはヘンリエッタの皮肉に付き合う余裕さえある。
「そういう効果を期待してたのは否めないな」
「ふーん。あいにくだけど私には効かないよ?」
「それでこそ君だな。一筋縄ではいかない」
……ダメだ会話を引き延ばされる。逃がしてもらえそうにない。
王妃になってほしいと言われたその事実だけを漠然と胸に抱いて、なにもかもに諦めを付けられたら良かった。でも、できるなら問いただしたくなかった、解析せずに持て余したままでいたかった疑問から、これ以上目を逸らしてはいられないらしい。
ヘンリエッタは覚悟を決めて口を開いた。どんな答えが返ってきても構わない。ハイラントの真意は私が聞き出すんだ。
「……言葉遊びはもう充分。ねぇ殿下、逃がしてくれる気がないならここでハッキリ答えて。私に王妃になってほしいなんてどうして言い出したの?」
自分で自分の病巣を切開するような苦痛を堪え、静かに問いかける。
「三年前にも証明してみせた通り、私は仕事は仕事としてちゃんとするから。それは陛下にも信じてもらえたし、殿下ももう、王太子だからって国のために自分の幸せを犠牲にして私と結婚しなくていい。本当はずっと私のことが怖かったんだって言ったのは殿下でしょ。……いまだに自分の気持ちを殺すことが責務だと思ってるなら、もう自由になっていいんだよ。私も殿下から離れたい」
あの再プロポーズが打算によるものだとこっちが見抜いていることを明かせば、王太子として常に強くあろうとするハイラントは恥じ入って、こんな企みそもそも不必要だったと分かってくれるだろう。
ならもういいかとあっさり申し出を引っ込めるに違いない。
そんなの最初から分かりきってた。今までは具体的な言葉にして図星を突きにいくのを避けようとして、防波堤になってくれるアイオンに甘えちゃってたとこもあったけど。それじゃダメだよね。
ハイラントには幸せでいてほしい。それは紛れもなく本心だから、やっぱり私は隣にはいられないし、いるべきじゃない。終わりにするべきだ。
ハイラントはこっちをまっすぐに見返していた。
その目の中に燃えている異様ななにかにぎくっとする。
「いいや、ヘンリエッタ。それは不可能だ。君は私から離れられない」
「死者蘇生の禁術を使って君をこの世に蘇らせたのは、私なんだから」
「――――は?」
「三年間表舞台から姿を消していた事実と辻褄を合わせるために、私にさえ嘘をつかざるを得なかったんだろうが、君はあの日確かに死んだ。奇跡的に生き延びてなんかいなかった。だろう?」
「……なにを……」
なにを言ってる?
「ヘンリエッタ、奇跡でも偶然でもない再現可能な技術として、死者蘇生術は実在するんだよ。君に目の前で命を絶たれ、途方に暮れていた私を案じてギャレイが話を持ちかけてくれた。この三年間、過去の文献を当たり試行錯誤を重ね、ようやく成し遂げることができたんだ……君とまたこうして再会できる日を何度夢見たか!」
ハイラントの言葉の意味が分からない。冷え切った死人の手で心臓をわし掴まれたように全身が硬直する。
濁流のように耳に流し込まれる情報を必死で理解しようとしても、なにひとつ手元に残ってくれない。
待ってよ時間が、時間が足りない。
「君は私の戦果だ」
ハイラントは熱の籠もった目で噛んで含めるように言う。
……このひと誰?
ハイラントがこんなこと言い出すはずがない。
お母さん譲りの髪や目の色も、整った顔立ちも記憶にあるハイラントと寸分違わないのに、月明かりを背にした彼は別人に見える。
このひと本当に、私の好きな人?
ハイラントが一歩こちらに踏み出す。
ヘンリエッタは肩を跳ねさせ、反射的に腰を引いた。……怖い。そうか、私いま怖がってるのか。……ハイラントのことが怖いなんて、そんな。
「離れるなんて選択肢はない。私たちはずっと一緒だ。ふたりでこの国を率いていく。君は私が望んだから、ここにいるんだよ」
「……ちがう……」
呆然としているのに、考えるより先に否定が口をついていた。
――――違う。
それは絶対違うって言い切れる。
私はハイラントの死者蘇生術には応えなかった。どうしてかそう分かる。
動転していた頭がさっと冷え、さっきまでの臆病さが嘘みたいに強気になれた。
突然言い返されて怪訝そうに眉をひそめるハイラントに、もう一度きっぱりと言う。自分で自分の気持ちを確かめるためにも。
「違う。私、殿下に呼ばれて戻ってきたんじゃないよ」
だって、そうだよ。私が道理をねじ曲げてまで応えてあげたいと思える相手は、殿下じゃないんだもの。
ハイラントはこぼれ落ちそうなほど目を見開いて固まった。
拒絶されるなんて欠片も予想していなかったらしい。
ふたりの間に沈黙が下り、ホールから漏れ聞こえてくる音楽が一気に存在感を増す。
もう分かった。ハイラントがどれほど傷ついた様子を見せてきたとしても、この答えを考え直すことはない。
これが今の私の全て。私の行き着いた場所だ。
「でんか」
そして、第三者の声が降って湧いたのはこのときだった。
すっかり周囲の状況を忘れ去って話し込んでいたふたりは驚いて声のほうを振り返った。
そこにはギャレイが立っていた。
表情は虚脱しているのに身体は奇妙に強ばっていて、出来の悪い人形のようだ。
光の消えたうつろな目を縋るようにハイラントへ向けながら、ギャレイは蚊の鳴くような声で言う。
「……でんか、ツィドスへいかが、わたしを……おにげ……くださ……っ」
「――ハイラント下がって!!」
ヘンリエッタは異変を悟ってとっさにハイラントを庇おうとしたが、次の瞬間ギャレイから膨大な魔力がほとばしり、周囲が嵐のような破壊に見舞われる。
魔力の奔流自体で手傷を負うことはないものの、地面が瞬く間にえぐれたせいで転倒してしまう。目がくらみ、一瞬意識が飛びかける。
春の花々が咲き乱れる美しい庭は見る影もないほど破壊されて、ハイラントとギャレイの行方も分からなくなった。




